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2018年10月8日月曜日

書庫(61):『東京裁判A級戦犯25被告の表情』(読売法廷記者)より

脅迫された外交官 東郷茂徳被告

鹿児島県出身 67歳
駐独大使(昭和12年10月)
駐ソ大使(昭和13年10月)
東條内閣外務大臣兼拓務大臣(昭和16年10月~同17年3月)
鈴木内閣外務大臣兼大東亜大臣(昭和20年)


 "開戦外相"東郷被告が自身一生の信念をかけたという口供書(日本文130ページ)が朗読されたのは12月17、18両日であった。
 東郷被告は彼の立場を「戦争を好まぬ平和主義者」という主張の上におき、軍部の抑圧下に外務省本来の機能が満洲事変以来極度に失われていった過程を描き出したのであったが、それは木戸被告が「私の一生は軍国主義者と闘うことに捧げられてきた」と終始軍部の罪禍を強調したのと著しい相似点をなしていた。
 口供書は6つの部分にわけられ第1章一般問題、第2章ソ連関係、第3章ドイツ関係、第4章英米関係及び太平洋戦争、第5章戦時外交及び大東亜関係、第6章鈴木内閣及び終戦となっている。
 対ソ協調論者であり三国同盟反対論者であり英米との持続的平和論者であったとする東郷被告が何故東條内閣の外相として真珠湾攻撃をもって開始された太平洋戦争に同意したのであったか、検察側の主たる訴追が疑いもなくこの1点にかゝっていたと同じように東郷被告の自己弁論の中核もまたこゝにあった。東郷口供書には大要次の如く述べられている。
『昭和16年10月17日余は東條大将より外相として入閣を求められた。余はもし陸軍が支那駐兵問題で強硬態度をとるならば交渉継続は無意味であり外相就任は拒絶するほかないと述べたが東條は駐兵問題を含め日米交渉の諸問題は再検討すると保証を与えたのえ就任を受諾した。勿論軍部が日米交渉に就いて強硬態度をとるであろうことは当初より明らかであったが余はなお両国のために事態を解決し平和を維持する幾分かの余地があると信じたからである。10月23日の最初の連絡会議で杉山参謀総長は急速解決の要を強調し、9月6日の御前会議決定は9月中は外交を主とし戦争準備を従とするも10月上旬よりは戦争準備を主とし外交を従とするにあったと主張した。塚田参謀次長はさらに悲感的非妥協的で日米交渉の妥結は全く見込みなく英米がすでに経済断交をし日本の包囲を強化しているから直ちに自衛の手段をとるべきあると主張した。余はかゝる統帥部の態度に反対し意見の対立を解決するため連日連夜連絡会議を続け議論を交えた。交渉に関する重要点は三国同盟問題、中国における通商無差別問題及び駐兵問題の三であった。野村大使の報告によれば最初の二点は大体了解が成立したとのことであった。よって余は連絡会議で未解決の最重要問題と認められた中国の駐兵問題につき米国と合意に達するために出来うる限りの譲歩をすべく努力を集中した。しかし連絡会議の多数は中国の特定地域よりの撤兵の原則には反対特に陸軍側は特定地域における無期限駐兵の必要を強調した。余はこれに反対し期限付駐兵の同意を得たが余が豊田案の五年を提案したのに対し強く反対され結局大体二十五年とすることに決定した。これに関連して仏印問題につき余は協定成立の場合直ちに南部仏印より撤兵する件につき陸軍の同意を得た。余は十月下旬の連絡会議の動きから予想した陸軍の強硬態度と同様に海軍の態度が強硬なのに驚いた。余は海軍の長老たる岡田大将に使を派し海軍の態度緩和を申入れた。かくて甲案、乙案の基礎の上に交渉を進めるよう決定したがその後の連絡会議の大勢は交渉決裂の場合戦争また止むを得ずとの見解に達し陸軍側は必勝を確認、海軍は緒戦の成功を確信していた。東條は戦争全般についても勝算確実とのべ嶋田海相は悲観の要なしと言明永野軍令部総長は即時決定の要を力説海軍はさらに迎撃作戦にも自信ありと述べた。余はかゝる軍の保証を信じ得なかったが余の手許には軍事力判定の資料がないので軍部に反駁することが出来なかった。たゞその際残された唯一の点は余が辞職することにより事態をへんかさせうるか否かであったが従来重要問題につき助言を得ていた元首相廣田氏の意見では余が辞職すれば直ちに戦争を支持する人が外相に任命されるだろうから現職に止って平和維持のため全力を尽すべきだとあり、周囲の事態から余は東條に同意の旨をのべた。こゝに至って我々は再び対米交渉をいつまで持続するかの交渉期間の問題にぶつかった。十一月初め統帥部側は戦争不可避の場合は十二月初旬戦争開始の前提の下に作戦準備を行う必要ありとした。余は交渉に期限を付することは交渉成立を防げるとの理由で反対したが容れられず交渉を一段と困難にした。戦争準備は九月六日決定以来進められていたが軍の極秘事項として連絡会議にも知らされず、艦隊が単冠(ヒトカップ)湾に集結出港したことも第一次作戦目標が真珠湾であったことも余は全く知らなかった。甲案に対し米側は予期に反し興味を示さなかったので十一月二十日乙案を提出せしめたが十一月二十六日ハル国務長官は十項にわたる案を野村、来栖両大使に手交した。右提案を報ずる電報は二十七日に届いた。同日連絡会議が開かれハル・ノートを論議したがこれに対する我々の感じは一緒だった。米国は明らかに平和的解決のための合意に達する望みも意思も持っていないと感じた。日本は長年の犠牲の結果をすべて放棄するのみならず極東における大国の一つたる国際的地位をも捨てることを求められたのである。自衛上残された唯一の途は戦争であった。二十八日午前十時開会の閣議十五分前東條首相嶋田海相と野村来栖両大使よりの具申案及びハル・ノート全文につき協議した。二人とも具申案については時局を収拾するのは到底不可能であるとの意見だった。閣議の途中午前十一時半参内拝謁に先立ち木戸内大臣と会見しハル・ノートを説示し両大使具申案につき協議した。木戸はハル・ノートに失望の意を示し両大使の意見については「これでは仕方がない、かゝる提案で纏めようとするならば内乱になるだろう」といったかくの如く政府首脳部にも実現の自信なく内大臣も賛同せず何れの方面も責任をとりえないような提案だったので陛下には上奏されなかった。我々はこれを連絡会議で検討し米国もまた戦争を予期していると認めた。余は再び辞職を考えた。しかし余の辞職により軍部を抑制し得る強力内閣の更迭をみても米側にはもはや妥協の意思を全然なく事態の解決に何ら役立たぬと考えた。この上はあえて職に止まり最後の瞬間まで戦争回避に努力し不幸戦争となった場合はその早期終結に全力を尽すことに決心した。そのため十二月一日の開戦決定に先だち余は野村大使に交渉を打切ることのないよう訓示した。これは平和的解決のため最後の希望も捨てずに努力したために外ならず、検事側は作戦準備のための時を稼ぐ目的で見せかけの外交々渉を行い詐欺と不信をあえてしたという主張は当らない。』

2015年10月9日金曜日

書庫(60):東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より

陳述者 東郷茂徳
聴取者 大井 篤
日時  1950年1月30日
場所  東京巣鴨拘禁所
首題  終戦時の回想若干

 (前略)
3.瑞典を通ずる和平工作
 1945年4月9日私が鈴木内閣の外務大臣に就任すると、 その2日後(4月11日)昌谷君が私を訪問して次の趣旨の話をした。
「瑞典公使WIDAR(ママ)・BAGGE氏は自分は近く帰国するのであるが、ストツクホルムに着いてから、 瑞典政府に対し、日本の為米国政府の和平に関する肚を探るよう頼んで見ても宜しいと言つて居ます。 但し同氏は、これは日本政府から頼まれたのではなく、自分自身の発意でやろう、と言うのです」 私は直にそれは大いに賛成だ、それについて直接バツゲ氏に会つて見度いから、 その旨バツゲ氏に伝えてくれと昌谷君に頼んだ。
 翌日(12日)昌谷君がその返事を持つて来て言うには「バツゲ氏にあなたの話されたことを伝えたら、 同氏は非常に喜んだけれども、日本を出発するのに、その飛行機が直ぐにも出るかも知れぬと言われて居るので、 お会いする暇はないから宜敷く伝えてくれとのことでした」との事であつた。 バツゲ氏は翌13日の飛行機で日本を出発した。
 暫くして、ストツクホルムに居る日本公使岡田季正君から電報を受けた。 それに依ると、バツゲ氏が岡本君のところにやつて来て、 瑞典政府は日本政府から正式の依頼があれば米国政府に和平の探りを入れても宜しいと言つて居ると申越したとのことであつた。 私がこの電報を見たのは、正確な日附は忘れたが5月中旬最高戦争指導会議構成員の間に、 前に述べた様な相談をした後のことで、----あつたと記憶する。 その上「日本政府の正式依頼があれば」と云う点は、私がバツゲ氏から4月に聞いたのとは違つて居るので、 多少奇異の感を抱かされた。なお、バツゲ氏がこの問題を前外相重光君と話し合つて居たと云うことは、 私は重光君からも鈴木首相(重光氏より外相の職を引継いだ)からも、何もきかなかつた。
 いずれにしても、このバツゲ氏の事件は歴史的に見て重大な価値ありとは思わない。 私が外相に就任した際には、和平の仲介を頼むとすれば、ソ連に頼む外はないと云うことに軍部も宮中方面も、 政界方面も、殆ど一致して居た。それは、米国をして、無条件降伏を日本に強いさせないように、 再考させるだけの説得力のある中立国は、ソ連しかないと云う観点に基いて居るものであつた。 私自身はソ連を仲介に頼むことは好まなかつたが、瑞典政府が自ら進んで仲介の労を執るだけの熱意がないことが解つたし、 又瑞典政府は、米国側に無条件降伏と云うことを撤回させるだけの力のないことは否めないし、 而も当時の日本の感情では、無条件降伏は到底受け容れられそうになかつたので、 ソ連利用に同意する外なかつた。
 尚瑞典政府を仲介とすることには更に2つの障害があつた。 第一は、当時欧洲外交界で日本が瑞典政府に和平仲介を頼んだと云う噂が行われて居たこと、 第二は、岡本公使とその公使館附陸軍武官との間に、充分協調が期待し得られなかつたと云うことであつた。

2015年8月9日日曜日

書庫(58):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より

 蘇聯大使との会見
 その間九日に在東京「ソ」聯大使「マリク」から面会したい旨の申し出があったから、 自分は連絡会議で同日は面会出来ないから急用であったら次官に面会するように返事させたが、 十日でよろしいとのことであったので、同日にこれを引見した。 「ソ」聯大使は本日政府の命により宣戦通告を伝達するとのことであったから、 自分はこれを聴取した後、蘇聯と日本との間に中立条約がなお有効であることを指摘した上に、 日本から和平の斡旋を求められ、未だ確たる回答をしない間に宣戦する不都合を責め、 かつその理由とする日本が英米支三国共同宣言を拒否せりとの点につき、 日本政府に確かめる方法を採らなかったことの不当なるを述べ、 更に「ソ」聯の態度は後日歴史の批判を受くべきものだと云ったが、 彼は「ソ」聯の行動はなんら間違いないはずだとの趣旨を、抽象的の言葉で述べ立てるだけで更に要領を得なかった。 引続き自分は、日本政府の「ポツダム」宣言受諾に関する通告につき説明を加え、 「ソ」聯政府への伝達方を求めた。


「第三部 太平洋戦争勃発後」
「第六章 ポツダム宣言受諾と終戦直後」より

書庫(57):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より

 蘇聯の対日参戦
 然るに翌九日未明に外務省「ラジオ」室からの電話によって蘇聯が日本に宣戦し、満州に進撃したことを知った。 即ち八日午後十一時、佐藤大使が「モロトフ」委員に面会したときに宣戦の通報を受けたのであるが、 その会談、従って宣戦通告の電報は遂に東京には到着しなかったのである。 自分は早朝総理を訪ねて「ソ」聯参戦の次第を伝え、急速戦争終結を断行するの必要あることを述べたが、 総理もこれに同意したので、同席していた迫水書記官長から大至急戦争指導会議構成員を召集することに手筈を定めた。
 外務省への途次海軍省に米内海相を訪ねて、総理へ説いたのと同様のことを述べたが、 更に同省にて邂逅したる高松宮に対しても成行を説明して、直ちに「ポツダム」宣言を受諾することの必要を述べたが、 殿下は領土の点につきて何とかならぬだろうかとの御話があったから、 その点に就ても考慮して来たので方法があったらなお何とかしたいのですが、 今日となっては恐らく致し方ないと思いますと云って退下した。


「第三部 太平洋戦争勃発後」
「第六章 ポツダム宣言受諾と終戦直後」より

2015年8月2日日曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(13)

(東郷)…それから十四日は第二回の御前会議があつたのです閣員全部及統帥部両総長を御召しになつての会議です。 最高戦争指導会議とは違ふのです。 それに平沼さんは特旨により二度列席せられた。 これはずつと前からの例です。 原議長の時から参列する例になつて居つた訳です。 十二、十三の両日に渉り自分等は議論を尽した訳であるから十四日の御前会議では総理が発言して、 先方回答について、外務大臣は不満足の点はあるけれども大体に於て日本側の主張を入れたものだと言ひ得る。 又此際交渉を継続するも今次回答以上に有利になるものを獲得し得る見込は立たない。 尚保障占領武装解除に関する新条件を提出するときには、 今の国際情勢から見ると皇室の安泰と言ふ問題もどうなるか分らない、 従て此際直にポツダム宣言を受諾した方がいゝと言ふ意見でありまして、 閣議の大多数はそれに賛成して居ります。 それに反対のものが閣員の一部並に統帥部の方にもあります、 それで反対の意見だけこゝでお聴きを願ひたいと奏上した。 反対意見者にだけ陳述せしめやうと言ふのです。 無論陛下の方は閣議及最高戦争指導会議で、どう言ふ筋道でどう言ふ議論があつたといふことは御承知です。 自分もその前に参内して成行きを申上げて置いた。 それで御前会議に於ては反対論者の意見だけを御前会議でもつて述べさした訳です。 右意見の開陳が了つた後陛下は自分のポツダム宣言を受諾すると言ふ決心は前の時とちつとも変はらない。 若し今日受諾しなかつたならば国体も破壊せらるゝし民族も絶滅せらるゝことになる仍而此際は難きを忍んで 受諾する必要がある、外務大臣の意見に賛成である、尚陸軍大臣の話しでは軍の内部に異論があるとの事であるが、 此等のものにもよく分らせるやうにせよ、又自分の志思のある所を明にする為に詔勅を準備せよと言ふお言葉でした。 其後に閣議になつて午後十一時詔勅が発布せられた。
(大井)もう時間も迫つて来ましたが、 その危かつたと言ふ時に阿南大将が辞職しはしないかと言ふ心配はなかつたですか。
(東郷)あつたんですよ。阿南大将は或は辞職するんぢやないか、 内閣倒壊に出るんではないかと言ふ予想がないではなかつた。 それでこれは総理と迫水君もはいつてそんな話が出て、 その場合のことを考へて置く必要があると言ふことを話したことがあるんです。
(大井)さうしますと阿南大将に強く戦争継続論を出されました時にも大した心配はありませんでしたか。
(東郷)私自身は阿南君とは前に言つた通り、屢々各問題に付意見を交換したのであの人の気持は相当分つてゐた。 其頃の阿南君の考へは結局この戦争は継続出来ない条件は相当苛酷なものになるだろうが、 結局容れなければ仕方ないぢやないかと言ふのでした。 併し一方軍の面目と言ふものも考へなくてはいけない地位にあるし、 下の方では強硬な意見を持出し、又劃策してゐるので阿南君は全然耳を貸さない訳にはいかない、 少しは強いことも言はなければならぬ。 併し事実肚の中は相当分つてゐたと私は解釈して居た。 殊に和平促進に就ての陛下の御思召もあつたので内閣倒壊も企てないし又クーデターにも結局賛成しなかつたのだと思ひます。
(大井)さうしますと東郷外相としては阿南さんと色んな話をして、阿南さんの肚の中は分つて居つた訳ですね。
(東郷)内閣倒壊と言ふところまでは行くまい、クーデターにも賛成することはあるまいと言ふことに大体僕は見て居つた訳です。
(大井)そこから自然に動揺したり危機を感じたりする点はあまりなかつた訳ですね。
(東郷)そこまで感じなかつた。危ないことはあつたけれども、何とか切抜け得ると言ふ自信を持つて居つた訳です。
(原)肚は分つて居つたと言ふのは、表面は強いことを言つてゐるけれども本心は弱いと言ふのですか、 それともあの人の終戦にもつて行こうと言ふ本当の気持が分つたと言ふのですか。
(東郷)大体終戦にもつて行かなければならぬと言ふ気持であつたと言ふことです。 さつきも言つた通り、本土上陸をしたら、結局は時の問題になるんだと言ふ僕の意見を卒直に容れた。 そんな話は外にいくらでもあるんで、阿南君は頑迷な考へ方の人ぢやなかつたと言ふことに私は考へる。
(原)自分の本当の気持以上に、部内から圧迫によつて強い意見を言つたと言ふことも若干あつたかも知れないが、 本質として、さう言ふ点がありましたでせうか、色々話をされて見て…。
(東郷)阿南陸相も原則としては和平に賛成して居つたんです。たゞ条件について四条件の提出を主張したのですが、 これも御裁断によつて国体問題に関する留保丈けにした。 最後の段階に於て右留保条件に対する先方回答が不十分だといふのは先づいゝとして、 先きに御前会議に於て提出せざることに決まつた条件迄も提出せよと言ふのは理くつに合はぬことである。 そこいらのところがどうも前の阿南君とは少し違ふと思つた。 即このところが下の方から押されてゐるんぢやないかと言ふ気持をその時僕はもつた。
(大井)それからポツダム宣言を受諾したならば、天皇が退位を要求されると言ふやうな心配はありませんでしたか。
(東郷)僕は寧ろ逆に考へてゐるんです。 当時各国の形勢より見れば日本がポツダム宣言を受諾しないで戦争が継続せられたなら、 退位の問題所か、皇室全般が危険に瀕することになつたのですが、 あのポツダム宣言に関する先方回答に書いてある所より見ても日本政府の形態は日本国民の自由に表明せる意思によりて決定せらるべきものとありますから天皇制を排斥したと言ふのではない。 日本人を知つてゐるものの気持では寧ろ天皇制の存続を認めたと言つても差支ない訳なんですね。 天皇制を認める以上は天皇の現在の地位を認められなくちやならん筈だ。 それでポツダム宣言から言へば今の陛下は其儘に承認せられたと言ふことが言へるんです。 さもなければポツダム宣言及びその後の回答に於ける書き方は変つてゐなければならない筈だと考へる。

