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2015年9月17日木曜日

書庫(59):東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」より

(…)
 日米交渉という、対内対外ともに難航を極める交渉に取り組む茂徳は、 ハル・ノートが到着するまでは、生き生きとして、戦う意欲が体内から滲み出ていた。 それが、この日を境に、暗く、重苦しいものと変わっていったというのが、 毎日、父を傍らで見ていたいせの印象である。
 ―「ハル」公文に接した際の気持ちは今に忘れない。それまでは全力を尽くして闘いかつ活動したが、 …戦争を避けるために眼をつむって鵜呑にしようとしてみたが喉につかえて迚も通らなかった(『時代の一面』)。
 ―我が力の足らざるを謝すよりも、我が誠意の認められざるを恨む気持ちの方が強かった。 其後は働く熱がなくなった。此が幾分の過失とも言ふべきか(草稿「時代と外交」Ⅲ-6)
 ここに、茂徳は、再び辞職を考える。佐藤尚武顧問をはじめ相談にのった人々の意見は、任に留まり、 最後まで努力すべしというものだった。佐藤は、たとえハル・ノートのようなものが来たからといって、 絶望せずになんとか危機を脱する方法を見つけなければならぬと考え、前後三回にわたり、茂徳と、 息詰まるような議論を交わしたという(佐藤のメモワールより)。

「第五章 開戦内閣の外相 V.ハル・ノートへの怒り」より

2015年6月26日金曜日

書庫(39):東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」より

(…)
 この六日間、茂徳は、事態を一歩ずつ前進させるために、一つひとつの段取りに気を配ってきた。 十日の聖断を仰ぐ前には、首相に対し、陸相の辞任などにより、内閣の機能が脅かされることのないように注意して欲しいと内話し、 十二日には、バーンズ回答受諾を目指し、精力的な根回しに動いた。 その茂徳が、いつ聖断方式を心に決めたのかは、関係記録などを見てもはっきりしない。
 第1回の聖断については、重光葵が、近衛と連絡を取り、陛下に多くを煩わせるのを躊躇する木戸を説得した(九日)という説、 左近司国務相と米内海相の会談中、左近司が提案したという説、第二回は、木戸が、鈴木に説いた(十四日朝)という説などがあるが、 おそらくは鈴木首相自身、永く暖めてきた秘策だったのだろう。
 聖断を仰ぐための御前会議の設定に、能吏としての器量を発揮したのは迫水だった。第一回は、幹事も含めた最高戦争指導会議に平沼枢相を加え、 陛下の御臨席を仰いだが、招集には両総長の印が必要だった。緊迫した情勢下で、花押を改めてもらうのは難しいと判断した迫水は、 この事態を予期してすでに貰ってあった両総長の花押を無断で使い、会議を招集した。二回目は、政府(内閣)、統帥部、枢府が、 陛下のお召しにより参上するという異例の形式で、やはり迫水の発案によっている。
 二回にわたる御前会議は、まことに感動的なものだった。
 天皇は第一回目のお言葉で、「それならば、私の意見を述べよう。私の意見は、外務大臣の意見に賛成である」と述べられた。 本土決戦になった場合に予想される惨状、日本民族が絶滅する恐れ、それらを考えると、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任の処理など、 忍び難きを忍び、戦争をやめる決心をした、とのお言葉だった。
 十四日午前十時の臨時閣議に引き続き、第二回御前会議は、午前十時五十分に御文庫地下防空壕で開かれた。 主催した鈴木首相は、「外務大臣の意見に閣議の大多数は賛成であるが、統帥部を含め、反対の意見をお聞き願いたい」という形で議事を進行させた。 阿南陸相、両総長の再照会論のあと、天皇のお言葉となった。
 「私は、世界の現状と国内の事情とを充分検討した結果、これ以上は戦争を続けることは無理だと考える。 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、 この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。」
 茂徳のこれまでの考え、主張してきたことが、今、大御心のなかに語られていた。岳父の言葉を口述筆記していた文彦は、 珍しく感情を露わにした姿を心に刻んでいる。
 「聖断のあと、非常にエモーショナルだった。メモを口述しながら、涙を浮べていたね」(文彦)
 茂徳自身が、「誠に感激この上もなき場面であった。今日なおその時を想うとはっきりとした場面が眼の前に浮かび泪が自づとにじみ出る」 (『時代の一面』)と記した感慨以外にも、獄中のメモには、当時の心境についてこう触れている。
 ―終戦直後の感想 戦ひに負けたのはくやしい。併し勝敗の明かな戦争を続けて数百万の生霊を殺すのは人道に反し大和民族を亡ぼすことにもなる。 されば生命を犠牲にし終戦に力を致し之に成功したのは人生最高の義務を果したので、我事畢れりの感が胸一杯であった(Ⅰ-47)
(…)

「第六章 終戦内閣の外相 X.最後の六日間」より

2015年2月7日土曜日

書庫(16):東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」より

幼年時代を過ごした東京麻布の洋館。見上げるように高い天井の、二階へ通ずる階段を上がった奥の部屋。 ずっしりと重い木の扉の向こうに、その人はいる。濃い緑かえび茶色の和服を着て、髪は随分と白くなっている。 背はそれほど高くない。眼差しがじっとこちらに注がれている。なにか、暖かいものに包まれているような気がする。

