(…)
「こんちくしょうだったよ」―。
外務省でロシアとかかわることになってすぐのことだったかと思うが、
母、いせに、私の祖父、東郷茂徳にとって、また終戦の頃の日本人にとって、
ソ連という国はどんなものだったかについて尋ねたことがあった。
その時、母は語気を荒げてそう答えた。
母は、茂徳とドイツ人の妻エディの間に生まれた、一人娘だった。
”外交官のお嬢さん”として祖父の赴任先の欧米各国を回っていたために、
日本での正規の教育はほとんど受けたことはなく、
勉強は外国人の家庭教師から教わっていた。
そのせいもあってか、言葉に関しては多少ハンディを抱えることになった。
英語とドイツ語は「ネイティブ・スピーカー」だったものの、
日本語に関しては生涯そのレベルには達しなかったのである。
実際、母が自分の楽しみのために読む本は、英語かドイツ語のものばかりで、
日本語の本を読んでいる姿は見たことがなかった。
私の父親の東郷文彦もアメリカ畑の外交官だったが、私が高校や大学時代に、
父の赴任先に同行した母から送られてくる手紙は、漢字はほとんどなくて、
丸い可愛らしい字で書かれた平仮名ばかりだったのをよく覚えている。
母は日本語は基本的に祖父茂徳と、父文彦との会話の中で学んだために、
「こんちくしょう」という、女性には似つかわしくない男言葉が飛び出してきたのである。
それでは、何が「こんちくしょう」だったのか。
祖父、東郷茂徳は、太平洋戦争の開戦時と終戦時に外務大臣を務めた。
開戦前には東条英機内閣の外務大臣として日米交渉にあたり、戦争の回避に全力を尽したのだが、
交渉は決裂。茂徳は開戦の詔勅に署名、一九四一年十二月八日真珠湾攻撃によって日米戦争が始まった。
一方、四五年には再び鈴木貫太郎内閣の外務大臣に就任。総理の覚悟が終戦にあることを確認した上で、
それを実現するための決死の入閣であった。
まず、総理、外相、陸相、海相、陸軍参謀総長、
海軍軍令部総長の六者からなる最高戦争指導会議を定期的に開催することとし、
補佐の人間を拝することにより、本音で話し合う関係をこの六者の間で作っていった。
当時は、世評においては「一億玉砕」などの勇ましい意見が風靡し、戦争終結工作には暗殺の危険すらある時代だった。
そのため、最高戦争指導者たちの本音の議論は、絶対に外に漏れてはならなかったのである。
この会議で、六者共通の関心事項は、ソ連を仲介とした終戦の調停だった。
この時、ソ連は、連合国の中で日本と戦争状態に無い唯一の大国であり、
軍部も、交渉によりソ連の脅威を減殺することには、かなりの関心をもっていた。
しかしながら、広田弘毅元総理を特使とする箱根におけるマリク駐日ソ連大使との会談、
モスクワにおける佐藤尚武大使とモロトフ外相との会談、
さらに近衛文麿特使の派遣も検討されたが、いずれも、はかばかしい効果をもたらさなかった。
ソ連はすでに、四五年二月ヤルタ会談の時点で対独戦終了後、二ヶ月から三ヶ月以内に対日参戦することを決めており、
スターリンには、日本からの仲介要請を真剣にとりあげる意図はまったくなかったのである。
そして、八月八日未明、日ソ中立条約が未だ有効だったにもかかわらず、
ソ連軍は、当時の満州国国境へと殺到したのだった。
八月六日に広島、九日には長崎に原子爆弾が投下されたことともあいまって、このソ連の対日参戦により、
日本の敗戦は、いよいよ決定的な状況になった。
この時、それまで戦争終結工作を軸として行われてきた密室での議論によって、六人の最高戦争指導者の間には、
言葉で表現できない暗黙の心理的な基盤が出来上がっていた。
そして、そのことが、一部の陸軍将校が玉音放送の録音盤奪取事件を画策するなどの動揺があったにもかかわらず、
とにかく平穏裡に終戦にこぎ着けることが出来た、最大の要因となったのである。
七月二十六日にポツダム宣言が発出された後、原爆の投下とソ連の参戦という悲劇を甘受しながらも、
ともかく八月十五日に戦火を収め得たことは、茂徳の人生にとって、「なすべき事を果たした」終生の事業となった。
終戦を決めるプロセスにおいては軍部の考え方を代表し、和平をめぐる条件について茂徳と激論をかわし、
終戦の御聖断の後、粛然と自決され、自らの死をもってはやる軍部への重しとなった阿南惟幾陸軍大臣も、
おそらくは、同じ思いだったのではないだろうか。
しかしながら、有効な中立条約を無視した参戦、約六十万の日本兵のシベリア抑留、
さらに、日ロ間の平和裡な国境画定によって日本領であることを何人も疑っていなかった北方領土の占領など、
四五年夏から秋にかけてとられたソ連の行動は、当時の日本指導部と日本人の中に、激しい怒りと心の傷を残した。
開戦から終戦まで、母は、私邸にあってその多くの時間を祖父茂徳とともに過ごした。
当時の日本の指導者が、命をかけて終戦を実現しようとしていたのをその横で感じていただけに、
ソ連の背信行為に母は、おもわず「こんちくしょう」と述べたのだと思う。
それは、遺著『時代の一面』の中に、