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(12)

(東郷)…十二日になつて向ふの返事が、分つた。 正式なものは十三日の朝着いたが十二日はラヂオで聞いた。 それで午前中に参内して陛下に申上げて午後に臨時閣議を開いた、 その際又議論が出た。 先方の回答では不十分である。 依而国体擁護に付いて更に申入るると同時に、 先日ドロツプした武装解除及、保証占領の問題を条件として更に持出す必要があると言ふことを軍部の方から申出た。 軍部と言つてもその時は臨時閣議だつたから阿南から申出て来た訳です。 一部の閣員のものにも賛成するものがあつた。 自分は之に対し、先日聯合側に対する留保として皇室の御安泰と言ふ問題のみを出して置きながら、 今日更に別箇の条件を追加するのは甚だ不穏当で聯合側よりすれば日本側に於て話を打壊す底意があるとしか考へられない。 而も九日議論を重ねた挙句、 御聖断によつてさう言ふ問題は出さないことに決つたに係らず此際更に提出せんとすることは御前会議の決定をも無視すると言ふことになる。 又戦争継続は不可なりとの御聖断により処理して来たに係らず、此際多数事項の申入れを為して交渉決裂、 戦争継続に導かんとするは事理に反するもので自分は断固反対だと言ふことでもつて論駁した訳です。 ところが昨日あなた方に木戸が話したと言ふのでつけ加へて申上げますが、 其日閣議で総理がどうした訳か知らんけれども、どうも向ふの返事は十分ではない、と思ふ、 又武装解除を全然向ふの手でやらなければならぬと言ふのは軍人としてはとても承諾は出来ぬ、 こう言ふ事では、戦争を継続してやると言ふことにするより外はありません、と強硬な意見を述べられた。 どうも困つたことを言ひ出されたと思つて、自分は、その問題は余程考へる必要があります。 たゞ戦争を継続して、後はどうにでもなれと言ふ無責任な態度はとりたくない、 戦争を継続して戦争に勝つと言ふ見込がなければ、 交渉成立の方面に進めなければなりません。 と言ふと同時に、正式の返事が来てゐないことを指摘し、 閣議は正式の返事が来てから続けることにした方が適当ではないかと言つて散会に導いたことがあります。
(大井)戦争継続論は閣議の席上ですか。
(東郷)さうです。それで之に対し自分は今述べたことを言つたのですが、閣議終了後自分は直に別室で総理に対し、 あなたの今のお話は納得し兼ねる、この武装解除の問題だつて前に決つた問題だ、 それを今から持ち出すと言ふのは筋違ひだ、ぶつこわしと言ふことにしかならん訳だ。 又其他の問題にしても、戦争に勝つ見込がついてゐなければ強くは出られない。 又陛下の方でも戦争の継続は不可能と考へて居られるに係らずあなたが戦争継続を言はれたことは自分には納得出来ない、 依而私は単独上奏することになるかも知れませぬから左様承知を願ひたいと言つて私はそこを出た。 但し陛下に直接申上げては閣内不統一と言ふことで事態は重大になるそれで木戸にその話をして、 困つたことが出来たんだと言つた。木戸君はその話を昨日した訳でせう。
(大井)武装解除と言はんで国体護持と言つたやうな。
(東郷)その時の閣議の話は、国体護持に関する先方回答も不十分だと言ふことであつたが、 その他武装解除は先方きりでやるのは軍人として承知出来ませんと言ふことを言つてゐた。 二つの問題があつたんですね。それで困つた、と木戸に話した。 陛下にぢかに申上げると角が立つと思ふので…。すると木戸君は陛下のお考は最早はつきり決まつて居るのだから、 鈴木さんに話すことにしようと言ふ訳でした。 その後すぐ木戸君から聞いたんですが、鈴木さんはよく話は分つた、先方の回答通りでいゝと言ふことで、 進むことに話はついた。 陛下の思召と言ふことならば話しの分る人なんだからと言ふことだつた。 その時の僕の進むべき途は、陸海軍の首脳部を説きつけることで、それは大部分成功するが、 ぎりぎりのところに行くと或る点喰違が出来る、これは初めから予想してゐた訳です。 それにしても閣員の大多数は自分の方の味方につける、而も総理が自分の方に賛成する、 それでもつて推して行けると言ふのが僕の大体の作戦なんですね。 ところが総理がグラついては此案は停頓する訳です。 而も僕はどんなことがあつても戦争継続に反対するつもりだつたから、 戦争継続論が強くなつたら閣内の不統一で内閣は辞めなければならぬことになるのだから、 此危急の際に内閣が辞めては時機を失する許りでなく、戦争終結反対の運動も盛んとなり、 国内が大混乱に陥り和平の成立は覚束ないことになる懸念があつた訳です。 従て、その十二日には、危機至れりと感じた訳ですが、その時鈴木さんがどう言ふ気持であゝ言ふ事を言つたのか、 今でも分らんのです。 それから十二日から陸軍の若い方で動いてゐる、陛下を擁してクーデターを行ふと言ふ計画があることをうすうす聞いた。 これより先、七月始めに米内君に和平問題が動き出すと色んな騒ぎが起ると言ふことを予想して置かなくてはならぬ、 お互に生命は初めから投げ出してかゝらなければならぬが、騒ぎが大きくならんやうに手筈をして置く必要がある、 海軍で手筈が出来るかと言つたら、それは横須賀から持つて来ることも出来ると言つた。 又海軍部内にも反対が予想せらるゝが之はどうするかと言つたら反対する者は必要次第陸軍大臣の力で罷免すると言つたことがある。 それで、十二日は形勢が不穏になつた模様があるから米内海軍大臣に対し万一の場合を考慮して貰ふ必要があると申入れた。 それから内務大臣は強硬論者だからあまりあてにならん訳だが町村警視総監は騒ぎがないやうに早く和平を成立せしむるやうにして貰ひたいと松本外務次官に言つて来たので同君の方に連絡をとつて、手筈を整へて置く必要があると言ふことを注意さした。 軍の一部では十二日から十三日の晩あたりに動き出す模様があつた。十四日までが険悪だつたでせう。 しかし幸に大したことはなく治まつた。 私の処にも警察からうんと護衛を増した。そして十四日の晩は宮城で一部の兵隊が騒いだ訳ですが、 大きな騒ぎになり得ない、 不平をもつてゐる分子が動くので僕等に対する危険は続いたが十四日過ぎには全般的に動くクーデターとか大規模の騒擾とか言ふことには時期を逸した感があつた。 後から聞いて見ると、結局の処阿南君もさう言ふ騒ぎには賛成しないで、板挟みになつた訳ですね。 それで本当にクーデターでもあれば、和平問題は飛んでしまふと言ふことになる訳なんだけれども、 今見たいな成行きによつて危機は脱し得た。

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(11)

(東郷)…それで十一時から最高戦争指導会議の構成員の集まりが始まつた。 そこで自分から最近の成行を報告して、事態切迫せる今日、 勝利の成算立ち難き状況に在りては直ちに和平に応ずる必要がある、 速にポツダム宣言を受諾するを適当と認める。 たゞ日本にとつて最も必要なものは皇室の安泰と言ふことで、 これは絶対的のものであるから、 これのみは是非留保する必要がある。 併し多数の条件を出すならば、 最近米英ソ支其他の状勢よりして拒絶せらるゝ懸念が甚大であり話が根本的にこはれる覚悟を要するから、 条件は絶対必要なものだけに限る必要があると言ふことを詳細に渉つて話した。 それに対して軍部の方からは、軍部と言つても海軍大臣は僕の意見に賛成ですから、 陸軍大臣及両総長ですが、この三人は他の条件を付加する必要がある、 皇室の安泰、国体擁護に付留保を附することは当然のことで異存はないが、 その外に保証占領に付て日本の本土は占領しないことにする必要がある。 若し本土を占領する場合には東京等を除外し、地点をなるだけ少く、 而も兵数をなるだけ少くすると言ふことにさせる必要がある、 第三には武装解除は日本の手によつてすることにしたい。 第四には戦争犯罪人の問題、これも日本側で処分することにしたい、 斯う言ふ四つの条件を出したいとの主張です。 それに対して自分は成程さう言ふ条件は自分としてもそれが貫徹し得らるゝならば希望する訳であるが、 今米英其他の情勢を見るのに此等多数の条件ともこれを容れさせる見込はつきかねる。 さう言ふ問題を持ち出すと交渉は決裂すると言ふ覚悟が必要だ、 交渉が決裂した後で戦争に勝つ見込があるのかと質問したら、 軍部の人も、究極的に勝つと言ふ確算は立ち得ない、 併しまだ一戦は交へられると言ふ訳だつた。 尚自分から日本の本土に上陸させないだけの成算があるかと聞いたのに対し、 参謀総長はうまく行けば向ふから上陸軍を撃退することが出来る。 併し戦争であるからうまく行くとばかりは考へる訳にはいかない。 要するに上陸軍の大部分を撃滅することは出来る、 言ひかえて見ると、向ふに非常なる損害を与へ得ると言ふ自信はあると言ふ訳です。 それで僕は又言つた。上陸部隊に大損害を与へても或は一部は上陸して来ると言ふことになる訳だ、 尚又或る時期を経た後に第二次の上陸作戦が予想せらるゝ訳だ。 而も第一の上陸に際しての戦闘に於て、 日本の方は飛行機その他の重要兵器を失つて其後短期間に補充する見込は立たないことになる。 それでは原子爆弾の問題は別とするも第一次上陸戦終了の後に於ける日本の地位は全く弱いものになつてしまふではないか。 さうすればその戦闘によつて相手に損害を与へ得ると言ふことは別問題として、 上陸戦後に於て相手国の地位と日本の地位と比較して、 我方は上陸戦前よりも甚しく不利なる状況に陥るものと言ふべきである。 斯う言ふ事態に於ては早い時期に於て戦争を終結する以外に方策なしと言ふことになる、 従つて日本としては絶対に必要なもののみを条件として提示し、 以て和平の成立を計ることがこの際とるべき方法だ、 と随分激しい議論を交へた訳です。
そのうちに昼の一時近くになつて来たし、午後は閣議も開くことになつて居つたものだから、 総理は、此の問題は閣議にも諮る必要があるから閣議の又後に集まつてやることにしようと述べ、 決まらないままに別れて閣議に行つた。 閣議になつてからも最高戦争指導会議の議論と同じやうな議論が蒸し返された訳です。 阿南陸相も自分も午前と同じやうなことを言つて、結局議論は対立です。 そのうちに総理の方で、外務大臣の意見に賛成するものと反対するものと言ふことで閣僚の意見を尋ねた。 過半数が僕の意見に賛成した。 反対のものもある、はつきりとした意見のないものもあつた。 それで閣僚の意見は一致しない。 そこで総理は自分と共同謁見して、これ迄の討議の状況を上奏したいと言ふので、 閣議は其儘として参内した。 そして自分から説明をしてくれと言ふ総理の話だから、 自分は今迄の議事の成行を詳細陛下に申上げた。 総理は更に斯う言ふ情勢ですから最高戦争指導会議の御前会議を開くやうにお許を願ひたいことを陛下に申上げ、其御許しがあつたので、直に最高戦争指導会議が開催せられた訳です。
最高戦争指導会議に於ても先づ自分から、 さつき述べた午前の最高戦争指導会議の構成員会同に於けると同じやうなことを言つた。 阿南、梅津、豊田の三人は外務大臣の意見に賛成出来ませんと言つて反対意見を述べた。 海軍大臣と当日特に列席した平沼枢府議長は自分に賛成を表明せられた。 しかし全部の意見が一致しないから、鈴木総理は、 かやうな状況ですから陛下の御聖断を仰ぎたいのです、と言ふことを申上げた。 ところが陛下は、 自分は外務大臣の意見に賛成であると言はれて従来軍の述べた所と事実とが相違せることが尠くない、 完成したと報告を受けたもので出来てゐないものがある。今後成算ありと言つても信頼し難いものがある、 仍而難きを忍んで直に戦争を終結し国体の安全を図る必要があると仰せられた。 これにより戦争指導会議は国体擁護に関する留保のみを附してポツダム宣言と受諾することに決した。 それで又閣議を開いて御聖断を体し、 最高戦争指導会議と同一趣旨でもつてポツダム宣言を受諾するが決定せられた。 皇室の御安泰と言ふことのみを条件とすると言ふことが閣議で決つて、 斯くしてスイス、スエーデンを経て米英其他に申入れをなした訳です。

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(10)

