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このあとの終戦に至る細かい経緯は、枝葉末節であろう。
鈴木も東郷も、戦争終結の機会を心中ひそかに求めていたが、ドイツの敗戦のときでも、
ポツダム宣言のときもまだ日本国内では機が熟していなかった。
八月六日、原子爆弾が広島に落とされた。それが老若男女の非戦闘員に及ぼした惨苦は言語に絶した。
実地調査をしてみると、紛うかたなき原爆とわかった。その報告は八日にもたらされ、同日ソ連が対日宣戦をした。
九日の晩、最高戦争指導会議が開かれた。
出席者は、鈴木首相、東郷外相、阿南惟幾陸相、米内海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長であったが、
ポツダム宣言受諾にどういう条件を付けるかで意見が対立した。条件といっても、陸軍がいうのは、
米軍の本土上陸は許さない、在外の日本軍は降伏ではなく自発的撤兵とするなど、
面子にこだわる条件でとうていアメリカが受け入れるはずのないものであり、事実上の継戦論であった。
鈴木は、ここで、寸刻を争う情勢のもので、こうして時を過すべきではないと考え、天皇の前で再度会議を開くことを決め、
その日の夜中十一時五十分から御前会議を開いた。
ここから先は、議長であった鈴木の回想の表現を借りて記述するのがいちばんよいと思う。
カギカッコ内は引用である。
従来の経緯を説明し、ポツダム宣言の無条件受諾が最善であることを「論理正しくはっきりとした口調で述べた」東郷が、
「つねに冷静に、反対の立場の人々に対しては毅然として、ポツダム宣言の意義を説明され、
信念をもって終始された」ことに鈴木は深い敬意を表している。
陸奥宗光、小村寿太郎、幣原喜重郎が築いてきた大日本帝国の外交の灯が消える直前の瞬間に東郷がみせた日本外交の最後の輝きである。
これに対して阿南陸相は「私は外務大臣の意見に反対である」と前提して、
「敵の本土来襲を待って徹底的打撃を与えれば、そのときこそ自ずから平和への道も有利に開ける」と抗戦を主張した。
「その緊張した空気は誠に真剣そのもので真に御前会議らしい」雰囲気だった。そこで鈴木は「この重大な事柄を決するに、
じつに陛下ご自身にお願い申し上げ、国の元首のお立場から御聖断を仰ぐべきだと心中強く決するに至った」のである。
そして玉座近くに進み出でて、「かくなるうえは誠にもって畏れ多い極みではありますが、これより私が御前に出て、
思し召しをお伺いし、聖慮をもって、本会議の決定と致したいと存じます。」と述べた。
これこそ日本の近代史で誰もあえてしなかったことである。
もし戦争に至る大きな節目のときに時の総理が昭和天皇の御判断を仰いでいたならばどうだったろう、との感慨は避けがたい。
鈴木の回想からの引用を続ける。
そこで天皇は、「自分は外務大臣の意見に賛成する」と仰せられ、その御説明においては、
「誠に理を究め、曲を正す、正鵠な御認識によるお諭しの御言葉であり、
いかに陛下が平素から正しく戦局を御認識あられたかが拝察できる御論旨であった。一同ただ声なく粛然と襟を正したのである。
会議は十日の午前二時まで続き、翌朝七時には、鈴木は連合国に対してポツダム宣言受諾の用意ある旨電報させた。
十三日に、連合国側の正式回答があり、その内容が国体の護持について不明瞭であるとして、
ふたたび主戦論が強くなり十四日ふたたび御前会議が開かれた。しかし昭和天皇の御決意は変わらなかった。
(…)
「第十六章 もう、やめねばならない」より
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