2015年7月27日月曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(3)

…鈴木内閣が出来た時には私は軽井沢に居つた。ところが鈴木さんが東京に来て呉れと言ふので、出て来て会つたところが、 自分に外務大臣になつて欲しいと言ふことであつた。それで鈴木さんに、非常に戦局の悪化したので戦争を早く終結する事が必要だと思ふが、 戦争の見透しについてどう思つて居られるか、その見通しを聞かなければ私は外務大臣になるかどうか御返事出来兼ねると言つた。
ところが鈴木さんは、戦局は悪いが、二三年は大丈夫だと思ふと言ふ。 私はもう今のこの状況からして二三年保つと言ふことは不可能である。 速かに局面の収拾をやるのでなければいけないと考へる。 あなたがまだ二三年は戦争がやれると言ふのは私の考と非常な差がある。 私が入閣しても、此見透しに付いて意見が一致しなければ私の気持とあなたの気持との間にしつくりしないとことが出来るので 一緒に仕事をやるのも不可能ぢやないかと言ふことを主にして随分長く話した訳です。 その点にあまりこだわらないではいつて欲しいと言ふ色んな話があつたが、これが根本問題だからもう少しあなたも考へて貰ひたいと言つた。 私の方にも考へてくれと言ふことで、お互に考へようと言ふことでその晩遅く別れた。 さうして翌日岡田元総理、それから外務省の私の先輩として松平宮内大臣、 広田元総理に鈴木総理との会談について評価を語つたが何れも此際他に適任者が見当たらないから是非やつてくれと言ふ。 しかし自分としては総理の方の気持が決まらなければはいつても仕方ないと言つて置いた ところが、そのうちに迫水君が来た。是非はいつてくれと言ふ、あなたがはいつてくれなければ鈴木内閣は非常に困るんだと言ふ。 それで私は斯う斯う言ふ訳でその点について総理の気持がはつきりしなければ仕方がないと言つて帰したことがある。 その頃松平君が来て是非入閣して欲しいと言ふ。それで今言つたやうな話をしたところが松平君が言ふのには、 自分の推測では、総理の気持もさうはつきり決つてゐるとは思はん、 それでその点についてはあなたが入閣してから啓発して貰ふことが適当だ、 殊に終戦の問題について陛下も非常に考慮して居らるる模様である。 だからその点についてはあなたの心配は要らんと思ふ。 この局面を背負つて立つのはあなたより外ないからと言ふので是非入閣してくれと言ふ話があつた。 それが和平に関する陛下の御思召しを知つた第一です。 昨日の話のうちに東京裁判の話が出たから、昨夕一寸私のところに私の関係する裁判の書類があつたので見たところが、 その点は松平康昌君が私に対する口供書の中に相当委しく出てゐるんです。 あなたも見られたと思ひますが、それから迫水君の方の分も鈴木内閣の入閣の事情、 それからはいつてからのことも迫水君の方の口供書に出てゐるやうですね。
そんなものを一つ参考にして貰つたら私の方で委しくお話する必要もないと思ひます。 それから迫水君がもう一度鈴木総理にあつてくれと言ふので会った。 その時に、鈴木さんはあなたの言つた考えでやつて貰へばいゝ、と言つて僕の話をすつかり受入れたので、 僕は入閣した訳です。その後四月の末にドイツが潰れた。
その直後に陛下にお目にかゝつて、ドイツがどうして崩壊したかと言ふ事情について委しく申上げたことがある。 それに引続いて陛下から色んなお尋ねがあつた。 それに関聯してドイツの崩壊したのも空襲が主なる原因になつてゐますが日本に於ても空襲がだんだん劇しくなつて来てゐる、 生産が非常に減退して来た、この事態からしますと戦争の継続は殆んど不可能と思ひます。 従つて日本の今後の方策は此点に重きを置いて考へる必要があると思ひますと申し上げた訳です。 陛下は、戦争は早く済むといゝねと言ふお言葉があつた。 その時はたゞそのはづみで今のやうな話になつた訳で、私も閣内で相談した上で申上げると言ふところまで行つてゐないし、 陛下も単に御気持をお洩らしになつたと言ふ位のところになる訳ですが、 とに角さう言ふことがあつて、陛下の方は早期和平と言ふことを希望して居られると言ふことはそれで察しられた。

0 件のコメント:

コメントを投稿