(大井)それでは十二を…。
(東郷)原子爆弾の問題ですね。これはこの質問の書きぶりを見ると一寸斯う言ふ気持を持つんです。
原子爆弾が投下されたら外務大臣は直に天皇或は閣議に何か提案すべき筋道のものではないか、 と言ふことがこの質問の裏にあるやうな気持がするんです。 書いた人は必ずしもさうではなかつたかも知れないけれども、これについて一寸良い機会だから話して置きたいことは、 第一に原子爆弾投下は軍事々項だからあれについて報告するのは外務大臣ではなくして軍部の大臣、 又内地の事項だから内務大臣、斯う言ふものから報告がなくてはならぬ。 それから最高戦争指導会議についても、これも軍部大臣統帥部の方から戦闘事項の報告があるのが適当である。 それからもう少し掘り下げて行くならば、ついでに申上げるならば、全体戦争について、 戦争をするとか止めるとか言ふことはアメリカあたりの関係とは違ふので、日本では外務大臣単独の主幹事務ではありません。 これは無論陛下の宣戦講和の大権によるが、本質は外務大臣のみの輔弼事項ではなくつて、内閣に於ては各閣僚殊に総理大臣、 それから統帥部に於ては両参謀総長の問題になる訳なんだ。 即ちさう言つたものゝ意見が合致すれば、陛下はその合致したところによつて行動なさる。 併しこの統帥部が、あなた方もよく知つて居られるでせうが、なかなか日本ではえらい勢力を持つてゐたから、 統帥部と政府との間の意見は何時でも別途に之を上奏するのであつた。 そして陛下の手許で両者を統合せらるゝ訳です。 日本では何時も統帥部と政府の御前会議なしに戦争を始めたこともなく終結したこともない。これが大きな建前です。
外務大臣が戦争の開始及終結に関する主管大臣だと言ふことは観念的に非常な問題であるといふことが、 この問題を掘り下げたところの根本の点なんだ。 あなた方はさう言ふ誤解はないだらうと思ひますが、世間ではよくさう言ふこともあるので一寸申上げて置きます。
それでこの原子爆弾になると、私が初めて知つたのは外務省が受けたアメリカあたりの放送だつたと思ひます。 それで直ぐ陸軍の方に聞いたら、米国では、原子爆弾とか言つてゐるけれども非常に力の強い普通の爆弾とも思はれる。 これについてはもう少し調べて見る必要があるといふことを言つて居つたのです。 併しどうも外国では非常に之に重きを置いて言ってゐるから、調査をするならば早くする必要があるぞと言ふことを僕は言つて置いた。 その翌日即七日なつて関係閣僚だけの閣議が開かれた。 陸海軍大臣、内務大臣、運輸大臣も居つたと思ひますが、自分はアメリカでは原子爆弾は戦争に革命的な変化を与へるものだ、 それで日本が和平に応じなければ重ねて他の場所にも投下すると放送して居ることを報告した訳です。 陸軍の方では、さつきお話したやうなことを言つて、あれはまだ本当の原子爆弾と言ふことは分らん、 人を出してゐるからその報告を待つ必要があると言つて、あの効果を非常に小さく見ると言ふことに努めて居つたんです。 併しアメリカの宣伝放送が非常に強いから、自分はその翌日の午前でしたらうと思ひますが陛下に拝謁して、 外国の方では斯う言ふことを言つて居ります。戦争の革命であるのみならず社会に対して生活にも大なる革命を来すものだ。 日本に対しては降伏するのでなければ重ねて又原子爆弾を落す、斯う言ふことを言つて居りますと、 米英よりの放送に出て居つた材料によつて説明し、事態の急迫について申上げた。 陛下は、あゝ言ふ新しい兵器が現はれた以上戦争を継続することは不可能だと言ふことをはつきり言はれました。 僕もそこで愈々講和を急ぐ必要がありますと申上げたところが、無論さうだ、速に戦争の終末を見るやうに努力せよ、 尚総理にも其旨を伝へよとの御言葉があつたので自分は直ぐ総理に話をして最高戦争指導会議構成員会議を開催して欲しいと申入れた。 然るに当日は何か都合の悪い人があつて翌日即九日の朝に其集まりを開くといふことになつた。 ところがその九日の日はロシアの参戦と言ふことが現はれて来た訳です。
(大井)迫水氏からステートメントが出て居りましたが七日の閣議では外務大臣から言葉は婉曲であつたが意味は明確に、 このポツダム宣言を速かに受諾すべきであると言ふことを提案して居られた、斯う言ふことを言つて居りました。
(東郷)それは新しい武器が出来たと言ふことでもつて総て戦争の様相は一変した、 軍隊の方としても戦争を止めるについては割合楽に其理由を説明し得るぢやないか。 又ポツダム宣言と言ふものが提出せられたのであるから之を基礎にして考慮したらよからうと言ふことを言つた訳です。 しかし皆はなかなかそこまでいかんし、それから陸軍の方はさつきも言つた通り、 原子爆弾といふ向うでも言つてゐるけれども自分達は疑ひをもつてゐると云ふことで私の話に賛成しなかつた。 従て調べる方はやめてすぐ戦争終結に決意したらいいと言ふ訳にもいかなかつた。
(大井)The United States Strategic Bombing Survey.には七日の朝総理と外務大臣は相談して天皇にニュースを報告したと書いてあります。 八日の間違かも知れませんが。
(東郷)八日は僕と総理とで拝謁したことはありません。
(大井)On the morning of 7 August Suzuki and Togo conferred and then reported the news to the emperor, stating that this was the time to accept the Potsdam Declaration. The military side still however could not make up their minds to accept it.
となつてゐます。
(東郷)前に述べた八日拝謁前に総理と話しました。それは僕が陛下に申上げたやうなことを鈴木総理にも話した。 陸軍では原子爆弾ではないやうなことを言つてゐるが、外国では盛に斯う言ふことを言つてゐるんだ、 それで事態を速に収拾する必要があると言ふことを総理にも話したんです。その後に宮中に行つた。
(大井)ポツダム・デクラレーシヨンをアクセプトする時期であると言ふことを天皇に申上げた…
(東郷)前から其趣旨のことは申上げた訳ですが、八日にははつきり其れを言上した。 又陛下の方からも如斯新兵器が出て来た以上戦争継続は出来んと言ふことを言はれた。 戦争継続の問題は政戦の方面からの見解の外に大元帥としての陛下は別の見地から御思召があり得る訳であるからかゝる新兵器が出て来た以上戦争の継続が出来んと言はれたことは戦術上から観ても戦争が出来んと言ふ意味だらうと思つて居つた。
(大井)ソヴエートを通じてポツダム・デクラレーシヨンの本当の厳密なる意味をはつきり知りたいと言ふ気持も前にはあつたが、事態は今となつてはそれ所でないと…。
(東郷)それ所ぢやない。だんだん事態は切迫して居つて、斯うやりたいと思つて居つてもそれが出来なくなつてしまつた訳です。 さつきのはソヴエートを通じて明確にすると言ふ意味ばかりではないですよ。 ソヴエートは仲介してゐるんだから、日本が言ふことを一々取次いでくれるのか、或はソヴエートが仲介して日本と米英の代表者が会ふと言ふことになるのか、 その時の成行きなんですから、ソヴエートを通じて明らかにすると言ふ意味とは少し違ふのですね。
(大井)何れにしてもポツダム宣言を受け入れる時期がある訳ですが、ソヴエートが真中にはいつてしまふか、 或はデイレクトにするやうになるか知らんけれども、ポツダム宣言をはつきり基礎に置いて戦争を終ると言ふ訳ですね。
(東郷)さうです。
(大井)それから十三を。
(東郷)十三のソ聯の参戦ですが、九日の夜の明けないうちに外務省の方でラヂオをとつてゐるものゝ方から知らして来たんです。 それはソ聯の宣戦及満洲への侵入に関する報道であつた。 だから自分はすぐ総理を訪ねた。総理は焼け出されて小石川の自分の私邸に居つた訳ですが、 向ふを訪ねて行つた。その時迫水君も来てゐました。 総理に昨日広島の原子爆弾のことから直ぐ最高戦争指導会議の構成員の会議を開いて貰ひたいと言ふことを言つて置いたが、 斯うなつて来るといよいよもつて直に戦争を終結する決定をする必要がある、と言つたところが、私もさう思ふ、直ぐさう言ふことに計らいませうと、 総理は私の言つたことに賛成した訳です。
私は海軍大臣とも打合せして置いた方がいゝと思ふので、外務省に行く途中海軍省によつた。 米内海軍大臣に対し、いよいよはつきり決めなければいかんと言ふことを言つたら、それはさうだと言ふので、すぐ賛成した。 それから高松宮の部屋に行つたが、どうだと言ふお尋に対し自分は事態急変せる今日、国体問題を留保する以外ポツダム宣言をそのまゝ受諾する外ありませんと申上げた。 すると高松宮は、さうだと思ふが、領土の問題について何とかもう少し出来ないだらうかと言ふお話。 私は昨日こゝで説明したやうに、大西洋憲章の関係からするも問題があると思ふ、その辺の話をする目的で連合側と交渉に入りたい為め今まで努力して来たんですが、 もう斯うなつては交渉の余地はないと見るより外ありません。それで領土の問題でも甚だ遺憾ですけれども、今日に於てはこれは持出すことは甚だ困難と思ひます。 しかし機会があれば更に努力することにしませうと言つてお別れした。

2015年8月1日土曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(9)

(大井)それでは十一の方を。
(東郷)こちらで色んなことをやつてゐるうちに聯合国三巨頭がポツダムに集まつた。 その集まる前にこちらに講和の意図があることを米英側に知らしめるさうして聯合国側をして無条件降伏ぢやなく、 或る条件の下に講和をすることの話合を進める意向があることを先方に通じたい気持をもつて動いた訳です。 それが十分に進まない間に二十六日にポツダム宣言が出た訳です。 あれを見た私の感想は、日本の今の戦局からして講和条件は結局あゝ言ふ程度のものだらうと言ふことが第一印象でした。 併し昨日一寸お話したやうにカイロ宣言その他の関係もあるんですが、大西洋憲章との関係に矛盾がある。 又日清戦争を侵略戦争と見たところに歴史上の誤謬がある。 又若しソ聯がポツダム宣言に参加する場合には南樺太とか言ふものが問題になる。 そうすると、日露戦争が問題になるんだ。 日露戦争はロシアの侵略政策が大なる原因を為したことはソヴエトの共産党小史の中にも、明かにせられて居る。 即ちソ聯側でも日露戦争と言ふものは元の帝政ロシア政府と日本側の両方の資本主義的活動によつて 満州に於ての闘争から日露戦争になつたと言ふことに解釈して居る訳なんだ。 それを単に日本だけの侵略だと言ふのは甚だおかしなことになるので、 その点について矛盾があるといふことだつた。 第二に自分が受けた印象は、ポツダム宣言の内容と範囲と言ふものが非常に広い訳で、 あれを受諾するにしても其の内容に付て我方の有利に明確にする必要があると言ふことだつた。 だからポツダム宣言を拒絶することは甚だ不得策であるし不利である。 併し一方これをすぐそのまゝ受諾すると言ふのは、今言つた各点をもう少し明確にする為め交渉に入ることを必要とした。 尚ほソ聯の方にも今まで話をしてゐるんだから、その話の成行きも今少し押す必要があると言ふことで、 その趣旨でもつて取扱つた訳です。それで二十七日午前戦争指導会議構成員に今の趣旨でもつて話をして、 之を拒絶すると言ふことは日本として極めて不得策だ、もう少し〔回答を廷し〕得るならば〔延〕した方が得策である。 尚ロシアとの関係もあるから少しこの方を見て処置することが適当だと言ふことに話はついた訳です。 しかしそれで戦争指導会議構成員の中には、 あんなものは駄目だと言ふことをはつきり言つたらいゝと言ふ意見を持ち出した人もありますがさう言ふことは今の日本としてやるべきことではないからして日本の方では何にもこれに意思表示しないでしばらく成行を見ることにしようと決めた。 それから午後に閣議があつたから、その閣議でも同様の話をして結局同様の決定に落着けた訳です。 ところがどう言ふ関連か翌日の新聞に日本政府は黙殺すると言ふ記事が出た。 それで自分は閣議の決定、戦争指導会議の話と言ふのはしばらく意思表示をしないと言ふのだ、 これは黙殺するとは非常に違ふ、とやかましく抗議した。 恰もその日は宮中で閣員と統帥部との情報交換の集まりがある日だつたが、自分は他に急ぎの用があつて、 その会議に行かなかつた。然るにその会議の別室か何かに統帥部と政府の首脳者が集まつて、 軍の方から、総理からこれを黙殺すると言ふことを新聞を通してはつきり言つて欲しいと言ふ注文が又々軍部から出て、 総理はこれを引受けたと言ふことで、新聞記者の共同会見に於て念の入つたことに、 政府はあゝ言ふものは受諾する訳にはいかんこれは黙殺するんだと言つたと言ふことが又大きく出た。 それで僕は、それは閣議の決定を無視する訳だ、総理と雖も閣議の決定を無視し、 又は之に反する訳にはいかないのだと言つて、やかましく言つた訳です。 だから総理も甚だ困つた訳だけれども、今から取消すのは甚だ工合が悪くなると言ふので、 暫くそのまゝにして置くと言ふことに、とうとうしまひになつてしまつたと言ふことを釈明してたことがある。 さう言ふ事情で取扱い方に手違が出来たので、日本としては非常に不利な結果になつた訳です。 日本がポツダム宣言を拒絶した為に広島に原子爆弾を落すと、トルーマンの声明は述べて居るし、 又ロシアの参戦する時に、 ポツダム宣言を日本は拒絶したから自分達は聯合国に加はつて参戦するの已むを得ざるに至つたと言ふことを言つてゐる訳です。 ところが日本政府の方では、 拒絶するとか黙殺するとか言ふ決定をしたことは尠くとも自分の承知する範囲に於てはないことです。 その点は鈴木総理の書いたものにも、 甚だ自分としてまづいことをやつたと言ふことを書いてあるとか言ふことを聞いた。
(大井)「終戦の表情」ですかに、読売の記者が書いたんですが、それは軍部から言はれて自分は已む得ず言つた、 斯う言ふ言ひ方をしてゐる。
(東郷)軍の方で強く言つて、それを承諾したといふ成行らしいのです。 それは特に迫水君からさう言ふ報告が来て居つた。 僕があまりやかましく追及したので仕方なくやつたんだと言ふ釈明があつた訳です。 さうしてゐるうちに広島に、原子爆弾が落ちて来た訳ですね。六日です。
(大井)こゝで一寸先程のカイロ宣言に戻るんですが迫水が言つたと思ひますが、 カイロ宣言といふものはアンコンデイシヨナル サレンダ オブ ジヤパンといふことが書いてある。 今後のポツダム宣言にはアンコンデイシヨナル サレンダ オブ ジヤパニーズ アームド フオーセスと書いてある。 外務大臣はこの点を相当強調されて、今後のポツダム宣言はカイロ宣言の中から、 領土の件はカイロ宣言をとつてゐるけれどもアンコンデイシヨナル サレンダの点についてはあまりとつてゐない。 アンコンデイシヨナル サレンダ オブ ジヤパニーズ アームド フオーセスと言ふことになつてゐると言ふ点を特にピツクアツプして、ポツダム宣言の拒否と言ふことに不賛成を唱へられたと言ふやうな話がありましたが。
(東郷)自分でもさう思つてゐる。カイロ宣言には日本の無条件降伏と言ふ字を使つてあるけれども、 ポツダム宣言には日本軍隊の無条件降伏と言ふ字を使つて、日本の無条件降伏と言ふ字は一つもない訳ですね。 それからその後の八月十四日の向ふの返事にも十三日の公文にも、日本のサレンダーと言ふ字は使つてあるが、 無条件と言ふ字は使つてない。だから日本の降伏といふものは有条件のものであつた。 軍隊ぢやないですよ、日本全体の降伏と言ふものは条件があつた、その条件なるものはポツダム宣言の内容である。 即同宣言に吾人の条件は左の如しと書いてある点から見ても、 日本の講和は無条件降伏に非ずと言ふことになると今でも思つてゐるんです。
(大井)それでやはりその当時もその点は強調されたんですね。
(東郷)さうです。たゞその内容について言へば先程言つたやうに幅の広い文句が多いので随分解釈の余地がある。 従つてポツダム宣言の内容を我方に有利に、もう少し明確にしたいと言ふことが僕の希望であつた。
(大井)その明確にすると言ふことは、どう言ふ外交的な方法でやられたかと言ふ、 どう言ふ手をこれから打たうと言ふことでしたか。
(東郷)それはロシアなんかを通じてニゴーシエイトしなければ出来ない訳です。
(大井)その研究をこれからして見よう、ロシアを通してやるか或はロシアを通してやるにしてもどう言ふ風に、 それらをどう言ふことを聞いてやるかと言つたことを研究しようと言ふことで直ちに受諾も出来ないと言ふ、 斯う言ふ意味ですか。
(東郷)それは無論ロシアを通してやる場合にはさう言ふことも題目になる訳なんだが、 ロシアの方に仲介を頼んであるんでせう、ロシアの方からはつきりいけないと言つては来てない、 こちらの方もモロトフに会つて話をせよと訓電を出してゐる。それでもう少し模様を見る、 その返事が来るまで少くとも待つと言ふやうなことだつた。研究とか何とか言ふ意味ではないのです。
(大井)ロシアの返事の模様を見ると云ふのですか。
(東郷)どうしてこれをやらうとか何とか言ふ内輪の研究ぢやないのですよ。
(大井)内輪の研究ではなく、ロシアとの交渉を続けて、ロシアとの交渉によつてはつきりしようと言ふ。 (東郷)ロシアが仲介を進めるならば、それによつて連合国に対し今言つたやうな問題を持ち出し得る訳です。

