2015年7月11日土曜日

書庫(46):阿部牧郎「危機の外相 東郷茂徳」(平成五年)より

(…)
 先進諸国と夜郎自大の日本人のあいだに立って調整に苦労したのが、西欧文明を深く呼吸し、 西欧の事情に明るい外交官たちだった。幣原喜重郎、重光葵、広田弘毅、佐藤尚武、吉田茂、有田八郎、 東郷茂徳などという人々がそれだった。彼らは年々鼻息の荒くなる軍部に尻を叩かれ、 他方では先進諸国の仏頂面に向かいあって両者の橋わたしに精魂をかたむけた。 国際情勢と日本人の一人よがりの大国幻想のギャップを埋めるのに血のにじむ努力をかさねた。 だが、大部分の者は結局軍部に妥協したり、活動の場を追われて沈黙せざるを得なくなった。
 東郷茂徳はなかでもっとも頑強に軍部に抵抗した人物だった。なんとしても戦争を回避したい一念から、 彼はあえて火中の栗をひろい、東条内閣の外相となった。力およばず開戦にいたると、 終戦のための努力をはじめた。やがて東条と対立して辞任、敗戦が濃厚になると、 終戦の実現のため外相に返り咲いた。本土決戦を呼号する軍部の説得に獅子奮迅の働きをした。 当時の鈴木貫太郎内閣のなかで、彼はもっとも強硬な和平派だった。 彼がいなければ、わが国は徹底的に破壊され、すみずみまで荒廃して、 私たちの経験したようなすみやかな復興は望めなかっただろうと思う。 その業績にもかかわらず、東郷は昭和二十五年に獄中で死んだ。 戦後脚光をあびた吉田らとは対照的な不遇の生涯だった。
 東郷は日本の著名な外交官のなかでも屈指の交渉能力の持主だったといわれる。 理路整然と正攻法で押しまくる交渉をやった。 自説をゆずらず、決裂ぎりぎりまで国益を押し出す豪胆さは、ソ連のモロトフ外相を感嘆させるほどのものだった。 国内に向けては、日本的心情には動かされぬ徹底した合理主義者であった。 ドイツ女性と結婚するなど、明治生れの日本人にはめずらしい国際人だった。
 東郷は鹿児島の出身である。 伝統的に尚武の気風が強く、士族が偏重され、有能な軍人を輩出した同地で、 寡黙な秀才だった東郷はかならずしも幸福な青年時代を送らなかったようだ。 先祖が韓国から渡来した陶工だったという事情もある。 なにかといえば軍刀の威力にものをいわせたがる軍人に彼は憎悪の念を抱き、文官として大成する道をえらんだ。 軍人は国を事実、破綻させ、東郷は彼らの暴挙から国をまもるために精魂をすりへらした。 この頑強な平和主義者が軍国主義のふるさとだった鹿児島で育ったことに、 物書きとしての私は興味をそそられた。 欧米諸国とわが国の文化のギャップが、欧米をよく知らない私たちの目にも明らかになってきた現在、 東郷の生涯をたどることにはそれなりの意味があろうと思う。
 東郷茂徳の少年時代についての知識を得ようとして、昨年、私は鹿児島をたずねた。 記念館の一つもあるかと期待したのに、そんなものはなかった。 図書館にも、通りいっぺんの資料しかなかった。 東市来町美山に残っている生家のそばに「東郷先輩につづけ、美山の子」と書かれた杭の立っているのが、 わずかに彼の偉業の痕跡であった。
 「ほう、そんな偉い人がおったとですか。鹿児島ではなんというても西郷さんですから。 大久保さんも偉い人じゃが、わしらはやはり西郷さんです。東郷茂徳という人は知りもさんかった」
 美山往復のため乗ったタクシーの運転手がそう話していた。
 夜の天文館通りの飲み屋でも、東郷茂徳はほとんど知られていなかった。この日本外交史上の巨人は、 たんにA級戦犯の一員として人々の共同墓地に眠っていた。起きてもらおう、と私は思った

「序章 共同墓地の巨人」より
 

0 件のコメント:

コメントを投稿