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祖父茂徳の一人娘である母いせは晩年に癌を患い、一九九七年夏、すでに死の床にあった。
七月の末、たまたまベッドの脇にいた私に、母はふいに、祖父が外交の仕事で何が一番大切だと言っていたのか知っているかと問いかけてきた。
一瞬、答えに窮していると、母は「交渉で一番大切なところに来た時、相手に『五一』を譲りこちらは『四九』で満足する気持ちを持つこと」と言った。
その答えは私には意外に思えた。
祖父は、交渉においては不屈の意志と徹底したがんばりを貫き通した人物だた。ノモンハン事件の事後処理に際してはソ連のモロトフ外務人民委員とぎりぎりの交渉を繰り広げ、太平洋戦争末期には「国体の護持」を唯一の条件として戦争終結を主張し、徹底抗戦を唱える主戦派をねばり強く説得し続けた。
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当惑した私に母は、「外交ではよく、勝ちすぎてはいけない、勝ちすぎるとしこりが残り、いずれ自国にマイナスとなる。だから、普通は五〇対五〇で引き分けることが良いとされているでしょう」と続けた。
「でも、おじいちゃまが言ったことは、もう少し、違うのよ。交渉では、自分の国の、眼の前の利益を唱える人はいっぱいいる。でも、誰かが相手のことも考えて、長い目で自分の国にとって何が一番よいかを考えなくてはいけない。最後のぎりぎりの時にそれができるのは、相手と直接交渉してきた人なのよ。その人たちが最後に相手に『五一』あげることを考えながらがんばり通すことによって、長い目で見て一番お国のためになる仕事ができるのよ。」
この会話から数日たって、母は他界した。
それから折に触れ、私は、東郷茂徳にとって「五一を相手に譲り、四九をこちらに残す」ということが、何を意味していたのかを考えるようになった。
明らかに、ここでいう「五一対四九」とは、足して二で割るとか、大体半々くらい譲歩するとか、そういうことを意味してはいなかった。私には、母が死の床から述べていたように、それは交渉がぎりぎりの時点に来たときに、自分の立場だけではなく、相手がどういう立場にたっているかを理解する意思と能力の問題であるように思われた。
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(エピローグ 歴史への証言)
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