2015年7月31日金曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(8)

(大井)鈴木総理の話ですが、木戸日記を見ますと七月七日に総理が参内した時に、 陛下はソ聯との交渉は肚を探ると言つてゐたがあれはどうなつてゐるかと言ふ御下問があつたと言ふことが書いてあります。
(東郷)それは次の時にお話しようと思つてゐたが、今お話しませう。 さう言ふことでもつてソ聯の方からの話は一向進まない、 その上に広田マリク会談の報告マリクの方からは電報でなくクリエルで送つたと言ふことを私は聞いたことがある。 それで自分はこれはとても駄目だと思つて、その方には殆ど見切りをつけた。 それでロシアに対する関係は総て別に進める必要があると言ふのでそれには誰かモスクワに人をやるより外方法はないと言ふことでもつて、 総理其の他最高戦争指導会議構成員に話をして其同志を得た訳です。 それで七月二日頃高松宮に呼ばれた時に高松宮から色んなお話があつたから、戦局がこゝまで来た以上、 速かに和平に乗り出す必要があります、それについては陸軍、海軍の方もその希望は非常に強いから、 ソ聯を通じてやるよりないと思ふ、又それについてはモスクワに人を出すことが最も良いと思ふ、と申上げたら、 実はその話は米内から聞いた。誰をモスクワにやるつもりか、と言つてお聞きになる。 それで近衛をやつた方が最も良ろしいと思ひますと言つたことがある。 それは七月二日だつた。それで近衛公の話は総理にも話して置いたが、 私は近衛公に会つて内談して置く必要があるので七月七日、恰度七夕の日だつたからよく憶えてゐるが、 軽井沢に行つてその翌日の八日に近衛に会つた。 是非モスクワに行つて欲しいのだ、陛下には申上げてないけれども総理には話してある、 それで甚だ御苦労だけれどもさう願へないだらうかと言つて話した。 近衛公は陛下からさう言ふ御命令があれば行つてもいゝと言ふことだつた。 日支事変から日米交渉を経て斯う言ふことになつて自分も十分責任を感ずるからと言ふやうなことも言つて居つた。 条件はどうするかと言ふ話が向ふから出た。 条件については今迄も戦争指導会議構成員丈けではちよいちよい話をしてゐるんだが、 表向きの話になると、軍の方では、戦争に負けてゐないと言ふことを云ひ出すので困つてゐるんだ、 併し斯う言ふ状況になつた以上は、無条件では困るけれども、 それに近いやうなもので纏めるより外はないと思ふと話した。 すると自分もさう言ふ考だ、と近衛公は言つて居つた。 それについて自分が向ふに行くやうになれば斯う言ふ条件の下に和議を纏めると言ふことではなく、 白紙で行くことにして貰ひたいと言ふ注文があつた。 条件を決めて行くと言ふことになればなかなかむづかしいと思ふから、 結局その方が最もいゝかとも思ふと言ふ話をしたこともあるんです。
 それで内輪の話はずつと進んだ訳です。
 ところが七月八日に軽井沢から東京に帰つて総理に会つたところが、陛下からお召しがあつて、 和平の話を進めた方が良いぢやないかと言ふお言葉があつたから、 外務大臣が今朝軽井沢に行つて近衛公に会つてそんな話をしてゐる訳ですが、 帰つたら早速話しを進めることにしますからと申上げて置いたと言ふことだつたから、 近衛公の意見、希望も伝へ最高戦争指導会議構成員の集まりを直ぐ開くことに打合せた訳でした。
(大井)アメリカ側の書いたもので七月十二日に天皇は近衛をお呼びになつて、 さうして自分の取上げ得る条件は何でも受け入れるやうに近衛に秘かに訓令されたと言ふのです。 さうしてそれを天皇に直接電話するやうにと言ふことを近衛に仰せになつたと言ふことを書いてあるんです。 又近衛の手記にも同じことが書いてあるやうです。
(東郷)それは近衛の手記の方から出たのかも知れないけれども、 秘かにと言ふ訳でもないのです。 私が軽井沢に行く前に、鈴木総理に対し、自分はこれは近衛公の内諾を得て来ますが、 陛下にはあなたから近衛に御命令になつた方がよろしいでせうと言ふことを内奏して置かれた方がいゝ、 と言つたところがそれは結構だと総理も言はれた。 従て総理からは其趣旨で前以て陛下に申上げたことと思ふ。 そして七月十二日近衛公は日華協会の開会式があるので東京に来た訳です。
 それでその機会に陛下から近衛にお話になると言ふことは打合せ済みなんです。 日華協会の席上で近衛公から謁見の次第に付て通報があつたが、 更に詳細の打合をしたいとのことであつたから総理官邸に赴き総理と三人で話した訳です。 近衛公の曰く、陛下からのお召しを受けて行つたところが、 モスクワに行つて和平の話を進めると言ふことについてどう思ふかと言ふ話だから結構ですと言ふことを申上げたところが、 それでは是非行つてくれと言ふお話があつた、さう言ふことならば参りませうと言ふことを言つて置いた。 何れ正式の命令は後から出るでせうけれども、 その際の条件についてはあまりぎこちないことであつては向ふに行つてから仕事が出来兼ねることになると言つたから自分も其の通りと思ふといふことを言つておきました。 何でもいゝから自分のところにぢかに持つて来いと言ふお言葉があつたと言ふことはその時は話は聞かないけれども、 手記にさう書いてあることは聞きました。
(大井)近衛さんが自殺される時に書いて置いたものを今日持つて来ませんでしたが、 それにははつきりさう書いてあります。
(東郷)近衛公が書いてゐるのはさうでせう。 僕と軽井沢に於ける打合せの際にも白紙でもつてこちらを発つて行きたいと言ふ意味のことを言つて居り、 其後又陛下の方も大体に於て御異存がないやうだつたと語つたことは記憶します。

2015年7月30日木曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(7)

(大井)それでは次の広田マリク会談が中断したところを一つ…。
(東郷)これはどの程度の期待を寄せて居つたかと言ふことになると、昨日お話したやうに、 私はソ聯は日本に対して良い感じを持つてゐる筈はない、だからソ聯を仲介する場合にはその態度を探りつゝ悪感を緩和し且つ之を除去しつゝ、 さうして仲介にもつて行く必要があると言ふ考であつたから、この会議にもさう期待を寄せる訳にもいかなかつた。 大なる期待は寄せ得なかつた。そこで初めは広田の方も先づ探りを入れると言ふことでもつて話を始めた訳なんです。 六月の初め広田氏がソ聯大使に会つて一般的の話をしたところが、 マリクの方は日ソ関係の改善について非常な興味を示し今日の話は是非モスクワに伝へます、 モスクワの方から話を進めるやうにと言ふことを言つて来たら突込んだ具体的の話をしたいからと言ふことであつて大変うけがよかつた、 ものになりそうだと言ふことを言つた訳です。 次に食事の招待会二、三度会つてゐる筈なのですが、話は急速に進捗しないので私の方から広田氏に急いで話を進めて欲しい、 先方が交渉に乗つて来なければ別に考慮しなければならないから、 交渉を進める誠意があるかどうかをはつきりさせて欲しいと督促をしたことがあります。 ところが広田氏は、あまり急ぐとこちらの肚を見られるやうで損ぢやないかと言ふことを言つて居つた。 外交の筋道から言へばさう言ふことになる訳だけれども事態が急迫せる為、取急ぐ必要があることを説明して、 催促して貰つた訳なんです。それで広田氏の方も色んな者を通じて、督促はして居つたやうですがなかなか話は進まなかつた。 それで二十四日まで中絶して居つた訳です。 然るに六月二十二日陛下よりの御言葉もあつたので、自分は二十三日鵠沼に広田氏を訪ねて、陛下の御思召をも詳報し、 うんと突込んでやつて貰いたいことを話した結果、二十四日の会見と言ふことになつた訳です。
(大井)広田マリク会談と言ふことを始められましたのに広田氏を選ばれた理由、 それに広田マリク会談と言ふものは五月中旬の最高戦争指導会議でロシアと交渉をすると言ふことで、 先づ肚を探るために非公式にやつて見よう、斯う言ふ意味だつたんですか。
(東郷)さうです。腹を探りつつ両国の関係を改善し且一般和平の仲介に導かうとしたのです。 広田氏を選んだと言ふのは前からの行懸りもあつたんです。 ソ聯に対する日本の動きが活潑でないといふ非難が東京で長い間随分あつたんです。 従て鈴木内閣成立直后、梅津君が、昨日お話したソ聯の参戦防止の話をもつて来た際にも在ソ大使はあのまゝではいかんと思ふ、 何とか外務大臣の方で考へた方がいゝぢやないかとまで言つたことがある。 しかしこの際になつて人を変へると言つてもなかなか事態が窮迫していゐるんだからむづかしい。 大使が変つて着任する迄にひまがかゝる。 一ヶ月位は時を空費すると言ふことになつて非常な損失がある。 この際甚だ更迭は好ましくないと言ふ事情がある。
次に特使の問題であるが、これは東条内閣の末頃及小磯内閣時代に持ち出したけれども成立するに至らなかつたので、 更に持出しても成立の見込はない。但し広田氏は前にロシアに居つたこともあるし、行つたら直ぐ仕事の出来る人だし前に総理もして居つた、 最近は重臣の地位にあつたと言ふ関係もあるので、 佐藤大使以上の大使と言ふことになれば広田氏を起用する外はないと言ふことになる。 それで広田氏に打明けて話をしたところが、自分は今向ふに行くことは困る。 併し日本でならば対ソ関係につき働くことは喜んでしよう。 ロシアとの関係は今のまゝではいかんと言ふことは自分もつくづく考へてゐたので、 その意見は前の内閣の時にも随分当局に話をしたことがある。 それで日本にゐてやる得ることがあるならば自分はいくらでもやるから遠慮なく言つて来て貰ひたいと言ふ訳だつた。 こう言ふ行きがゝりもあるし、ロシア問題については今までの経歴上、 あれ以上の人はないと言ふ観点から広田氏に依頼すると言ふことになつた訳です。 (大井)これは外務大臣の依頼によってアンオフイシヤルでありながら、資格めいたことを言へば、 外務大臣の何と言ふ風に言へばいゝものですか。外務大臣の顧問でもないし。
(東郷)顧問では無論ない訳です。外務大臣の代表と言ふ訳でもないんですね。 それで会談は非公式のカンバーセーシヨンと言ふ風に名前をつけたらいゝでせうな。
(大井)向うは大使であるが、こちらは外務大臣の何ですか。
(東郷)広田氏に斯う言つて置いたんです。ソ聯大使へは此の話は政府は十分承知してゐることを明かにした方がいいと、 即自分の話は政府でも十分に承知してゐるのだと言ふ諒解の下に広田氏の話合は始まつたんです。

2015年7月29日水曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(6)

