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2015年2月1日日曜日

書庫(9):吉田茂「思出す侭」より

この最後の一文は第六回分(186ページ)と重複する部分もあるが、前回の補完拾遺の意味で 最後に掲げる
ハル・ノートと米英大使
(…)かくて十一月二十三日と思うが、チャーチル首相が議会において、日本政府の態度に 対して強い不満を表示して米国政府の参戦を求めるに至った。そのためクレーギー大使も 戦争必至と考え、日英間の斡旋から手を引き、その後はグルー大使のみが、日米関係について 独り斡旋奔走を続けていた。ところが十一月二十六日付のハル国務長官の覚書が到着するに 至り、グルー大使の奔走は一層目覚しく、平生最も懇意な日本の友人を通し東郷外相に対し、 日本政府の誤解を生ぜざるようにとて、注意を促し、ハル・ノートは決して最後通牒ではなく、 日米両国政府の協議の基礎として認められたることを特に指示し、場合によっては東郷大臣より 会見を求めらるるにおいては、直接その主旨を説明すべしとまで申入れられたのである。
東郷外相への牧野伯の伝言
当時わが政府は日米関係の救うべからざるを観念してか、ハル・ノートを接受したのを機会に、 その訳文に多少手を加え、国民の感情を刺激するようなニュアンスをもったものにして、枢密院に 回付したようである。ノートの原文は日米両政府の主張を対照列配し、さらに特に冒頭に、 これは最後通牒にあらず、両国政府交渉の基礎たらしめんとする試案であるとの意味を 附け加えてあった。勿論これは開戦の場合公表されても差支えないように意を用いて書かれた ものだから、米国政府の主張を明記し、米国側に有利に書き上げた嫌いはあるが、わが政府が 直ちに開戦を決意せず、交渉に応ずる考えがあれば、無論その余地はあったのである。
当時牧野伸顕伯は東郷外相に対して「明治維新の大業は西郷、大久保など薩摩の先輩が 非常な苦心を以て明治大帝を補佐し成就したものである。今日、日米開戦するに至り、 一朝にして明治維新の大業を荒廃せしむるが如きことあらば、その後進たる外相の責任、 先輩に対しても軽からず、これは郷党としてであるが、更に閣僚の一員として和戦の決は 最も慎重なる考慮を要す。この重大なる時に当り外相として出所進退を誤まらざるよう希望してやまず」 という主旨を伝言せしめられた。

後にして思えば、十二月一日の閣議において政府の態度は既に開戦と決定し、それぞれの処置を 了せるため、牧野伯の伝言が十二月一日以前に外相の耳に入りたりとしても時機既に 遅かりしことと思われる。また外相に会いたいとするグルー米国大使の申入れも、仮りに直接面会が 得られたとしても、その時機は既におそかったものの如く、外相は遂に米大使と会談するに至らなかった。 しかしこれを今日より見れば、たとえ政府の態度が決定しおりたりとするも、開戦のその日まで 外国使臣との会談折衝は外相としては避くべきにあらずと思う。第一次世界大戦において、 英国外相グレー氏は独仏両大使との交渉会談や開戦の間際まで続けたという事実がある。 斯かる事実は外務当局者の常に念頭におくべきことであると思う。

牧野伯の意見には、東郷外相も当時強く印象づけられたものと思わるるが、後に終戦内閣の外相として 同じ東郷氏が鈴木首相を助け、事態を収拾して終戦に導き、そのため非常な努力を払われたそうである。 これは東郷外相が開戦に対する責任観念より終戦の外相として時局収拾に死力を尽されたのであると信ずる。
終戦決断へ多大の功績
ポツダム宣言を受諾すべきや否やについては、鈴木首相のほか米内海相、東郷外相は受諾を 主張し、陸相その他は本土決戦をも敢て辞せずとして受諾拒否を主張し、閣議は容易に一致を見る 能わざりしため、最後の閣議は御前において開かれ、鈴木首相は閣議一致せざる故を以て遂に 聖断を仰ぎ、聖断一下、ここに終戦をみるに至ったのである。

東郷氏は寡黙、無表情、無愛想な人である。最終閣議にのぞんだ時の外相の風貌今にして 思いやらるるものがある。終戦促進によって戦禍の拡大を防ぎ得たるは今日においては明かであるが、 終戦にまでこぎつけるためには、鈴木総理の決断が土台になったことは勿論で、その上東郷外相及び 米内海相が総理を補佐してここに至らしめた功績は決して没すべきでない。(…)

(「32 開戦と終戦の頃―東郷外相の苦心を憶う」)

書庫(8):吉田茂「思出す侭」より

東郷外相を訪ねて戦争回避への努力を希望したその足で、私は秩父宮、高松宮両殿下を お訪ねして、ハル・ノートを中心にグルー大使の心情とこれに対する私見をも申し上げ、できるだけ 戦争回避にご努力願いたい旨を懇請した。秩父宮は「それは陛下に直接上奏した方が よくないか」と申されたので私は「許されるならば殿下から申し上げて頂きたい」とお願いしたが、 何ともいわれなかった。高松宮は「君、もう遅いよ」と申されていた。これも無理はなかったわけで、 後から知ったことだが、軍部はすでに行動を開始していた。

