(大井)鈴木総理の話ですが、木戸日記を見ますと七月七日に総理が参内した時に、
陛下はソ聯との交渉は肚を探ると言つてゐたがあれはどうなつてゐるかと言ふ御下問があつたと言ふことが書いてあります。
(東郷)それは次の時にお話しようと思つてゐたが、今お話しませう。
さう言ふことでもつてソ聯の方からの話は一向進まない、
その上に広田マリク会談の報告マリクの方からは電報でなくクリエルで送つたと言ふことを私は聞いたことがある。
それで自分はこれはとても駄目だと思つて、その方には殆ど見切りをつけた。
それでロシアに対する関係は総て別に進める必要があると言ふのでそれには誰かモスクワに人をやるより外方法はないと言ふことでもつて、
総理其の他最高戦争指導会議構成員に話をして其同志を得た訳です。
それで七月二日頃高松宮に呼ばれた時に高松宮から色んなお話があつたから、戦局がこゝまで来た以上、
速かに和平に乗り出す必要があります、それについては陸軍、海軍の方もその希望は非常に強いから、
ソ聯を通じてやるよりないと思ふ、又それについてはモスクワに人を出すことが最も良いと思ふ、と申上げたら、
実はその話は米内から聞いた。誰をモスクワにやるつもりか、と言つてお聞きになる。
それで近衛をやつた方が最も良ろしいと思ひますと言つたことがある。
それは七月二日だつた。それで近衛公の話は総理にも話して置いたが、
私は近衛公に会つて内談して置く必要があるので七月七日、恰度七夕の日だつたからよく憶えてゐるが、
軽井沢に行つてその翌日の八日に近衛に会つた。
是非モスクワに行つて欲しいのだ、陛下には申上げてないけれども総理には話してある、
それで甚だ御苦労だけれどもさう願へないだらうかと言つて話した。
近衛公は陛下からさう言ふ御命令があれば行つてもいゝと言ふことだつた。
日支事変から日米交渉を経て斯う言ふことになつて自分も十分責任を感ずるからと言ふやうなことも言つて居つた。
条件はどうするかと言ふ話が向ふから出た。
条件については今迄も戦争指導会議構成員丈けではちよいちよい話をしてゐるんだが、
表向きの話になると、軍の方では、戦争に負けてゐないと言ふことを云ひ出すので困つてゐるんだ、
併し斯う言ふ状況になつた以上は、無条件では困るけれども、
それに近いやうなもので纏めるより外はないと思ふと話した。
すると自分もさう言ふ考だ、と近衛公は言つて居つた。
それについて自分が向ふに行くやうになれば斯う言ふ条件の下に和議を纏めると言ふことではなく、
白紙で行くことにして貰ひたいと言ふ注文があつた。
条件を決めて行くと言ふことになればなかなかむづかしいと思ふから、
結局その方が最もいゝかとも思ふと言ふ話をしたこともあるんです。
それで内輪の話はずつと進んだ訳です。
ところが七月八日に軽井沢から東京に帰つて総理に会つたところが、陛下からお召しがあつて、
和平の話を進めた方が良いぢやないかと言ふお言葉があつたから、
外務大臣が今朝軽井沢に行つて近衛公に会つてそんな話をしてゐる訳ですが、
帰つたら早速話しを進めることにしますからと申上げて置いたと言ふことだつたから、
近衛公の意見、希望も伝へ最高戦争指導会議構成員の集まりを直ぐ開くことに打合せた訳でした。
(大井)アメリカ側の書いたもので七月十二日に天皇は近衛をお呼びになつて、
さうして自分の取上げ得る条件は何でも受け入れるやうに近衛に秘かに訓令されたと言ふのです。
さうしてそれを天皇に直接電話するやうにと言ふことを近衛に仰せになつたと言ふことを書いてあるんです。
又近衛の手記にも同じことが書いてあるやうです。
(東郷)それは近衛の手記の方から出たのかも知れないけれども、
秘かにと言ふ訳でもないのです。
私が軽井沢に行く前に、鈴木総理に対し、自分はこれは近衛公の内諾を得て来ますが、
陛下にはあなたから近衛に御命令になつた方がよろしいでせうと言ふことを内奏して置かれた方がいゝ、
と言つたところがそれは結構だと総理も言はれた。
従て総理からは其趣旨で前以て陛下に申上げたことと思ふ。
そして七月十二日近衛公は日華協会の開会式があるので東京に来た訳です。
それでその機会に陛下から近衛にお話になると言ふことは打合せ済みなんです。
日華協会の席上で近衛公から謁見の次第に付て通報があつたが、
更に詳細の打合をしたいとのことであつたから総理官邸に赴き総理と三人で話した訳です。
近衛公の曰く、陛下からのお召しを受けて行つたところが、
モスクワに行つて和平の話を進めると言ふことについてどう思ふかと言ふ話だから結構ですと言ふことを申上げたところが、
それでは是非行つてくれと言ふお話があつた、さう言ふことならば参りませうと言ふことを言つて置いた。
何れ正式の命令は後から出るでせうけれども、
その際の条件についてはあまりぎこちないことであつては向ふに行つてから仕事が出来兼ねることになると言つたから自分も其の通りと思ふといふことを言つておきました。
何でもいゝから自分のところにぢかに持つて来いと言ふお言葉があつたと言ふことはその時は話は聞かないけれども、
手記にさう書いてあることは聞きました。
(大井)近衛さんが自殺される時に書いて置いたものを今日持つて来ませんでしたが、
それにははつきりさう書いてあります。
(東郷)近衛公が書いてゐるのはさうでせう。
僕と軽井沢に於ける打合せの際にも白紙でもつてこちらを発つて行きたいと言ふ意味のことを言つて居り、
其後又陛下の方も大体に於て御異存がないやうだつたと語つたことは記憶します。
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