(東郷)…ここで一寸廻り道をして申上げる訳なんですが、五月十一日から十四日最高指導会議があつて、 そこで決議した訳ですね。其の成行きについては総理から陛下に申上げると言ふことに約束は出来て居つた。 ところが六月十五日に私は木戸君に会つて色んな話をしてゐるうちに、 その話が陛下に伝はつてゐないと言ふことが分つた。 それから鈴木さんにあの話はまだ陛下には申上げてないのではないですか、陛下は御承知ないやうに思ひますが、 と言つたら、私もついまだ申上げなかつたと言ふことを言つて居られた訳なんです。 だから、六月二十日に参内した時に、その戦争指導会議の話合の成行と、 それから広田前総理を通じてソ聯の気持を打診しつつ和平に導くと言ふ趣旨でやつて居りますと言ふことを委しく申上げたんです。
すると陛下はそれは非常に結構だ、それでその話を促進して一般の和平が早く出来ることを希望する、 との御言葉だつた。之に引続いて、陛下は前に最高戦争会議で色んな決定もあつたが、 その後参謀総長それから長谷川大将が各地を巡察して来ての報告を聞いたところが、 支那方面及び内地に於ける準備が非常に不足して居ることが分つた。 だから戦争を早く終結せしむることがどうしても必要と思ふ。 戦争終結はなかなかむづかしいこととは思ふけれども可成速に終結することに取運ぶやう希望すると言ふ、 随分委しいお気持の話があつたんです。それで私も、戦争の終結については戦局の関係が非常に大切なことになります、 今の戦局では日本の方に甚だ不利になつて居りますから、有利な条件により終結することは甚だ困難だと思ひますが、 これを早く終結することについては、粉骨砕身死を賭して御意思に副ふやうに致しますと言ふことを申上げたことがある。 その時は随分突つ込んでお話があつたので、陛下の思召は十分に分つた訳です。
それから次に六月二十二日に陛下がお召しになつた。 陛下は政府と統帥部の首脳部を一緒にお召しになつてお言葉があつたのです。 政府と統帥部は御承知の通り日本憲法の解釈上すつかり分れてしまつてゐた。 内輪の機関とし連絡会議最高戦争指導会議があるけれども、 この間の調節を何処か上の方でするのは陛下より外にない訳です。
その間の調節をしようと思へば陛下の方で両者を一堂に会しておやりになる必要があると言ふことになる訳です。 それでこの六月二十二日のお召しはその意味に於てあつたんだと言ふことに諒解をして居つた。 法理的の見解は別として、事実上の成行はさつき言つたやうな事情がある訳です。 即ち六月中旬(十五日―編者注)に木戸君に会つていろんな話をした際、私の方から最高戦争指導会議の話をして、 突然あゝ言ふ会議を開いて非常に強いことを決議しようと企て、 而も海軍の方はいつもは戦争継続不可能とはつきりしたことを言ふに拘らず、 あゝ言ふ会議の席になるとはつきりした態度をとらない、 自分としては非常に困つた許りでなく不愉快であつたと言ふ話をして、 もう少し気持を一致せしむる必要があると言ふ話をしたことがあるんです。 さうしたら木戸の方では、 戦局が斯うなつて来ると軍部から戦争の継続は不可能だと言ふことを申出て来るのが当り前だと思ふけれども、 軍の方からさう言ふことを申出すことは到底困難だと思ふ。 陛下の方では戦争の終結を急ぐ必要があると言ふお考であるから、 時期を逸しないうちに陛下のお言葉によつて大転換をすることが適当であるやうに思ふ。 即ちソ聯に対して仲介を依頼して戦争を終結することがいゝと思ふと言ふ話があつた訳です。 自分はそこでソ聯のことについては参考戦争指導会議の構成員だけで話をして和平に行く瀬踏みをしてゐるんだと言ふことを話して、 それは総理から話があつた筈だと思ふが、と言つたところが、総理からは何も話は聞いてゐない、 陛下にもそんな話は聞いて居られないと思ふと言ふことで、 始めてさつき言つた陛下も総理から上奏してないと言ふことが分つた。 とに角木戸との間には其れ以前にも早期和平の必要につき話しをしたので六月二十二日のお召しと言ふのは木戸から申上げた結果お召しになつたのかとも思ふ。
その御召しでは陛下から、内外の情勢緊迫をつげ、戦局は甚だ困難なるものがある。 今後空襲の激化等の考へ得る際に、更に一層の困難が想像せられる、 だから先日の御前会議の決定による作戦はそのまゝとするも他方なるべく速かに戦争を終結することに一同の努力を望むと言ふ趣旨のお言葉があつた訳です。 それに対して先づ総理から、聖旨を奉戴してなるべく速かに戦局の拾収に努めることに致しますと言ふことを申上げて、 それから宮中席次の関係で並んで居つたその順序でもつて一々発言した訳です。 即米内海軍大臣は、 今までもそれについては相当研究して居りますとて五月十一日から十四日の最高戦争指導会議の構成員の会合で申合せがあつたことも申上げた。 自分はそれを受けてその時の委しい事情を申上げた訳です。 陛下にはその前二十日に奏上したのだが、又重ねて申上げた。 そしてソ聯を通ずることには相当危険もあります、尚ソ聯を通ずる場合にはソ聯の利益に合致することが必要になります。 条件その他については大きな覚悟が要ります、と言ふことを申上げた。
その後で梅津参謀総長が、和平の提唱は内外に及ぼす影響が非常に大きいから、 十分に事態を見定めた上に慎重に措置する必要があると言ふことを申上げた。 すると陛下は梅津に対して、慎重に措置する必要があると言ふことであるが、 根本的に反対であると言ふ意味ではなからう、と言ふ意味のお尋ねがあつた訳です。 梅津は、さう言ふ訳ではありません。 慎重措置する必要があると言ふだけのことですと言ふことを申上げて、 陛下はそれから入御になつた訳です。
(大井)その時に陸相、それから海軍の豊田副武大将はどうでしたか。
(東郷)豊田君は何を言つたか憶えません。
それから陸相の方もよく憶えません。どうも大して意見を述べなかつたのではないかと考へられます。
(大井)それから二十二日の今の会議ですね。
これは最高戦争指導会議構成員と言ふことで幹事を混えないでお呼びになつたと言ふ事ではなかつたのですか。
(東郷)さうとも限りませぬ。最高戦争指導会議は陛下の親臨の下に開くと言ふのが建前です。 正式ならば最高戦争会議と言ふのは御前に於て構成員及び幹事が集まつて来ると言ふことになる筈なんですね。 これが六月八日の会議です。併し普通戦争指導会議と言ふと陛下のお出にならない会議、 即ち最高戦争指導会議の構成員及び幹事が集まることに使はれてゐるんですね。 それと区別するために最高戦争指導会議の構成員のみの会合と言ふ言葉を特に使ふことがある。 陛下御視察の最高戦争会議を開催する場合には総理及両総長連名で上奏することになつて居るのですが六月二十二日には上奏した訳ではありませぬし旁最高戦争指導会議を開催せらるると言う意味ではないと考へて居りました。 しかし政府及統帥部の首脳者として人選する場合には最高戦争指導会議の構成員と言ふことを根本の基準にせられて呼ばれたと言ふことになつてゐるんだと思ひます。
(大井)陛下からはお言葉の中に、ソ聯を仲介とすると言ふことは特に何もなかつたのですか。
(東郷)陛下の方からは何も言はれません。 木戸は前に言つた通りソ聯を仲介としてと言ひましたが陛下の方はソ聯を通ずると言ふお言葉はなかつたのです。
(大井)陛下から早期和平の御希望をお述べになられたことを承りましたが、 それと同時に何か和平条件に関して陛下から御発言がありましたか。
(東郷)その時はありません。

2015年7月28日火曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(5)

(大井)四番目の方ですが…
(東郷)四番目の六月八日の御前会議ですね、これがやはり今までお話した、その時の日本の気持から出てゐる訳です。 戦況が非常に悪かつた。
併しまだ戦争は止めると言ふ気持になつてゐないものが多かつた。その時の情勢ですね、 殊に鈴木総理は其内に戦争を止めたいと言ふ気持であつたが戦争を止めるにしても国民の士気はこれを維持して置かなければならぬと言ふ気持が非常に強かつた。 だから議会を開いて、議会でもつて士気の昂揚をはかると言ふ考へ方、それについては海軍はあまり賛成はしなかつた。 併し陸軍は非常に賛成した。陸軍ではその外に、陸軍の全部かどうか分らんけれども、 本土決戦まで持つて行く機運をこゝで作らうと言ふ大きな考があつた。 だから議会を六月の九日に開くことに決定した。 ところがその前に、六月の六日ぢやなかつたかと思ふのだが、最高戦争指導会議が開かれると言ふことを突然僕のところにも通知して来た。 戦争の継続で会議を開くのか、課題も何にも知らして来なかつた。さうして行つて見ると、戦争の継続と言ふ非常に強い文句の議案が出て来た。 それで僕はびつくりした。最高戦争指導会議には幹事として、陸海軍の軍務局長、総理のところから書記官長が出てゐるので、 そちらの方は予め相談することが出来るんだが、外務省の方からは幹事は出てゐないから何にも相談に与かつてゐない。 僕は最高戦争指導会議の議場に行つてから初めて議案を見た。 さうしてびつくりした訳です。 席上右議案に対する説明として秋永綜合計画局長官が国力の検討に付報告した上に国力が非常に弱つて来たそれで生産を増強しなければならぬ。 でないと戦争の継続はむつかしい、併し生産の増強不可能にあらずと言ふ趣旨の説明があつた。 それに迫水書記官長から士気の昂揚をはかる必要がある、 国際問題についてもなるだけ日本に援助せしめることに仕向けて行く必要があると言ふことを言つた。
その意味するところはロシアのことであつた訳なんです。 それに続いて河辺次長が、その時は梅津参謀総長が旅行をしてゐなかつたので、其代理として説明した。 戦争の状況は逼迫しつつある。 併し日本の方に戦場が近くなればなる程日本に有利であるのだから戦争の前途必しも危惧を要しないと言ふ説明です。 そこで僕は今聞いたところだけでも、日本の国力は漸次減退しつつあると言ふことである。 これは事実として明かに自分達の心配してゐるところと合致する。 而も今空襲は激化して来てゐるし、生産の増強は非常にむつかしいことに思ふ。 又参謀次長は、日本に近付けば近付く程我方に有利になると言ふ説明だつたけれども、 相手は先づ日本の生産力を空襲によつて減殺し然る上に上陸しやうと企ててゐるんだから、 近くなればなる程日本に有利になると言ふことは自分には納得が出来ない。 今の陸軍の主張は、日本で十分な航空能力を持つてゐるならば実現出来るけれども、交通兵力が足りない場合に於てこの説明は納得出来ない。 尚空襲激化の今日生産の増強が出来るか、自分にはどうも納得がいかんので、日本は最早覚悟することが必要だと思はるるとの趣旨を述べた。 然るに当日特に本会議に列席した豊田軍需相は、生産の増強が出来るか出来ないかの問題に付て、なかなか生産の増強はむつかしい、 併し外の方から、例えば陸軍で斯う言ふことをしてくれるとか民間で斯う言ふ風に働いてくれるとか、 色々条件を挙げてさう言ふことをやつてくれるならば出来ない訳でもないと言ふ意見の開陳があつた。 即各種条件が完成せらるれば、生産増強せられ、生産の増強が出来るとなると戦争の継続も出来ると言ふ理窟になるんです。 それで自分はさう言ふ条件を完成することは甚だむつかいしいことである。 今軍需大臣の言つてゐるところの条件の実行は殆んど出来ないぢやないかと言つたけれども、軍需大臣の意見をとり入れた案が提出せられた。 その時海軍大臣は何も言はない。自分は斯う言ふことを書いて置くのは疑問だと言ふことまで言つたが、 総理は、此際此程度のものを決定して置くのは必要であるとのことで、あの決議案は出来上がつたと言ふ訳です。 即初めの案よりもいさゝか修正されたもので、 九月までに生産を増強することが出来れば戦争を継続すると言ふ趣旨のものであつたやうに思ふ。
条件付きでも戦争継続を決議したやうな訳ですが、総理の方では議会に臨み、国民の士気を鼓舞する為めに、 少しは強いことを決めて置く必要があると言ふ気持です。 それが八日の御前会議まで行つたんです。 僕はあゝ言ふ条件付でさう言ふことを決めて、その条件の完成は殆ど出来ないと言ふ趣旨でもつて賛成したんです。 総理あたりは議会に対する対策としてあゝ言ふものを決めて置く必要があると言ふ気持があつたと思ふ。 御前会議に於て僕は、日本の外交上の立場は窮迫してゐるので、外国より有利な援助を望むことは不可能だ、 而も戦況が斯くの如く悪くなつた時に於ては対外的の地位は日一日と不利になつて行くばかりだ、 この点を早きに及んで考へる必要があることを述べたのです。 併し御前では其れ以上の議論にならないで前の決議が通つたと言ふことになつてゐるんです。 如斯状況であつたので六月六日乃至八日の最高戦争指導会議に於ては講和の問題は討議せられるる余地がなかつた。 殊に六日の会議に於ては幹事の方から、ソ聯を日本の有利に誘導して軍用器材の獲得に努めて欲しいと言ふ注文が出た。 それで僕はさう言ふことは出来ない、 何かさう言ふ予定を基礎にして戦争を継続するの決議が出来るならば尚更自分は反対だときめつけたところが、 それを条件としてこの案は出来た訳ぢやない、それはたゞ希望です、と言ふやうなことを言つて居つた。 併し希望としても空な希望をもつて考へると間違ふ、 ソ聯の方を日本の味方に変へ得ると言ふ考へ方は全然止めなければならぬと言ふことをはつきり言つておきました。
(大井)私共御前会議に於ける外務大臣の発言大東亜大臣の発言要旨と言ふ書類が残つて居ります。 これは御前会議経過と言ふ本が内閣から出まして、その中には誰が何時どう言ふ風に発言した、 さう言ふことを書いて、その次に国力の減少と言ふ先程の秋永さんの読まれたものがあり、 ずつと書類がある中に、大東亜大臣の発言要旨と言ふものが書いてあります。 その時には前からプレペアして、予め書いたものを読まれた訳ですか。
(東郷)それはどう言ふことを書いてあるのか読まなければはつきりしたことは云へないけれども、 大体は書いたものを準備して行く訳です。 しかしそれは下局で作つた儘のものですから、自分はいつもタイプした通りそのまゝしやべることはしなかつた。 その時に応じて色んな意見を入れたり又は削除したりして陳述した。
(大井)それから世界情勢判断と言ふのが御座ゐますが、迫水書記官長が読んだと言ふのは…。
(東郷)国際問題のことを言つてゐるから、どうも書記官長余計なことをすると言つて文句を言つたことがあります。
(大井)これも今のやうに六日の時に出てゐるやうですが。
(東郷)六日に出てゐるんです。
(大井)世界情勢の判断と言ふのは、外務大臣には前に相談しなかつた訳ですか。
(東郷)相談なし。会議開催に付前以ての打合も無かつたのですから、此陳述に相談があつた筈はないでせう。 又其中にそれに何かソ聯を引きずることも不可能ぢやないと言ふ意味のことがあつたと思ふがこれも全然自分の意見に反することだ。
(大井)これは外務大臣の仰しやつてゐる発言等の中に、文書は全然違ひますから比較にならんかも知れませんが、 少し違えば違うやうなところもあるやうですが。
(東郷)迫水の説明に就ては自分は一つも承知しなかつた。
(大井)さうですか。
(東郷)幹事の仕事振については、最高戦争指導会議の前身たる連絡会議の時にさう言ふくせがついてゐる訳です。 参謀本部の二部長、軍令部の第三部長あたりが来て外務省には何等打合せなく、外交問題を説明して居つた。 それに今の最高戦争指導会議の方には、外務省幹事がゐないでせう。 幹事の方で何処かに振り当てて準備しなければならぬ。 それで外交問題は書記官長がやると言ふ気持でやつたんでせう。 併しとに角書記官長あたりに外交問題が分る訳はないから余計なこと、間違つたことを言つては困ると言つて注意したことがあるんです。
(大井)当時の文書には今後とるべき戦争指導の大綱とありまして、七生尽忠の信念を源力とし、 地の利人の和をもつてあくまで戦争を完遂し、以て国体を護持し皇土を保衛し聖戦目的の達成を期す、 と斯う書きまして、次に、速かに国土戦場態勢を強化し皇軍の主戦力を之に集中すと戦略的のことが第一項に書いてあります。 細かいことが二行ばかり書いてありまして、その次に、 世界情勢の変転機微に投じ対外諸施策特に対ソ対支施策の活溌強力なる実行を期し、以て戦争遂行を有利ならしむ、 これが第二項に書いてあります。第三項に国内態勢の整備のことが書いてあります。 国内に於ては挙国一致国土決戦に即応し得る如く国民戦争の本質に徹する諸般の態勢を整備するんだと云ふのであります。 問題は第二項でありますが、この第二項の漠然たる言葉の中に、これで講和、 ソ聯の仲介かなんか知りませんが対ソ対支政策の活溌なる実行と言ふ中に和平と言ふことも含蓄の中に入れてあると言ふやうな考はなかつたですか。
(東郷)それは幾分あるにはあるがソ聯を有利に誘導すると言ふ気持の方がずつと強い訳なんです。 併し活溌なる外交の動きと言ふのは総て一般的な動きを意味するんだと言つて居りました。
(大井)最高戦争指導会議に出ましたものは、七生尽忠の信念を源力とし、地の利人の和をもつてあくまで戦争を完遂し、 以て国体を護持し皇土を保衛すると共に将来の民族発展の根基を確保す、恰度後で陛下が八月十四日ですか、 仰つたやうな言葉見たいなものが一寸出てゐるんですが、 御前会議提出の文書には何々すると共に将来の民族発展の根基を確保す、と言ふのがなくつて、 皇土を保衛し聖戦目的の達成を期す、と言ふ風になつてゐます。 鉛筆記入が具合から出発し最高戦争指導会議で書き改めたんだと言ふ風に思われますが…。
(東郷)八月十四日の陛下の御言葉と似てゐるかも知れませんけれども、 民族発展の根基を確保す云々とあると日本が向ふに持つてゐる占領地域を確認するんだと言ふやうな意味にもなるからこれでは困ると云つて、それは削除することになつたと思ふのですね。 地の利とか何とか言ふのは、陸軍の、さつき言つた近づけば戦争が有利になると言ふ考え方、 人の和と言ふのは士気の昂揚と言ふことですね。 議会によつて士気を昂揚すると言ふ意味から来たんでせうな。
(大井)迫水の手記に、国体を護持し国土を防衛することが出来ればこの戦争はそれで目的を達成したんだから、 そこで終つてもいゝんだと言ふ諒解があつたものである。 斯う言ふ風に手記の中に書いてあります。 朝日新聞でしたかに…。
(東郷)此決議案は主として迫水、秋永二人で作つたものではないかと思ふのです。 迫水あたりの気持はさうだつたかも知れない。 又今言つた後の方の文句を削つて日本が占領地域を自分のものにすると言ふ誤解を除去することにしたので戦争目的も大分緩和されたものになつて来ると言ふ気持はあつたんです。
(原)この書類は迫水書記官長が中心になつて起案したものと私は判断してゐるんですが、 この戦争指導の遂行に対しては鈴木首相は本当にそのつもりで真剣なつもりでお書きになつた。 決められたと斯う言ふ風に考へるのですが。
(東郷)鈴木総理の其時の気持は、議会を開くのだ、議会で士気を昂揚しなければいかん、 戦争を止めるにしても士気を落しては駄目だと言ふことが中心であつた。 だからこれはあの人が必しも実行が出来ると言ふのでなく一応斯う決めて置いた方が和平をやるにも都合がいいと言ふ気持です。 私が反対した時に、これ位決めて置くのは議会の関係もあるしいいぢやないかとの意味を述べられたことから、 私はあの人の気持はその辺にあつたやうに解釈します。
(原)主として陸軍ですが、継続派、強硬派の圧力に圧されて、 首相は不承知ながらもこれを決めたものではないかと云ふ考へ方もあるのですが、如何ですか。
(東郷)さうでもないと思ふ。陸軍の本土決戦派と言ふものがあつて、相当その中にも、 地の利なんて言ふのはその意味で書いたものだと思ふのですが、 それはなかなか容易なことではないと言ふ考は総理も米内海軍大臣も持つて居たと思ふ。 しかし総理は、あの頃はまだ暫くは戦争を継続し得るとの考へがあり、又一方には士気を鼓舞する為めの対議会策を考へて居たので、ああ云ふ態度をとられたものと思ふ。
(原)問題は御前会議の決定なんでありまして、いやしくも陛下の前で国策の大綱を決められた訳なんですが、 それが単に議会のための対策として斯う言ふ強いことを決めたと言ふことになりますと、 一寸斯う本末顛倒の感じがするので…。
(東郷)私はその点でその時反対したが、それから後木戸君にも話したことがある。 突然あの決議案が出て非常に困ったことを話した。 又六月二十二日陛下がお召しになると云ふ時にも御前会議の決定はあのまゝでは具合が悪いと思ふと言つたことがあります。
併しあれはあれで良いぢやないかと言ふのが木戸君を加へた一般の気持であつた。 あなたの言ふ通りそこに矛盾があることは百も承知して、 色んなことも言つて見たけれどもあれで良いぢやないかと言ふ一般の気持だつたです。
そこにあまり便宜的なものがあつたと言ふことは言へませう。
 (後略)