両親に連れられて行った、どこか厳めしい建物。くすんだ色のシャツとズボンのその人の膝の上に乗っている自分。 そばには、丸く白いヘルメットに制服の外国の兵隊さんたちがいる。ある日「おじいちゃまがお家に帰ってくると、 兵隊さんたち、さびしくならないの」と母に言った時の、まわりの大人たちの間に起きた小波のような笑い。

「おじいちゃま」と、子供の頃より呼んでいたその人の直接の記憶は朧である。自らの体験、後になって聞かされた話、 あるいは、当時の写真などを見ているうちに定着したイメージ。そうしたいくつかが、混然とした思い出となって 心の底に残っているだけである。

私が五歳の時に世を去った祖父の記憶がとくに限られているのは、一歳と五ヵ月の時に獄中の人となったからだと思う。

今回、はからずも祖父の伝記を書くことになり、獄中での遺品を整理していた時、祖父が日頃つけていた手帳日記に 五枚の写真が挟みこまれているのを見つけた。いずれも、麻布の家の庭などで遊んでいる幼い私や、双子の弟の写真だった。 当時の私たちが描いたキリンや馬、鉛筆、おもちゃの電話、バスケットなどの絵も雑然とした書類の中に挟まれてあった。

祖父は、獄中から家族にたくさんの手紙を書いている。そのなかには、双子の孫の教育に関し、様々な意見や注意が記述され、 時には率直な愛情が吐露されていた。

「茂坊及和坊のにこにこしたすがたがいつも眼の前に浮かんで来るが、身体も精神も健全に発育するやうに祈って居る」 「兎に角全体としては、正直な、よく働く人間に育て上げる方針が安全である」(二十三年七月七日付)。 「幼年の頃には成人の後には偉い人になるとの奮発心と、他方如何なる場合にも正直に、且つ真直の途を履み進むやうにすることが根本と思ふ」 (同年九月十二日付)。

男の子は、弱虫にならないよう、困難に耐え、精神的にも肉体的にも鍛錬すること、生涯の基礎となるような良い習慣を身につけさせる。 贅沢は最も害をなす―といった原則論から、日本語や日本史、漢字の習得に小さいうちから力を入れておくと良いなど、私の受けた教育を今振り返ると、 「あれは祖父の指示に基づくものだったのか」と思い当たる節が多かった。

 軒ばなる雀にもがな麻布なる
   児等と遊びて後帰りこむ(二十三年四月)

 こどもらのよきたより聞きてセメントの
   冷たき室にも熟睡せるかも(二十五年四月)

などの和歌を詠んだ祖父の肉筆を見、獄中の心境を想う時、心中に、熱いものがこみ上げてくるのを押さえることが出来ない。

東郷茂徳。太平洋戦争の開戦と終戦時の外務大臣をつとめ、東京裁判に於て禁固二十年の刑を受け、獄中で死んだ祖父は、 我が家では「絶対」の存在であった。日本を戦争に導かぬよう心血を注ぎ、一旦戦いが始まると、その終結のために身命を捧げ、 本土が戦場となる前に大戦を終わらせ、国と世界を救った―その業績と人に対する畏敬。常に家族を大きな愛情で包んでくれていながら、 身内の誰一人にも看取られることなく、獄中で世を去らねばならなかったことへの無念と怒り。「おじいちゃま」について語られる時、 家族の心の底にはそれらの混じりあった強い感情がいつもあったのではないかと思う。

(「プロローグ」より)

2015年1月18日日曜日

書庫(4):形影神・神釋(陶淵明)の末尾四句 昭和20年9月14日

(…)十四日、茂徳は、エディと文彦とともに、東京へ向かった。この日の朝、茂徳は、 次のような中国古典の詩に己れの心境を託し、墨書して家族に渡している。 (東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」, 406頁)

縱浪大化中
不喜亦不懼
應盡便須盡
無復獨多慮
 乙酉九月 青楓


*   *   *
<参考>

形影神・序


貴賤賢愚、莫不營營以惜生、斯甚惑焉。 故極陳形影之苦、言神辨自然以釋之。 好事君子、共取其心焉。

形贈影


天地長不沒
山川無改時
草木得常理
霜露榮悴之
謂人最靈智
獨復不如茲
適見在世中
奄去靡歸期
奚覺無一人
親識豈相思
但餘平生物
擧目情悽而
我無騰化術
必爾不復疑
願君取吾言
得酒莫苟辭

影答形


存生不可言
衞生毎苦拙
誠願遊崑華
獏然茲道絶
與子相遇來
未嘗異悲悦
憩蔭若暫乖
止日終不別
此同既難常
黯爾倶時滅
身沒名亦盡
念之五情熱
立善有遺愛
胡爲不自竭
酒云能消憂
方此何不劣

神釋


大鈞無私力
萬理自森著
人爲三才中
豈不以我故
與君雖異物
生而相依附
結托既喜同
安得不相語
三皇大聖人
今復在何處
彭祖愛永年
欲留不得住
老少同一死
賢愚無復數
日醉或能忘
將非促齡具
立善常所欣
誰當爲汝譽
甚念傷吾生
正宜委運去
縱浪大化中
不喜亦不懼
應盡便須盡
無復獨多慮