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さて、後藤新平の招聘によって、ヨッフェが来日したときからかぞえても約二年、
東郷はその間の日ソ交渉すべての過程に深く関与することによって、外務省を代表するソ連通としての基礎をいっそうかためたものと思われるが、
東郷が学んだ教訓の中には、ソヴィエト代表の執拗且つ粘りづよい交渉態度もまじっていたにちがいない。
しかも、東郷にはこの教訓を生かしきる素質と頭脳があった。
後年、東郷は、駐ソ大使の時代に、当時の外相モロトフをして、これほど「自国の利益を頑強に主張する人物」はないと、
感嘆のことばをはかせることになるのである。
くりかえしになるが、ここでもう一度「欧米局第一課」の大正十二年(一九二三)十一月初旬の起案と、
十二月十四日の起案(ただし、結語の部分をのぞく)とをふりかえると、この双方に流れている東郷のソ連観は、
イデオロギー的な偏見から解放されたリアリズムの色調をつよく帯びていた。これが共産主義にたいする無知にもとづくものでなく、
むしろ既知であるが故の「自信」にもとづくものであることは、ここでふたたび指摘しておかなければならない。
ボルシェヴィキ政権という「異質の他者」の出現は、日本の支配層を震撼させ、政府および外務省首脳を恐怖と嫌悪に駆りたてたが、
東郷は「異質の他者」とも共存してゆくことが、国際社会における「自明の理」であると信じているかの如くであった。
いや、国際社会にかぎらず、そもそも苗代川という、戦前の日本社会の辺境の地から身をおこした東郷にとって、
「異質の他者」との遭遇は、人生の日常茶飯事であったのかもしれない。
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「伝記 東郷茂徳」
「第三章 最初の本省勤務」より
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