連合艦隊は十一月二十二日千島列島沖で待機しており、二十九日の重臣会議を経て 十二月一日の御前会議で正式に一切の手続きがすんでおったのだという。私はこれらの 事態を迂闊にも知らなかったわけである。二日には米国大使館にグルー大使を訪ね、 「東郷外相は貴下との会見を承諾しない」と伝えた。大使はまことに沈痛な面持ちであったが、 「吉田さん、あなたの努力に感謝に堪えない」といった。終戦後発行になったグルー氏の著書に 「当時シゲル・ヨシダは我々のインフォーマントだった」という表現を使っている。内報者というか、 情報提供者というか。とにかくこれでは憲兵隊に狙われたはずである。ともあれ大使は十二月八日 開戦とともに米大使館に軟禁されるまでこの努力を続けていた。東郷外相もさることながら問題は 当時の重臣といわれる人達にもあったと思う。内心は戦争反対の者が多かったにかかわらず、 十一月二十九日の重臣会議で陛下の御下問に率直な意見をいう者が一人としていなかったようである。

無論軍部の強圧に押されたのであろうが、また或いは勝てるかも知れないという淡い希望などが 交錯していたのでもあろうか。それにしても最後の土壇場まで外国使臣と会談すべき立場にある 外務大臣が、開戦までなお日を残していたにかかわらず、グルー大使との会見を拒否したことは、 外務大臣たるもののとるべき態度にあらず、まことに痛恨事であったといわねばならぬ。二十六日の ハル・ノートに対する回答は十二月八日早朝東郷外相からグルー大使に伝えられると同時に 枢密院本会議で対米、英、蘭三国に宣戦布告を決定した。この頃はすでに真珠湾攻撃が 敢行せられているにかかわらず、グルー大使は東郷外相より手交された日米交渉打切りの通告を 二十六日の回答として受け取り、開戦の事実を知らなかったということである。(…)

(「7 真珠湾は奇襲だったか―先方は事前に知っていた!?」)

書庫(7):吉田茂「思出す侭」より

(…)確か十一月二十七日であったと思うが、東郷外相の代理として 現参議院議員の佐藤尚武氏が平河町の私の家を訪ねて来た。 佐藤氏は当時外務省顧問という役目だったと記憶する。 佐藤氏は一通の英文の文書を示し、これはアメリカから来たものだが、 重大なものだと思われるので、お前から牧野に見せてくれという意味の 外相の口上を伝えた。それがいわゆる「ハル・ノート」であった。 内容は日本の主張言分と、それに対するアメリカの主張言分とを詳しく書き (このアメリカ側の主張だけが当時公表された)特に左の上の方に テンタティヴ(試案)と明記し、また「ベイシス・オブ・ネゴシエーション(交渉の基礎) であり、ディフィニティヴ(決定的)なものでない」と記されていた。実際の腹の中は ともかく外交文書の上では決して最後通牒ではなかったはずである。

それだけではなく、グルー米国大使が私のところへ使いを寄越して至急会いたいと いうので、十二月一日虎ノ門の東京クラブで大使に会った。大使は私の顔を見るなり 別室に案内し「ハル・ノートを読んだか」と聞く。私は浪人でもあったし読んだことは読んだが、 当事者ではなかったから「承知している」と答えた。大使は椅子から身体を乗出すようにして 「あのノートを君は何と心得るか」というので、私は「あれはテンタティヴであると聞き及んでいる」 と返答したら、大使は卓を叩いて語調も荒く「まさにその通りだ。日本政府はあれを最後通牒 なりと解釈し、日米間外交の決裂の如く吹聴しているが、大きな間違いである。日本側の言分も あるだろうが、ハル長官は日米交渉の基礎をなす一試案であることを強調しているのだ。 この意味を充分理解して欲しい。ついては東郷外相に会いたい。吉田君から斡旋してもらえないか」という。 せっぱつまった大使の気持ちを察して私はその日、電話で外相に連絡するとともに外務省に 出向いて大使の言葉を伝えた。外相は言葉を濁して会う気配はなかった。会ったらどうなっていたか。 今から思えば結果は同じだっただろう。当時既に奇襲開戦の方針が決定していて艦隊は 早くも行動を起こしていたらしい。外相としては会うのが辛かったのであろうが、外交官としては 最後まで交渉をするのが定跡だと信ずる私としては誠に痛恨に堪えなかった。

東郷外相の依頼を受けて私は通牒の写しを当時渋谷に住んでいた牧野に見せた。 手にとって読んでゆく牧野の顔は次第に険しく「随分ひどいことが書いてあるな」と いいながら黙っている。そこで私は「外務大臣があなたに見せる以上は何か意見を聴きたいという 意味でしょう」というと、暫く考えて「明治維新の大業は鹿児島の先輩西郷や大久保の苦心によって 成就した。この際先輩たちの偉業を想起し慎重に考慮すべきであると伝えよ」という。 戦争すべきではない。先輩の大きな夢を崩すことになるという意味である。私はこの牧野の言葉を そのまま佐藤氏に伝えたところ、氏は眼に涙して「必ず外相に伝達します。私は戦争になれば いまの地位(外務省顧問)をやめるつもりです」といっていた。私はこの写しを当時やはり浪人していた 幣原喜重郎氏にも見せた。私はさらに東郷外相を訪ね執拗にノートの趣旨を説明し注意を喚起した。 東郷は「お説の通り、なお米国側と折衝するつもりでいる」ということであったので、私は少々乱暴だと 思ったが「君はこのことが聞き入れられなかったら外務大臣を辞めろ。君が辞めれば閣議が停頓するばかりか 軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか」とまでいったものである。

(「6 ハル・ノートの秘密―果たして「最後通牒」だったか」)