2015年1月18日日曜日

書庫(3):牛村圭「「文明の裁き」をこえて」より

(…)一方、東郷に対しては戦後、「『ハル・ノート』を受諾出来なかった筈はない」[256]という非難が向けられるようになった。批判者が実は戦前日独防共協定締結の熱心な賛成者だった、というような主義・主張の変節ぶりを指摘[257]した後、東郷は次のように他策がなかったことを書き遺した。

…「ハル」公文を受諾した後の日本の位地が、敗戦後の現在の地位と大差なきものとなるべきであることは又疑の余地はない。されば戦争による被害がなかつた丈け有利ではなかつたかとの考があるかも知れぬが、これは一国の名誉も権威も忘れた考へ方であるので論外である。[259]

また別の箇所では「誰れの内閣であらうと大陸から全面的に撤退しない限り戦争」[195]と書き、大陸からの日本軍隊・警察の全面撤退要求事項を含むハル・ノート接到以降は、開戦しか道がなかったことを力説した。(第9章 文明批評家 東郷茂徳 -『蹇蹇録』を併せ読む『時代の一面』)

*   *   *
(…)しかし東郷茂徳には終生、一つのささやかな満足感があった。それは多大の障害を乗り越えて、昭和二十年夏に、戦争を終結できたという思いに他ならない。昭和二十二(一九四七)年十二月、極東国際軍事裁判の証言台に立った彼は、長文の宣誓口供書を次のように締めくくった。

一九四一年に戦争を阻止し得なかったことは余の生涯に於ける大なる痛痕(ママ)事であったが、一九四五年之を終結に導き人類の苦悩を軽減することに寄与し得たことは以て聊か慰めと為す次第である。[337・19]

第二次世界大戦での敗戦で終わる帝国日本最後期の外務大臣をつとめた東郷茂徳、彼が宣誓口供書をこう結んでからまた半世紀の時が経った。(第9章 文明批評家 東郷茂徳 -『蹇蹇録』を併せ読む『時代の一面』)

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