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(4)

(大井)それから第三は、昭和二十年五月十一、十二及十四日最高戦争指導会議構成員のみをもつて会議が開かれましたが、 その会議開催に至る経緯を説明して下さい。又その会議に於て審議されたこと及決定されたことを述べて下さい、 と言ふのですが、 その当時の書き物は或は外務大臣の起草されたものぢやないかと思はれるものがありましたので持つては居りますが。
(東郷)それは何処から手に入りましたか。
(大井)これは本当のものかどうか…。本当のものだらうと思ひますが、 外務省に持つて行つて見て貰ひましたがやはりよく分らないのです。 外務省からではなく軍令部から出て来たものです。 軍令部の書類の中にあつたのですが、その事情は恐らく斯うぢやないかと思ひます。 つまり及川大将が持つて居つたが、それが豊田大将に引継がれなかつた、 それでも一度外務省から豊田大将に外務大臣としてお渡しに成つたものと思ひますが、その辺はつきり分りません。
(東郷)一寸面白い問題だからお話しませう。 五月十一、十二と十四日に最高戦争指導会議の構成員丈けの会議を開くことになつたと言ふことが意味があることです。 その理由と言ふのは、私は以前戦争が始まる頃の連絡会議に出て居つたんです。 ところが連絡会議に於ては幹事の方で皆議案を準備して来る。 さうしてそこに来て説明するものは幹事なんです。 殊に外務省の方は僕がやつたことがあるけれども従て又討論の相当部分が幹事によつて行はれ、 その間に本当の構成員たるメンバーが議論をすると言ふ訳なんです。 それで話は構成員丈けの話とはならん訳です。 これは都合の良い時もあるけれども、不都合なことが多かつた。 殊に人が沢山になると、戦争と言ふことが中心になつてゐる問題が多いのだから、 強い方に話が傾くのは当然である。 又そこに出て居る幹事により会議の状況は全部下にも伝はる、さうすると部下を統御する関係上あまり弱いことは言へない。 個人的に話をして見るとさうでもない意見の人が、その場に出ると非常に強い意見を言ふと言ふ傾きがある。 それで本当に話を進めて行くには幹事を入れてはとても駄目だと言ふのが、その時得た私の感じだつた。 それで今度の会議は構成員だけと言ふことに私が仕組んだ訳です。 恰もその時は、戦争はもう沖縄の方も殆ど駄目だと言ふ訳で、 全般の大勢が非常に悪化してゐると言ふ時であつた。 陸軍の方からは私の所に参謀総長梅津大将が来、河辺次長も二度ばかり来て、 ソ聯が参戦しないやうに外交で処理して貰ひたいと言ふ話を持ち込んで来た。 その時の日本の国際情勢は全面的に悪化して、手のつけ様もない状態だつた。 それで僕は陸軍の両君に対してそれはむつかしい注文だ、戦時の外交は軍事情勢の推移によつて決つて行く訳だから、 もう少し日本が戦争に勝つやうにならなければ外交も何にも出来はしない。 それ所かソ聯に対しては手遅れであるから、既に米英との間に分前の分配まで相談してゐることも予想しなければならぬ。 それで戦争の方を勉強して欲しいと言ふことを言つた訳です。 海軍の方はそれ以上に不思議な訳で、ソ聯を日本の方に有利に誘導して欲しいといふ注文だつた。 それはソ聯の参戦防止だけでなく、ソ聯から日本に石油などを取り得るやうにして欲しいと言ふ。 これは軍令部の小沢次長其他が見えて「ソ」聯の石油、飛行機が欲しい其代り日本から巡洋艦をやつてもいいと言ふ。 これに対し自分は以ての外のことだと話した。 さう言ふものを供給するのは中立違反であるから、 ソ聯は日本の味方となつて戦ふ覚悟をする覚悟がなければ出来ないことだ、 戦局から見てもソ聯が日本の味方になつて戦ふ覚悟をすることは全然考へられないと僕は話したことがある。 併し向ふでは頻りに希望するので、それでは皆と一緒に話をする事にしようさうするには、先程も言つた通り、 幹事を入れては本当の話は出来ないから幹事をいれないで構成員丈けで話をしようぢやないかと言ふことを先づ梅津に話した訳です。 それは梅津も非常に賛成した。それで梅津に、阿南陸軍大臣に君の方から話をして呉れ、 総理と海軍大臣には僕が話すからと言つて手分けをして話した。 その話が纏まつて構成員だけの会議が開けることになつて、これがしまいまで非常に役に立つた。 第一はあの構成員の会議は終戦迄ずつと続けて居つたが、 この会議に於て忌憚のない話をして全般的に意見の一致を見ることが多かつた。 即ち戦争の終結と言ふことについての大体の気持は此会合で作ることが出来た。 第二は、ここでの話は下に洩れなかつた。洩れて居つたならばその間に非常な反対が起つて、 結局終戦の話はそのうちにこはれてしまつたかも知れない。 その危険を除去したと言ふ点に於てもこの組織は非常に役に立つた訳です。 その点で鈴木総理もそれから迫水君も頻りに此組織の有効であつたことを言つて居つたので、 迫水の手記かなんかにも出てゐるんぢやないでせうか。
(大井)この効果と言ふ風にはつきり分解したやうな書き方はして居りませんが、 これは色んな人が、その構成員のみをもつてする会議、と言ふ風に重視して取扱つてゐるやうに感じます。
(東郷)さう言ふ訳です。それからそれについて恰度その頃に、五月十四日頃でしたか、 これは一寸今誰だかはつきり思ひ出せないけれども及川君ぢやないかと思ひますが、 はつきり思ひ出せないので誰だつたと言ふことは止めて置きませうが、 軍部の一人から斯う和平の問題を議論すると言ふことが洩れては、下の者がだまつてはゐないと思ふ。 それでこの話は次長にも次官にも話さないことにしようぢやないかと言ふことを言ひ出した。 僕はそれは誠に結構だと早速賛成して、下に洩さないと言ふ約束をした。 それで和平の問題は外務省に於ても六月の末までは何人にも殆ど知らしてなかつたのです。 陸海軍でもさうだつたと見えて、 迫水君は軍務局長あたりから頻りに何か相談してゐるだらうと言ふことを言はれて困つたと言ふ話をして居たことがあります。 又私のところにも陸海軍の軍務局長は態々それを探りに来たことがあるんです。 併しその約束に従つて何にも言はなかつた。 兎に角これが役に立つことが分つた。 尚此会議を開くもう一つの私の本旨は、陸軍の方ではソ聯の参戦防止、 海軍の方ではソ聯の引入れを希望してゐるところから一般の和平機運の醸成と言ふことに導いて行きたかつたのである。 元来私の見るところでは、とても戦争は長くやつて行けない。 これは私が入閣する時に鈴木大将に対して入閣の条件にした訳なんだ。 この点は私の供述書に書いてあるから委しく話す必要もないが、鈴木大将は、まだ二、三年位戦争はやれるだらうと言ふので私は、 そんなに長く続ける訳には行きません。急速に和平をやらなければいかん、 本当に早くやると言ふ総理の気持がなければ入閣しても仕方がないことを述べたが、結局自分の意見に賛成すると言ふ諒解をとつて入閣した。 其様な訳で、自分は速に戦争を止めると言ふ考であつた訳で、 そのためには構成員だけの会議を開いて逐次和平の気持に持つて行く必要があると考へたのです。 若し和平の気持を政府及び統帥部の首脳部が十分持たず、 即十分その頭が練れないうちに突然和平の話に持つて行くと言ふことでは成立もむつかしい。 その事を尠くとも首脳部に於て十分に納得してからでないと結局は非常な騒ぎが起る。結局日本全体が騒ぎの渦巻の中にはいることになるので、 講和全般の成立を阻害することとならんとも限らない。それで全般的の話合、 全般的の気持を醸成して来ることが極めて必要だと言ふ根本的の考からこの構成員だけの会議を開いたと言ふ事情なんです。
この会議に於ては、さう言ふ成行きからもよく分るでせうが、先づ起つて来たのはソ聯に対する問題であつた。 陸軍で言ふソ聯の参戦防止、海軍の方のソ聯をして日本に好意的態度を持たしめるやう誘致する、 それに私の考へてゐる全部的和平と言ふ問題がこゝに持ち出された訳なんです。 その初めの日の話は、ソ聯はどの程度に於て利用し得るかと言ふ問題が討議の中心になつた訳です。 私は、ソ聯は軍事的経済的に利用し得る余地はないのだ、ソ聯を利用しようと思ふならば、 前から私はそのことは政府部内の人にも言つて居つたのだが、米英ソ三首脳者が会談しない前でなければ駄目だ、 あの三人が会つた後では日本がソ聯を利用すると言ふことは出来ない。 日本とソ聯との関係を全部的に調整することも、又ソ聯とドイツとの和平促進も三巨頭が会はない前にやらなければいけなかつたのである、 併しさう言ふ考が実行せられないで、カイロ宣言、テヘラン会談と言ふことになつた。 尚又ヤルータ会談も終了した。今頃になつてソ聯の重要軍事資材を利用するとか、好意ある態度に誘致すると言ふことは出来なくなつた。 既に手遅れだと言つたところが、米内海軍大臣は手遅れではないと思ふと言ふ。 少し余談になるけれども私は米内君とは鈴木内閣にはいつて以来話が合つて、一緒に仕事をして来た訳なんだが、 此時たゞ一ぺnだけ激論をした。即米内大将はソ聯に対しては手遅れぢやないと言ふのに対し、 それはソ聯の実状を知らんからさう言ふことを考へるのだと言つたところが、前に外務大臣をして居つた君等の先輩でも、 ソ聯は今からでも手をつけ得ると言ふことを言つてゐるんだと言ふ。
その名前も聞いたけれども、名前はこゝでは止めて置きませう。自分はそれはソ聯を知らないのだ、 ソ聯を日本の有利に誘致すると言ふこと結局飛行機を貰ふとか石油を貰ふとか言ふことは全く考へる余地はないと言つて私は強く反対した。 併し総理は向ふの気持をそれとなく探つて見ていけなければそれでも良い、探る位のことは良いぢやないですかと言ふ。 それでさう言ふ意味合のことを加へて置くならば差支ないだらうと言ふことになり結局に於て決つたのは、 第一がソ聯を参戦せしめないこと、これは誰しも必要を感じてゐたことです。 第二が好意的態度に誘致すること、第三に、ソ聯を通じて和平を導くと言ふ三つの目的をもつてソ聯と交渉すると言ふことであつた。 私はその時主張したんだが、ソ聯は日本との戦争を始終心配してゐるから、 今の状態に於て日本に対して好意をもつてゐると言ふことはあり得ないのだ。 日本が弱くなつてゐるんだから、日本と一緒に仕事をして何か利益を得ようと言ふよりは、 英米と一緒になつて利益を得ようとする気持の方が強くなつてゐると思ふ。 従てソ聯に対しては参戦防止、好意ある態度への誘導にしても仲介にしても、相当の代償を払はなければ成功しない□合であると述べたが、 これは皆も納得したんです。そこで代償はどう言ふものが適当であらうかと言ふ問題に話がなつて、 十五日までの間にその話が大体決つたんです。あなたの言つてゐるのはこのことでせう。
(大井)代償のことは何カ条かに書いてありますか。
(東郷)私の方で立案したものに、少し附け加つたところがあるけれども、その決定せられたものを書類にした。 その時の出席者即総理、陸海軍大臣、両総長と私とでサインして書類は私の所、外務大臣の官邸に置いた。 ところが外務大臣の官邸は五月三十日(二十五日)の空襲で焼けてしまつた。 その書類も焼けてしまつたので、更に同一内容の書類を作成し、総理にだけ斯う言ふ訳だからと話し、総理だけのサインを貰つて、 自分が其成行を記載してサインして置いた次第なんです。 それでその決議したソ聯に対する代償の大体の趣旨は、南満洲以外は日露戦争前の状態に返すこととする。 言ひかえて見ると、ポーツマス条約及びこれによる漁業権は解消しなければならぬ。 北満洲にも向ふは非常な希望をもつてゐるから必ず要求するだらうと思ふ。 併し南満州をどちらかの勢力範囲とすることは又々葛藤が起る原因になると考へて居たから之は緩衝国にすると言ふ大体の考です。
(大井)これは十五日に、十一、十二、十四日だけでなく十五日も会つて居つた訳ですか。
(東郷)この会議は終戦迄ずつと続けてやつて居つた。
(大井)先程の書類は会議の劈頭に出したものでなくつて、会議の後に作られたのですか。
(東郷)その話はそこまで動いて、その結論を書き物にした。
(大井)決定したものをですか。
(東郷)決定したのです。
(大井)次のことを決定したと斯う書いてありますがその時書いた日付がハツキリしません。 書き物はあまりコンプリートぢやない関係かも知れませんが。
(東郷)決定したと言ふことは、本当にテキストには出てゐない筈ですが、それは及川さんが書き入れたんでせう。
(大井)昭和二十年五月十一、十二及十四日に亘る最高戦争指導会議構成員のみをもつてせる会議に於て意見一致せるところ左の如し、 左記として。
(東郷)書き出しはさうなつてゐたやうに思ひますね。
(大井)十四日の会合が終つて書いたのですか。
(東郷)さう、十四日の会合が終えて書いたんです。
(大井)或る人の話によりますと、 斯う言ふソ聯を使ふと言ふことの会議の発端の頃に当時沖縄の戦闘が行はれて居つた訳ですがこの沖縄の戦闘に対してソヴエートの態度が割合に好意的である。 例へば今までレイテとかその他の会戦に於て日本の戦況をあまり有利に報道し居らなかつたタス通信あたりが、 沖縄の戦闘に関する限り何だか日本側に有利なやうな報道をするやうになつた。 さう言ふことでソ聯を使ふと言ふことに対して脈があると言ふやうな感じがした、 斯う言ふ陳述も私の方にして呉れた人があるんですが。
(東郷)沖縄の戦争でソ聯のタスあたりが日本に有利なことを書いたと言ふことは聞いたことがあります。 併しそんな枝葉のことが原因になつて決つた訳ではないので、大きなところは陸海軍の方でソ聯の参戦と防止する、 誘導してくれと言ふ気持が本になつた訳です。
(大井)それから或る書き物、調査によりますと陸軍大臣がドイツの屈服と言ふことに刺激されてこの会議を、 この会議かどうか知りませんが、何か国策の大転換に対する会議見たいなものを提唱したと言ふように書いてありますが、それについては…
(東郷)それもうそだ、陸軍大臣が此構成員丈けの会議を提唱したことはない。 陸軍大臣は無論賛成はしたが、陸軍大臣が持ち出してこの会議が始まつたと言ふ訳ぢやない。
(大井)延いてはソ聯を仲介として一般的和平に導くと言ふ今の外務大臣案ですが、 あれに対して皆さんの意見はどう言ふ風でしたか。
(東郷)その時問題は進んで一般の和平第三に移つた訳です。ところが和平と言ふことには全員不賛成はない訳なんで、 結局条件をどうするかと言ふことに問題はなる訳なんだ。 この条件と言ふ問題になると陸軍では阿南君が強く言つて居つたが、日本は決して負けてはゐないのだ、 まだ敵の領土をうんと占領してゐるんだ、この負けてはゐないと言ふことを基礎にして考へなければいかんと言ふ訳なんです。 それで僕は、今猶広大なる領土を占領されて居るのは、沖縄だけと言つてもいい位なんだが、 今後に於ける戦局の推移如何が問題なんだ。 それで今とに角敵の領土を占領して、日本の領土を占領されてゐないと言ふことのみで、 和平条件を決定することはとても出来るものではないと言ふことを主張したけれども、形勢はなかなか険悪になつて来た。 そこで海軍大臣は、この第三の実行については当分伏せることにしませうと言ふことを突如として言ひ出した。 僕はもう少し話合を進めて置かなければ後になつて困るんぢやないかと思つたけれども、 総理も今そこまで決定しなくても、先づソ聯の気持を探りつつ話合を進めて行くことにしようと言ふ訳なんです。
さう言ふことで第三項の実施は後れた訳です。