「『ソ』聯の態度は後日歴史の批判を受くべきものだ」とその無念さを述べた茂徳の心情でもあったに違いない。
「こんちくしょう」
それはまた、ある意味で、私の原点にもなった。私は、できるだけ日本の国益が大きくなるような日ロ関係を構築すべく、
仕事人生の大半のエネルギーをかけた。そのためには、日ロの当局者の信頼関係の構築を不可欠と考えた。
しかしながら、心の中において、片時も、「こんちくしょう」との思いが消えたことはなかった。
(…)
「第二章 ロシアとの出会い―青年外交官時代」より
2015年8月9日日曜日
2015年1月18日日曜日
書庫(5):東郷和彦「北方領土交渉秘録」より
(…)
祖父茂徳の一人娘である母いせは晩年に癌を患い、一九九七年夏、すでに死の床にあった。
七月の末、たまたまベッドの脇にいた私に、母はふいに、祖父が外交の仕事で何が一番大切だと言っていたのか知っているかと問いかけてきた。
一瞬、答えに窮していると、母は「交渉で一番大切なところに来た時、相手に『五一』を譲りこちらは『四九』で満足する気持ちを持つこと」と言った。
その答えは私には意外に思えた。
祖父は、交渉においては不屈の意志と徹底したがんばりを貫き通した人物だた。ノモンハン事件の事後処理に際してはソ連のモロトフ外務人民委員とぎりぎりの交渉を繰り広げ、太平洋戦争末期には「国体の護持」を唯一の条件として戦争終結を主張し、徹底抗戦を唱える主戦派をねばり強く説得し続けた。
(…)
当惑した私に母は、「外交ではよく、勝ちすぎてはいけない、勝ちすぎるとしこりが残り、いずれ自国にマイナスとなる。だから、普通は五〇対五〇で引き分けることが良いとされているでしょう」と続けた。
「でも、おじいちゃまが言ったことは、もう少し、違うのよ。交渉では、自分の国の、眼の前の利益を唱える人はいっぱいいる。でも、誰かが相手のことも考えて、長い目で自分の国にとって何が一番よいかを考えなくてはいけない。最後のぎりぎりの時にそれができるのは、相手と直接交渉してきた人なのよ。その人たちが最後に相手に『五一』あげることを考えながらがんばり通すことによって、長い目で見て一番お国のためになる仕事ができるのよ。」
この会話から数日たって、母は他界した。
それから折に触れ、私は、東郷茂徳にとって「五一を相手に譲り、四九をこちらに残す」ということが、何を意味していたのかを考えるようになった。
明らかに、ここでいう「五一対四九」とは、足して二で割るとか、大体半々くらい譲歩するとか、そういうことを意味してはいなかった。私には、母が死の床から述べていたように、それは交渉がぎりぎりの時点に来たときに、自分の立場だけではなく、相手がどういう立場にたっているかを理解する意思と能力の問題であるように思われた。
(…)
(エピローグ 歴史への証言)
祖父茂徳の一人娘である母いせは晩年に癌を患い、一九九七年夏、すでに死の床にあった。
七月の末、たまたまベッドの脇にいた私に、母はふいに、祖父が外交の仕事で何が一番大切だと言っていたのか知っているかと問いかけてきた。
一瞬、答えに窮していると、母は「交渉で一番大切なところに来た時、相手に『五一』を譲りこちらは『四九』で満足する気持ちを持つこと」と言った。
その答えは私には意外に思えた。
祖父は、交渉においては不屈の意志と徹底したがんばりを貫き通した人物だた。ノモンハン事件の事後処理に際してはソ連のモロトフ外務人民委員とぎりぎりの交渉を繰り広げ、太平洋戦争末期には「国体の護持」を唯一の条件として戦争終結を主張し、徹底抗戦を唱える主戦派をねばり強く説得し続けた。
(…)
当惑した私に母は、「外交ではよく、勝ちすぎてはいけない、勝ちすぎるとしこりが残り、いずれ自国にマイナスとなる。だから、普通は五〇対五〇で引き分けることが良いとされているでしょう」と続けた。
「でも、おじいちゃまが言ったことは、もう少し、違うのよ。交渉では、自分の国の、眼の前の利益を唱える人はいっぱいいる。でも、誰かが相手のことも考えて、長い目で自分の国にとって何が一番よいかを考えなくてはいけない。最後のぎりぎりの時にそれができるのは、相手と直接交渉してきた人なのよ。その人たちが最後に相手に『五一』あげることを考えながらがんばり通すことによって、長い目で見て一番お国のためになる仕事ができるのよ。」
この会話から数日たって、母は他界した。
それから折に触れ、私は、東郷茂徳にとって「五一を相手に譲り、四九をこちらに残す」ということが、何を意味していたのかを考えるようになった。
明らかに、ここでいう「五一対四九」とは、足して二で割るとか、大体半々くらい譲歩するとか、そういうことを意味してはいなかった。私には、母が死の床から述べていたように、それは交渉がぎりぎりの時点に来たときに、自分の立場だけではなく、相手がどういう立場にたっているかを理解する意思と能力の問題であるように思われた。
(…)
(エピローグ 歴史への証言)
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