(…)
○裁判長 ブレークニー少佐
○ブレークニー弁護人 東郷茂徳の弁護を始めます。
法廷の便宜の為我々は出来得る限り証拠を小数の項目に分けて提出します。
即ち、独逸関係、露西亜関係、英米関係及太平洋戦争、戦時外交、及終戦であります。
但し証人は往々各般の事項に亙つて証言するので右の分類は不完全であります。
右各項に就て証拠は主として次の諸事実を明らかにしやうとするものであります。
日独関係に就ては東郷氏の態度は常に日独関係が日本と他の諸国特に米、英、
露の諸国との関係を悪化せしむる如きものであつてはならぬと言ふことでありました。
防共協定に就ては当初より之に同情を有せず之を弱化することに努力しました。
三国同盟には強く反対を続け、其結果終に駐独大使の地位を追はれたのであります。
東郷氏はナチス時代のカサンドラであつたのであります。
蘇連邦に就ては東郷氏は終始友好関係維持を以て最も重要なりと為しました。
東郷氏は其の経歴を通じ其の夙に立案し其実現に努力した政策を殆ど完全に実現することが出来ました。
東郷氏は東支鉄道を蘇連邦に売渡す交渉に成功し、国境画定問題に就て初めて成功を収め、
又駐蘇大使としては不可侵条約の締結に殆ど成功した時帰朝を命ぜられたのであります。
太平洋戦争を通じ東郷氏は現職に在る時は常に日蘇間の平和と友好関係の重要性を強調しました。
英米両国との関係に就ては東郷氏は一九四一年十月外務大臣に就任する迄殆んど直接の関係を持ちませんでした。
但し機会ある毎に日本と英米との関係の改善に努力しました。
東郷氏は防共協定と共に英国との協定に就て関係当局を説得し、
海軍軍縮問題に就ては米英両国との関係を阻害することなからしむる為海軍側の主張に反対し、
又外務大臣に就任しては破綻に瀕した国交の調整に努めたのであります。
東郷氏が東条内閣の外相として太平洋戦争に関係した点は疑ひもなく検察側の主たる訴追であるが、
東郷氏は当時官職から退いていた処殆ど同氏を知らない新首相から入閣を求められたのである。
此の入閣は新内閣は日米交渉の成功の為に真剣に努力すべく陸軍も之に反対せずとの明確な保障を取付けた後
初めて東郷氏は受諾したのである。
爾後同氏は甚だ困難な事情の下に二つの事を為したのである。
即ち一は久しく悪化して破綻に瀕して居た日米交渉及日米関係を解決せんと努力したこと、
他の一は此の問題を扱つた連絡会議に於て統帥部の勢力が甚だ強かつてのであるが
日米交渉及日米関係の為の努力を為し得る様統帥部を説得したこと之である。
然し乍ら東郷氏の使命は不可能なものであつた。
米国は為し得べかりし譲歩を為すを欲せず、日本側の総ての関係者が最終通牒と認めた十一月二十六日の覚書を手交した。
日本としては其の大国としての地位を放棄し其の存在すら危殆に瀕するに甘んずるか
或は自衛の戦争に訴へるかの一を選ばざるを得ざる立場に追込まれたのであるが、
実際其の間選択の余地はなかつたのである。斯して戦争は決定された。
東郷氏は最後迄戦争に反対したが終に自衛の為武器を執ることに賛成せざるを得なかつたのである。
戦争開始の手続の問題の起つた時、東郷氏は通常の通告の手続を執ることを主張し、
此の都合にも統帥部の反対と戦はなければならなつた。
東郷氏は連絡会議に於て米国政府に対し交渉打切りの通告を為すことを認められた。
通告は手交の時間は統帥部に依り定められたが
統帥部は東郷氏に対し其の時間は攻撃開始の時間との間に十分の余裕あることを保障した。
斯くして十二月七日午後一時に手交のことに打合せられ、其旨命令されたのである。
但し実際に手交されたのは華盛頓に於ける事務の手違いに依り一時間以上も遅れ、
米英両国の領土に攻撃が加へられてから後になつたのであつた。
戦争開始後は外交の余地は減少したが其の上大東亜省の設置に依り其範囲は一層縮小した。
此の問題並に他の根本政策の問題に就ての意見の不一致から東郷氏は一九四二年九月一日外務大臣の職を辞したが、
既に其辞職の前から東郷氏は戦争終結の方策を進めて居た。
一九四五年四月東郷氏は大命を拝した鈴木大将から再び外務大臣として入閣を求められた
此の場合にも東郷氏は入閣の条件を付したが、其の条件は鈴木内閣が戦争を終結せしめると云うことであつた。
鈴木内閣の短い期間東郷氏は此の目的の為に全力を尽し終に主として其の努力に依り一九四五年八月十五日
此の目的は達成されたのである
証拠は東郷茂徳氏の役割は侵略の為の共同謀議者のそれではなく、
終生軍国主義を其の予見得べき結果に反対したことであつたと云ふことを示すであらうことを茲に述べる次第である。
0 件のコメント:
コメントを投稿