2015年7月27日月曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(3)

…鈴木内閣が出来た時には私は軽井沢に居つた。ところが鈴木さんが東京に来て呉れと言ふので、出て来て会つたところが、 自分に外務大臣になつて欲しいと言ふことであつた。それで鈴木さんに、非常に戦局の悪化したので戦争を早く終結する事が必要だと思ふが、 戦争の見透しについてどう思つて居られるか、その見通しを聞かなければ私は外務大臣になるかどうか御返事出来兼ねると言つた。
ところが鈴木さんは、戦局は悪いが、二三年は大丈夫だと思ふと言ふ。 私はもう今のこの状況からして二三年保つと言ふことは不可能である。 速かに局面の収拾をやるのでなければいけないと考へる。 あなたがまだ二三年は戦争がやれると言ふのは私の考と非常な差がある。 私が入閣しても、此見透しに付いて意見が一致しなければ私の気持とあなたの気持との間にしつくりしないとことが出来るので 一緒に仕事をやるのも不可能ぢやないかと言ふことを主にして随分長く話した訳です。 その点にあまりこだわらないではいつて欲しいと言ふ色んな話があつたが、これが根本問題だからもう少しあなたも考へて貰ひたいと言つた。 私の方にも考へてくれと言ふことで、お互に考へようと言ふことでその晩遅く別れた。 さうして翌日岡田元総理、それから外務省の私の先輩として松平宮内大臣、 広田元総理に鈴木総理との会談について評価を語つたが何れも此際他に適任者が見当たらないから是非やつてくれと言ふ。 しかし自分としては総理の方の気持が決まらなければはいつても仕方ないと言つて置いた ところが、そのうちに迫水君が来た。是非はいつてくれと言ふ、あなたがはいつてくれなければ鈴木内閣は非常に困るんだと言ふ。 それで私は斯う斯う言ふ訳でその点について総理の気持がはつきりしなければ仕方がないと言つて帰したことがある。 その頃松平君が来て是非入閣して欲しいと言ふ。それで今言つたやうな話をしたところが松平君が言ふのには、 自分の推測では、総理の気持もさうはつきり決つてゐるとは思はん、 それでその点についてはあなたが入閣してから啓発して貰ふことが適当だ、 殊に終戦の問題について陛下も非常に考慮して居らるる模様である。 だからその点についてはあなたの心配は要らんと思ふ。 この局面を背負つて立つのはあなたより外ないからと言ふので是非入閣してくれと言ふ話があつた。 それが和平に関する陛下の御思召しを知つた第一です。 昨日の話のうちに東京裁判の話が出たから、昨夕一寸私のところに私の関係する裁判の書類があつたので見たところが、 その点は松平康昌君が私に対する口供書の中に相当委しく出てゐるんです。 あなたも見られたと思ひますが、それから迫水君の方の分も鈴木内閣の入閣の事情、 それからはいつてからのことも迫水君の方の口供書に出てゐるやうですね。
そんなものを一つ参考にして貰つたら私の方で委しくお話する必要もないと思ひます。 それから迫水君がもう一度鈴木総理にあつてくれと言ふので会った。 その時に、鈴木さんはあなたの言つた考えでやつて貰へばいゝ、と言つて僕の話をすつかり受入れたので、 僕は入閣した訳です。その後四月の末にドイツが潰れた。
その直後に陛下にお目にかゝつて、ドイツがどうして崩壊したかと言ふ事情について委しく申上げたことがある。 それに引続いて陛下から色んなお尋ねがあつた。 それに関聯してドイツの崩壊したのも空襲が主なる原因になつてゐますが日本に於ても空襲がだんだん劇しくなつて来てゐる、 生産が非常に減退して来た、この事態からしますと戦争の継続は殆んど不可能と思ひます。 従つて日本の今後の方策は此点に重きを置いて考へる必要があると思ひますと申し上げた訳です。 陛下は、戦争は早く済むといゝねと言ふお言葉があつた。 その時はたゞそのはづみで今のやうな話になつた訳で、私も閣内で相談した上で申上げると言ふところまで行つてゐないし、 陛下も単に御気持をお洩らしになつたと言ふ位のところになる訳ですが、 とに角さう言ふことがあつて、陛下の方は早期和平と言ふことを希望して居られると言ふことはそれで察しられた。

2015年7月26日日曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(2)

(東郷)第二の質問は、カイロ宣言は日本の講和努力に対して障害になりましたか、なつたとすればどんな風にですか。 これは障害になつたと言つてもちつとも差支へありません。 何故かならばカイロ宣言の中には日本は領土の一部を返還すると言ふ規定があるもう一つは、 日本の無条件降伏と言ふことがある。 それは当時の気持として日本が無条件降伏をするなんて言ふことはとても考へられない。 それで少くともその頃に於てあゝ言ふ宣言が出たと言ふことは 日本が和平しようと言つても出来ない方向に持つて行つたものである。 殊に領土の問題については日清戦争を日本の侵略だと言ふ建前から観てゐる。 日清戦争は、これはあなた方も御承知だらうと思ふが支那の方から朝鮮に向つて出兵して、 日本も条約の命ずるところによつて出兵した、そこに衝突が起つた。 結局支那が朝鮮を自分の保護国乃至属国にしようと言ふから日本はあの戦争を自衛上始めたと言ふ訳なんです。 これはその頃に於てはつきり世界的に認められた事実なんです。 併しカイロ宣言に於てはその歴史的事実を変更して日清戦争は日本の侵略戦争なりと言ふ建前で取扱つてゐる。 日本の国民感情から言へばさう言ふ解釈は許されぬ。 従つて平和の努力には非常な障害になつた。 この問題は大西洋憲章とも関係のある問題である。 大西洋憲章の方から言ふならば何れの国も戦争により領土を拡大しないと言ふ条項があつたと思ふ。 この領土の拡大を企述しないと言ふことからして日清戦争を日本の侵略戦争なりとし、 日本が略奪したんだから還さなければならぬと言ふことに無理にくつつけたものだとも思ふが、 兎に角大西洋憲章と抵触してゐる嫌ひがある。 更に日本の国民感情から言へば今言つたやうな訳ですから、平和の努力に対しては大きな障害になつたと言ひ得る訳です。 併しこのカイロ宣言は私が外務大臣を辞めた後のことだから、 これについてその時の政府の考はこゝで私が言ふべき地位ぢやないですからこれだけに止めて置きませう。
(大井)これは後でポツダム宣言の中に織り込まれた…。
(東郷)それを思つて長くしやべつた訳です。その時言ふべきことを今言つてしまつた訳です。
(大井)ポツダム宣言の時にはこのカイロ宣言があつたからと言つても、 外相としてはそのカイロ宣言はあまり邪魔には感じられなかつたですか。
(東郷)私は邪魔に感じたんですよ。あの時はカイロ宣言なるものが相当理論的に徹底しない。 国民感情から言へば納得出来ないし、又歴史的事実に反すると言ふ気持で私はその時も考へた。 併しこれに対する処置は、そんな感じばかりではいけませんから、又外の考へ方に由つて処置した。

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(1)

昭和二十四年五月十七日
 太平洋戦争終結の史実に関する元外務大臣東郷氏の陳述第1回

陳述者 東郷茂徳(1941.10.17より1942.9.1まで、1945.4.9より1945.8.17まで外務大臣)
聴取者 山崎東助、大井 篤、原 四郎(FEC, GHQ, G2, 歴史科)
速記者 野田一郎
陳述期日、場所 1949年5月17日、東京巣鴨拘禁所

 (前略)
(東郷)それでは第一問の東条内閣時代に一般的講和の努力がありましたか、 あつたとすればそれはどんなものでありましたかと言ふ質問ですが東条内閣時代と言つても戦争が始まつて直ぐ、 戦争勃発の直後と言ふことになると、その時はあなた方も御承知の通り日本では緒戦に勝つたと言ふことで、 非常に勝利に酔つて居つた。又当局では戦争は長びくとの見透しであり、 軍の方では、この戦争は和平によつて解決するのではなく、こちらが何時までも持久戦でいつて、 向ふが弱るのを待つより外ないと言ふ考へ方が強く、 この戦争は十五年も二十年も続くと言ふことがその頃言はれて居つた。 その一例として一寸思ひ出したのは、一九四二年の一月末だったと思ひますが、 衆議院の予算総会で、先頃国務相をしてゐた植原悦二郎君が外交質問をしたことがある。 それは外のこともあつたけれども、 この戦争は何れ講和しなければならないがそれについて外務大臣は考慮せられてゐるだらうかと言ふ質問だつたんです。
だから私は、無論戦争は平和に持ち来すと言ふことが必要である、 だからそれについては十分の準備と覚悟を持つてゐると言つたところが、 議員の方から非常な抗議が出た。敵を壊滅するのが戦争の目的だ。 然るに外務大臣が講和の用意があると云つたのは失言だ。取消したらよかろうと言ふ訳です。 私は当り前のことを言つたんだから取消す必要はないと頑張つたところが閣内でも、 議員の言ふのは尤もだ、 今の勢で行くならばワシントンまで占領することも出来るかも知れないと言ふやうなことまで言つてゐるものがあつた。 今から見ると丸で滑稽な話しですが、当時は左様な世相であつた。 だから総理も何とか穏かに話をつけるのが良いだらうと僕に言ふ。 僕は取消す必要はちつとも認めないのだがたゞその頃よく使つて居た方法で速記録に載せないと言ふことがある。 僕は速記録に載せるためにしゃべつてゐるのではなく議員に諒解せしむるためにしゃべつてゐるのであるから、 速記録に載せると言ふことの必要は認めない。 それで速記録に載せないと言ふことを僕が承諾すると言ふことでもつて話を纏めたことがある。 議会でも当時はさう言ふ勢だ。
(大井)議会では全部の議論がさうだつたと言ふのではないと思ひますが…。
(東郷)その時のことは今から名前を言ふ必要もないと思ふ。議員の方からさう言ふ要求が出て、 これに、大勢の人が賛成したと言ふことに承知されたいのです。 さう言ふ時代であつたから、一般的講和の努力をすると言ふことはとても出来る時代ではないと言ふことを言ひたいのです。 だから私としては先づ個別的に講和の機運を作り、 然る後に一般講和に導くと言ふことがその際としては最もとるべき方法だと考へ、 それについては相当尽力した訳です。 併しそれも講和の具体的提議とか言ふやうなことは無論その時の情勢から見てあるべき筈はない。 即講和に対する準備と言ふ気持ちで動いて居た。 その一つとして、これは私の口供書に書いてゐるのだが、ソ連に対してスメターニンと言ふ大使が帰る時に、 モロトフの言づけをして呉れと言つたことがあるんです。 それは一九四二年の春ですけれども、世界の大国中、日本とソ連とだけが戦争をしない関係にある、 即ち恰かも夕立の中に日光の射してゐるやうな場所だ。 世界の平和はこの地点からこれを拡げて行くと言ふのが自分の希望だ、だからソ連もその気持でもつてやつて欲しい、 と言ふことをモロトフに言づけをしてやつたことがある。 これが一つの私の全般的和平に導くと言ふ気持の現はれです。 次には支那問題が太平洋戦争の起因であると言ふことは明かな訳だから、 先づ支那問題を解決する。日本と支那との間の和平が出来るならば、戦争の終幕も促進せらゝと言ふ考で、 一九四二年の五月末だつたと思ひますが、連絡会議にその話を持ち出して、 支那問題をこの際速に解決すると言ふことにしようぢやないかと言ふことを提案した。 支那問題解決促進の趣旨に就ては列席者一同の同意を得た訳ですが 具体的にどうして実行に移すべきかと言ふ問題になつたところが、 なかなか議論が紛糾して来た。或る一部では、日本は今戦争に勝つて今重慶は殆んど困憊してゐるのだから此勢に乗じ、 国民政府を撃滅する方が東洋平和のためにいいと主張した。 併し私は徹底的にこれを撃滅することは不可能であるから、やつつけるよりは、 寧ろ今の日本の有利な状態に於て話をつけることが得策であると言ふことを言つて議論を交えた訳ですが、 結局は軍に於て、今の支那との戦争行為をどう言ふ風に持つて行けばいいか、 又これを終結するにはどう言ふ風にするか今少しく研究したいと言ふことで、 参謀本部の方でこれを研究することになつた訳です。
その後参謀本部の方で研究しつつあると言ふことは当時の岡本第二部長から私にも度々話がありましたが、 其の話によるとなかなか軍の方の研究はむつかしくつて一向結論が出ないで困つて居るとのことであつた。 さうしてゐるうちに例の大東亜省云々の問題が発生して、同年九月私は辞めることになつた。
それで支那問題の方も私の考を達成するところまでいかないでそのまゝになつて私は辞めたと言ふ訳です。 それからソ聯との関係に於ては 先づソ聯とドイツとの間の和平を促進し逐次全般的和平に誘導することが適当であると言ふ考で、これを連絡会議に 持ち出して大体の筋道に於ては賛成を得た訳なんです。 一九四二年七月クイブイシエフに居つた佐藤大使に、 何時でも独ソ間の和平の問題を持ち出し得る地盤を準備して置くやうにと言ふことを訓令したことがある。 ところがこれも話合を開始する所まで行かないうちに私は九月一日に外務大臣を辞めたので、 私のその時の考案は実行せらるるに至らなかつた。 一般的和平の為めの具体的の動きがあつたのはずつと後になつて鈴木内閣が成立してからのことですよ。 第一問は大体そんなところです。
(大井)法廷の記事によりますと一九四二年七月に、陛下から何かお話があつたが、 その前に同年二月にも総理と内府に対し陛下が申されたのはあなたに伝へられなかつたと言ふことが載つてゐるやうでありますが。 (東郷)それは東条内閣の時、一九四二年の二月のことです。
(大井)その七月の陛下が仰しやつたことは、 ソ聯関係を独ソ和平に逐次全面的に誘導すると言ふことについて佐藤大使に訓令したことと関係ありませんか。
(東郷)関係ありません。陛下の方の話は鈴木内閣の時です。 このことは後の方に項目があるやうですからその時話します。
(原)シンガポールが陥ちた時に、 イギリスから和平提案があつたと言ふことを中野正剛の輩下の三田村と言ふ人が大々的に新聞に出しましたが…
(東郷)全然ないことです。少し立入ることになるけれども、斯く言ふことがあります。 戦争勃発后イギリス大使クレーギーが帰国する時加瀬秘書官を使ひにやつたことがある。 クレーギーとは日米交渉に付話をしたことがある私はイギリスをあの交渉に参加せしむるを適当と考へ同大使に対し、 イギリスは極東に大きな権益をもつてゐるのだから、此交渉に参加したほうがよからうと二三度話したことがあります。
クレーギーもそれに賛成して本国政府に電報を出した。 ところが本国から、日米交渉に於ける支那問題その他の問題は現在アメリカ側の交渉に一任してあるから、 それでイギリス政府としてはその話の成行を待つてゐるので、その間自分達は干与しない方針だと言つて、 叱られて来たと言ふことがあつたんです。 それでクレーギーに対しては折角お互に交渉成立を図つたけれどもとうとう成立しなくて、 戦争になつたのは甚だ遺憾である。戦争になつた今日に於ては戦ふより外ないが、 一方戦争が勝算なきに至つた場合には速に之を止めることがお互双方のために良いことだから、 此の点はよく含んで置いて欲しい。 或はあなたが適当だと思ふならば帰つてから政府にも話して欲しいと言ふことを加瀬を通して伝言した。 さうしたらクレーギーはアメリカ側のハルノートは自分は戦争になつてから初めて読んだ。 ああ言ふものなら日本側がこれを拒絶したのは当然のことと自分は思ふと同時に戦争を止めることについては、 今これを止めると言ふことになるとイギリスが不利の状況にある今日、 和を講じたらよからうと進言するやうなことになるから、自分は帰国してからも政府に言ひ兼ねる、 併し日本の外務大臣の厚意には自分は感謝すると言ふ挨拶があつたと言ふので、加瀬から報告があつた。 だからイギリスの方でその時和平の話を持ち出すと言ふことはとてもあり得ることぢやない訳です。 当時イギリスからさう言ふ話があつたらうと予想するのは忍耐強いイギリス人をあまり軽蔑するものだと言つても差支へない位です。又さう言ふことは実際に於て私の方に通じて来たこともなかつた。 その三田村の話と言ふのは、中野が話したとか、鳩山から話が出たとかに違ひない、 私もずつと後になつて其の話を聞いたことがあります。 併し鳩山中野がそんなことを知り得る筈はない。 私の所にも中野は時々来たことがあります。が、その時もそんな話が出たことはない。それは間違です。
(原)日本の常識になつてゐるのですが…
(東郷)さう言ふことは理論的に言つてもあり得る訳のものではない。
 (後略)

