(東郷)…ここで一寸廻り道をして申上げる訳なんですが、五月十一日から十四日最高指導会議があつて、
そこで決議した訳ですね。其の成行きについては総理から陛下に申上げると言ふことに約束は出来て居つた。
ところが六月十五日に私は木戸君に会つて色んな話をしてゐるうちに、
その話が陛下に伝はつてゐないと言ふことが分つた。
それから鈴木さんにあの話はまだ陛下には申上げてないのではないですか、陛下は御承知ないやうに思ひますが、
と言つたら、私もついまだ申上げなかつたと言ふことを言つて居られた訳なんです。
だから、六月二十日に参内した時に、その戦争指導会議の話合の成行と、
それから広田前総理を通じてソ聯の気持を打診しつつ和平に導くと言ふ趣旨でやつて居りますと言ふことを委しく申上げたんです。
すると陛下はそれは非常に結構だ、それでその話を促進して一般の和平が早く出来ることを希望する、
との御言葉だつた。之に引続いて、陛下は前に最高戦争会議で色んな決定もあつたが、
その後参謀総長それから長谷川大将が各地を巡察して来ての報告を聞いたところが、
支那方面及び内地に於ける準備が非常に不足して居ることが分つた。
だから戦争を早く終結せしむることがどうしても必要と思ふ。
戦争終結はなかなかむづかしいこととは思ふけれども可成速に終結することに取運ぶやう希望すると言ふ、
随分委しいお気持の話があつたんです。それで私も、戦争の終結については戦局の関係が非常に大切なことになります、
今の戦局では日本の方に甚だ不利になつて居りますから、有利な条件により終結することは甚だ困難だと思ひますが、
これを早く終結することについては、粉骨砕身死を賭して御意思に副ふやうに致しますと言ふことを申上げたことがある。
その時は随分突つ込んでお話があつたので、陛下の思召は十分に分つた訳です。
それから次に六月二十二日に陛下がお召しになつた。
陛下は政府と統帥部の首脳部を一緒にお召しになつてお言葉があつたのです。
政府と統帥部は御承知の通り日本憲法の解釈上すつかり分れてしまつてゐた。
内輪の機関とし連絡会議最高戦争指導会議があるけれども、
この間の調節を何処か上の方でするのは陛下より外にない訳です。
その間の調節をしようと思へば陛下の方で両者を一堂に会しておやりになる必要があると言ふことになる訳です。
それでこの六月二十二日のお召しはその意味に於てあつたんだと言ふことに諒解をして居つた。
法理的の見解は別として、事実上の成行はさつき言つたやうな事情がある訳です。
即ち六月中旬(十五日―編者注)に木戸君に会つていろんな話をした際、私の方から最高戦争指導会議の話をして、
突然あゝ言ふ会議を開いて非常に強いことを決議しようと企て、
而も海軍の方はいつもは戦争継続不可能とはつきりしたことを言ふに拘らず、
あゝ言ふ会議の席になるとはつきりした態度をとらない、
自分としては非常に困つた許りでなく不愉快であつたと言ふ話をして、
もう少し気持を一致せしむる必要があると言ふ話をしたことがあるんです。
さうしたら木戸の方では、
戦局が斯うなつて来ると軍部から戦争の継続は不可能だと言ふことを申出て来るのが当り前だと思ふけれども、
軍の方からさう言ふことを申出すことは到底困難だと思ふ。
陛下の方では戦争の終結を急ぐ必要があると言ふお考であるから、
時期を逸しないうちに陛下のお言葉によつて大転換をすることが適当であるやうに思ふ。
即ちソ聯に対して仲介を依頼して戦争を終結することがいゝと思ふと言ふ話があつた訳です。
自分はそこでソ聯のことについては参考戦争指導会議の構成員だけで話をして和平に行く瀬踏みをしてゐるんだと言ふことを話して、
それは総理から話があつた筈だと思ふが、と言つたところが、総理からは何も話は聞いてゐない、
陛下にもそんな話は聞いて居られないと思ふと言ふことで、
