(…)
日米交渉という、対内対外ともに難航を極める交渉に取り組む茂徳は、
ハル・ノートが到着するまでは、生き生きとして、戦う意欲が体内から滲み出ていた。
それが、この日を境に、暗く、重苦しいものと変わっていったというのが、
毎日、父を傍らで見ていたいせの印象である。
―「ハル」公文に接した際の気持ちは今に忘れない。それまでは全力を尽くして闘いかつ活動したが、
…戦争を避けるために眼をつむって鵜呑にしようとしてみたが喉につかえて迚も通らなかった(『時代の一面』)。
―我が力の足らざるを謝すよりも、我が誠意の認められざるを恨む気持ちの方が強かった。
其後は働く熱がなくなった。此が幾分の過失とも言ふべきか(草稿「時代と外交」Ⅲ-6)
ここに、茂徳は、再び辞職を考える。佐藤尚武顧問をはじめ相談にのった人々の意見は、任に留まり、
最後まで努力すべしというものだった。佐藤は、たとえハル・ノートのようなものが来たからといって、
絶望せずになんとか危機を脱する方法を見つけなければならぬと考え、前後三回にわたり、茂徳と、
息詰まるような議論を交わしたという(佐藤のメモワールより)。
「第五章 開戦内閣の外相 V.ハル・ノートへの怒り」より