2015年7月18日土曜日

書庫(49):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(II)より

 昭和二十三年四月二十二日
二とせは戦ひのせとに押して来ぬさばきの趣旨はこれいかならむ

 鈴木貫太郎大将数日前逝き、米内大将亦昨日遠逝の由、終戦の際を偲ぶ
民族の亡びぬ為ぞとのたまひしみ声は今に著しかも

 本日は天長節也。起訴状の発せられたるより二年目也
太平洋潮ひ潮満ち時来べし力落すな大和民族

邦家再健の曙光を認め我れ死なむ道遠くとも健やかにして

 六月二日
出来る丈おのが自由の欲しきかなせめて読書に且つは思索に

 十月三十一日
冬は来ぬ麻布の児等はいかならん巣鴨の住居寒けきものを

 廿三年十一月判決以降
たわいなき判決はありぬ二十年いつの時にか此年期明けむ

年の瀬を幾度こゝに過すべきか家なる児等をかけて忍びつ

いざ神のさばきに身をば委ねなん彼等の裁きたよりなければ

現し身はたわいなき身なり従容と死に就にしこそいともめでたし

黙々と死に就きたるぞいともよし物言ふことのしるしなければ

判決のありたる後も敵人に頭を下げて乞はむとは思はじ

 母上五年祭に
四年間移り変りのはげしきも母見まさぬにやゝ安らけし

年の瀬に年内のこと皆浮び来ぬ試練の年よよくぞ過ぎ行く

年の瀬に為すこともなし巣鴨にて只諦めの心哀しく

来む年に為すべきことの目途無きも唯世の為に生くべしと思ふ

冬の朝巣鴨の庭の片隅に椿三輪紅に咲く

現し世の毀誉褒貶はたよりなしわれ一筋に我道行かむ

 昭和廿四年一月四日
読み話しいねてし居ればいつしかに日一日と過ぎて行くなり

 一月七日
行く先に望みの光り見ればこそ囚屋の闇はわびしかるとも
 一月十日
我心痛みて止まず世の人のなべて憂に生きてしあれば

 一月十二日
十年余り火水の中を渉り来ぬ妥協の港に憩(やす)らいもせで

 一月十二日
世の中のかゝらはしさに飽き果てぬ心靜かに死にて行かなむ

 一月十四日
此人等国を指導せしかと思ふ時型の小きに驚き果てぬ

 一月十四日
唯一つ妥協したるがくやしくも其後のまがつみ凡てはこれに

 一月十四日
此人等妥協を旨と心得て風を避けつゝ波に押されつ

 一月十四日
此人等信念もなく理想なし唯熱に附するの徒輩なるのみ

 一月十五日
病ひへの抵抗力の失せぬるか嵐来らばひたと仆れむ

 一月十五日
これよりはせんすべをなみ唯真理探究者として世を終へむのみ

 一月二十四日
冬の日を病める独房の窓に鳴く雀の声は嬉しかりけり

 三月十九日
常なくもうれしかりけり山離かる空の浮雲朝日に匂ふ

 三月下旬
巣鴨なる樫の小枝に新芽立ち降りし小雨に心和めり

 四月十三日
人の世は奇しくもあるか幾度も生死に境し遂に死せず

 四月十三日、軽井沢庭の桜を偲びて
高原の樅に混らふ桜花月靄に浮び常春の里

 四月十五日
春の風獄の狭庭に立つ我れの白き鬚先撫でて吹き行く

 四月十五日
書(ふみ)を読み道を守りて独り居の楽しき心三年経にけり

 四月十五日
日一日なべて佳き日と暮しなば楽土と思ゆ囚屋なりとも

 五月七日
偽りのなき世なりせばいか計り人の言の葉嬉しからまし

 五月七日
かく計り憂きすおもひし人が世に何か我身に生れきにけむ

 六月二十一日、本城氏への返歌として
降りよどみはてしもしらぬと思ほえし五月雨晴れて大空光る

 五月雨に続く暑さの其後の涼しき秋の光りをぞ待つ

 七月三十一日
夏雲の立ちたる彼方麻布なる我家のほとり夕焼けにして

 九月四日
放しやらぬ人のつらさを情にて朝な夕なに書(ふみ)に読み入る

冬されば青桐銀杏落葉して囚屋の庭に霜柱五寸

病院によろずの病ひ見てしより病なき身を有難しとぞ思ふ

 昭和二十五年一月二十八日
君の為め世の為めの業(こと)は成し遂げぬ今は死してもさらに惜まじ

 一月二十八日
死を賭して三つ仕遂げし仕事あり我も死してよきかと思ふ

 一月二十八日
むらむらと望郷の念ぞ湧く日なり天の白雲見ればかなしも

 一月三十一日、終戦后唯紺碧の空なつかし
宮城は見しこともあらず墟(あと)空し唯祥光のさわに立つ見ゆ

 三月十五日
今一つ仕遂げたきことなり出でぬ我が世の欲の重なるものか

 三月十六日
わびし世を誰れに語らんよしもなし波に浮べる水鳥のごと

 三月十六日
国力を消耗せしが惜しかりき未曾有の働きせしにはあれど

 三月十七日
真面目なる動きに我は冠たりきそれのみにて今もよしと思へり

 四月四日
この夜またあまたの所刑あるといふ雲たれこめて春寒き夕

 四月二十七日
こどもらのよきたより聞きてセメントの冷き室にも熟睡(うまい)せるかも

2015年7月13日月曜日

書庫(48):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より

戦争に就て
 戦争に就ては論ずべきことが極めて多く、戦争の原因を社会的諸条件のみに帰せしむるものか、 また個人的原因がその要件なりとせば、意思の自由との関係はどうか。 自由意思とは正義の観念と同じく人類の発育せしめたもの、正確に云えば発育の途上にあるものではないか、 などの社会学的以上哲学的範囲に入りての検討が必要となる。 また従来国際法の一原則であった内政不干渉と思想戦との関係も考察に値する。 殊に全体主義と民主主義、共産主義と資本主義の戦いと云うが如き、充分の考究を要するものである。 しかし本書でも後にこれら一般問題に論究することになるかも知れないから、 ここではなるべく簡単に戦争に関する、二、三の事項に限定して述べたいと思う。
 第一に戦争の起因は各時代により異なることであるが、近世期に於ては個人的欲望によることは甚だ稀で、 そのほとんど全部が国家主権の確立および資本主義経済の発達に伴うものであった。 植民地獲得およびこれに伴生した各国間の戦争が主なるもので、 原料の獲得および市場の確保を目的とするものが多かった。 いずれも経済的原因を主とするもので、最近に於ける高度資本主義発達の必然的結果とも云うべきものであり、 各国の経済的競争によるものであった。かくの如き戦争が絶えず発生し、かつ科学の進歩と共に 戦争が大規模となる傾向にあるため、これが発生を阻止せんとする企てが一方には台頭した。 紛争がある場合、仲裁裁判によりてこれを解決し、戦争の発生を防止する方法も企てられたが、 総括的仲裁裁判を受諾する国が少ないので余り効果は挙らなかった。 また不戦条約の如き条約を以てするの方法であるが、成立当初から自衛の場合は除外すると云う抜け穴があった。 国際連盟その他の集団的保障によって相手国に制裁を加え、また攻守同盟によって相手国に対する戦争に参加するなどの方法により、 戦争を防止するに資せんとしたが、或いは有効ならざるかまたはかえって戦争を激成することになった。 勢力の均衡による戦争防止もまた同様であって、実際的にこれを防止するの方法がなかった。
 これに反し現代に於ても戦争防止の効果を阻止するものが少なくない。 各国自己に都合よき主張の下に軍備縮小に反対せるものその一つであり、各国間に猜忌を逞しくし、 ただ武力を以て自己を防衛せんとする思想が、最近ますます盛んとなったことも挙げなくてはならぬ。 なお世界の領域が確定したるに伴い、持てる国々が自己の利益を擁護するに急にして、 持たざるものの立場を顧慮せず、従って不平等或いは不当となりたる条約の改訂もなんら事実上は行われざりしことも、 戦争勃発の止むなき原因となった一つである。 更に近代国家の成立と共に国家主権が高調せられた結果、自国主権の制限を好まず、自衛権の範囲の如きも、 各国凡て自らこれを決定するの権能あることが国際法の一原則であった。 なおまた最近、一国の自衛は防衛が最有効なる土地および時に及ぶとの思想が、 米国の如き最も強大なる国により唱道せらるることとなったために、 一国の凡ての行動を自衛の範囲内にありと説明し得る範を示すことになって、 戦争防止を阻害する大原因となった。 他方最近戦争が全体的形態となったため、所謂戦略物資の範囲が無限に拡大したことが、 「ヒトラー」の電撃作戦の実施と相俟ちて、国際法の遵守を困難ならしめたのも注目すべきである。
 従って、第一次世界大戦に於ては、「戦争を終熄せしむるための戦争」との標語を以て戦ったに拘らず、 忽ちにして第二次大戦となり、この戦争に於ては各国共によりよき世界の出現を望んだが、 未だ講和条約さえ成立せぬ間に冷たき戦争に入り、第三次世界戦争の勃発が呼号せらるる世の中である。 されば戦争の絶滅には、戦争の起因につき更に熱心に更に良心的検討を加え、 各国が今以上に自利心を放棄して真に独立和衷の途に進まざる限り、 平和の維持は不可能であると云わなくてはならない実状である。 これ釈迦、耶蘇、孔子等の如き人類の先覚者が平和の念に目覚めて以来漸く二千年を以て数えるのであり、 人類の起源に較べても余りに短き期間であるから、人類の協力、各国の和衷というが如き境涯に到達するには、 なお若干の歳月を要するのも無理からぬことではあるが、原子爆弾の如き最も非人道的武器が、 単に戦争の終期を早からしむると云う理由により既に使用せられ、更にまた水素爆弾の如き更に威力あるものも 使用せられんとするのであるから、世界の人士は単に戦争防止の形式的方面にのみ囚われず、 その真因につき速かに方法を講ずる必要が認めらるるのである。
 なおこの点につき一言すべきは、真に平和を欲求する場合には身を以ても戦わなくてはならぬことである。 一事件につき傍観者の地位に立ちて、事件経過後自分が平和を冀求したことを述べても無意義である。 また自分を危害のない地位に置きながら、演説または電報を以て平和的意向を表示するのは安易に過ぎる。 真に平和を欲するものは凡ての機会を利用して輿論の喚起に、または平和攪乱者との戦いに危害を冒しても進むの慨がなくてはならぬ。 殊に時勢の流れが凄じき奔りを見せている際に、左右枝悟または前後矛盾する行動に出るが如きは以ての外のことであるが、 東西とも所謂政治家と称するものには類が少なくない。 なおまたこの点は国際間の交渉にも適用を見るのである。 一国がある交渉に於て平和的意図を高調しても、具体的交渉条件につき徹頭徹尾自己の主張を固守し、 いささかの譲歩すら為さずとせば、相手方に全面的屈服を求むることは、 案件の性質如何を問わず真に平和を希求する態度とは云えない。蓋し交渉は普通の場合「ギヴ・アンド・テイク」であるからである。

「第二部 太平洋戦争勃発まで」
「第三章 日米交渉の歴史的背景」より

2015年7月11日土曜日

書庫(45):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より


予の根本思想
 右意見書を通ずる予の根本思想は国際信義、条約の神聖、平和的紛争処理であるが、 いずれの国いずれの時と雖もその衰微を防ぐには不断の変化と発達を要するので 保守停滞は禁物であるが、しかし一時代の推移も一国隆盛も余りに急激なる速度を以てするは好ましからずとするにあった。 この思想は本意見書の表面上にも到るところに現れており、 国家的交際も個人的交際と同じく信義を緊要とすとの思想と相並んで国家の秩序ある進歩を希求しているのである。 即ち一時眩惑的成功を来しても右には充分の根底を欠くことが多いから、 間もなく逆転することになったのは史上の例に乏しくない。 革命に於てさえその実例は枚挙に遑ないのである。 なおこの点を掘り下げて文明史的考察を下すなれば、人類の科学的、物質的進歩は最近顕著なるものがあるが、 精神的進歩はこれに伴わない。されば社会的変革の如きもその速度を按じ、社会の道徳性の向上と歩調を一にするに非ざれば諸変革も成功せざるか、 または一時成功せるが如く見えても逆転することが多い。 されば時代を推進する場合も一国の興隆を計る場合にも徐々に堅実なる方法を以てするを最上の策として推薦したのである。 右意見書を起草して以来十五年を閲して一昨々年、東京裁判に際し再読したのであるが、 その後に於ける対支対英米関係は予の杞憂せる如き悪化を来し、 軍縮問題による悪影響も正に予の予見した通りとなって、 遂には騎虎の勢いを以て太平洋戦争の勃発を見るに至ったのは誠に遺憾に堪えぬ次第である。


「第一部 第一次世界大戦より第二次世界大戦まで」
「第八章 欧米局長時代」より