始めてさつき言つた陛下も総理から上奏してないと言ふことが分つた。
とに角木戸との間には其れ以前にも早期和平の必要につき話しをしたので六月二十二日のお召しと言ふのは木戸から申上げた結果お召しになつたのかとも思ふ。
その御召しでは陛下から、内外の情勢緊迫をつげ、戦局は甚だ困難なるものがある。
今後空襲の激化等の考へ得る際に、更に一層の困難が想像せられる、
だから先日の御前会議の決定による作戦はそのまゝとするも他方なるべく速かに戦争を終結することに一同の努力を望むと言ふ趣旨のお言葉があつた訳です。
それに対して先づ総理から、聖旨を奉戴してなるべく速かに戦局の拾収に努めることに致しますと言ふことを申上げて、
それから宮中席次の関係で並んで居つたその順序でもつて一々発言した訳です。
即米内海軍大臣は、
今までもそれについては相当研究して居りますとて五月十一日から十四日の最高戦争指導会議の構成員の会合で申合せがあつたことも申上げた。
自分はそれを受けてその時の委しい事情を申上げた訳です。
陛下にはその前二十日に奏上したのだが、又重ねて申上げた。
そしてソ聯を通ずることには相当危険もあります、尚ソ聯を通ずる場合にはソ聯の利益に合致することが必要になります。
条件その他については大きな覚悟が要ります、と言ふことを申上げた。
その後で梅津参謀総長が、和平の提唱は内外に及ぼす影響が非常に大きいから、
十分に事態を見定めた上に慎重に措置する必要があると言ふことを申上げた。
すると陛下は梅津に対して、慎重に措置する必要があると言ふことであるが、
根本的に反対であると言ふ意味ではなからう、と言ふ意味のお尋ねがあつた訳です。
梅津は、さう言ふ訳ではありません。
慎重措置する必要があると言ふだけのことですと言ふことを申上げて、
陛下はそれから入御になつた訳です。
(大井)その時に陸相、それから海軍の豊田副武大将はどうでしたか。
(東郷)豊田君は何を言つたか憶えません。
それから陸相の方もよく憶えません。どうも大して意見を述べなかつたのではないかと考へられます。
(大井)それから二十二日の今の会議ですね。
これは最高戦争指導会議構成員と言ふことで幹事を混えないでお呼びになつたと言ふ事ではなかつたのですか。
(東郷)さうとも限りませぬ。最高戦争指導会議は陛下の親臨の下に開くと言ふのが建前です。
正式ならば最高戦争会議と言ふのは御前に於て構成員及び幹事が集まつて来ると言ふことになる筈なんですね。
これが六月八日の会議です。併し普通戦争指導会議と言ふと陛下のお出にならない会議、
即ち最高戦争指導会議の構成員及び幹事が集まることに使はれてゐるんですね。
それと区別するために最高戦争指導会議の構成員のみの会合と言ふ言葉を特に使ふことがある。
陛下御視察の最高戦争会議を開催する場合には総理及両総長連名で上奏することになつて居るのですが六月二十二日には上奏した訳ではありませぬし旁最高戦争指導会議を開催せらるると言う意味ではないと考へて居りました。
しかし政府及統帥部の首脳者として人選する場合には最高戦争指導会議の構成員と言ふことを根本の基準にせられて呼ばれたと言ふことになつてゐるんだと思ひます。
(大井)陛下からはお言葉の中に、ソ聯を仲介とすると言ふことは特に何もなかつたのですか。
(東郷)陛下の方からは何も言はれません。
木戸は前に言つた通りソ聯を仲介としてと言ひましたが陛下の方はソ聯を通ずると言ふお言葉はなかつたのです。
(大井)陛下から早期和平の御希望をお述べになられたことを承りましたが、
それと同時に何か和平条件に関して陛下から御発言がありましたか。
(東郷)その時はありません。
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