ハル・ノートと米英大使
(…)かくて十一月二十三日と思うが、チャーチル首相が議会において、日本政府の態度に 対して強い不満を表示して米国政府の参戦を求めるに至った。そのためクレーギー大使も 戦争必至と考え、日英間の斡旋から手を引き、その後はグルー大使のみが、日米関係について 独り斡旋奔走を続けていた。ところが十一月二十六日付のハル国務長官の覚書が到着するに 至り、グルー大使の奔走は一層目覚しく、平生最も懇意な日本の友人を通し東郷外相に対し、 日本政府の誤解を生ぜざるようにとて、注意を促し、ハル・ノートは決して最後通牒ではなく、 日米両国政府の協議の基礎として認められたることを特に指示し、場合によっては東郷大臣より 会見を求めらるるにおいては、直接その主旨を説明すべしとまで申入れられたのである。東郷外相への牧野伯の伝言
当時わが政府は日米関係の救うべからざるを観念してか、ハル・ノートを接受したのを機会に、 その訳文に多少手を加え、国民の感情を刺激するようなニュアンスをもったものにして、枢密院に 回付したようである。ノートの原文は日米両政府の主張を対照列配し、さらに特に冒頭に、 これは最後通牒にあらず、両国政府交渉の基礎たらしめんとする試案であるとの意味を 附け加えてあった。勿論これは開戦の場合公表されても差支えないように意を用いて書かれた ものだから、米国政府の主張を明記し、米国側に有利に書き上げた嫌いはあるが、わが政府が 直ちに開戦を決意せず、交渉に応ずる考えがあれば、無論その余地はあったのである。当時牧野伸顕伯は東郷外相に対して「明治維新の大業は西郷、大久保など薩摩の先輩が 非常な苦心を以て明治大帝を補佐し成就したものである。今日、日米開戦するに至り、 一朝にして明治維新の大業を荒廃せしむるが如きことあらば、その後進たる外相の責任、 先輩に対しても軽からず、これは郷党としてであるが、更に閣僚の一員として和戦の決は 最も慎重なる考慮を要す。この重大なる時に当り外相として出所進退を誤まらざるよう希望してやまず」 という主旨を伝言せしめられた。
後にして思えば、十二月一日の閣議において政府の態度は既に開戦と決定し、それぞれの処置を 了せるため、牧野伯の伝言が十二月一日以前に外相の耳に入りたりとしても時機既に 遅かりしことと思われる。また外相に会いたいとするグルー米国大使の申入れも、仮りに直接面会が 得られたとしても、その時機は既におそかったものの如く、外相は遂に米大使と会談するに至らなかった。 しかしこれを今日より見れば、たとえ政府の態度が決定しおりたりとするも、開戦のその日まで 外国使臣との会談折衝は外相としては避くべきにあらずと思う。第一次世界大戦において、 英国外相グレー氏は独仏両大使との交渉会談や開戦の間際まで続けたという事実がある。 斯かる事実は外務当局者の常に念頭におくべきことであると思う。
牧野伯の意見には、東郷外相も当時強く印象づけられたものと思わるるが、後に終戦内閣の外相として 同じ東郷氏が鈴木首相を助け、事態を収拾して終戦に導き、そのため非常な努力を払われたそうである。 これは東郷外相が開戦に対する責任観念より終戦の外相として時局収拾に死力を尽されたのであると信ずる。
終戦決断へ多大の功績
ポツダム宣言を受諾すべきや否やについては、鈴木首相のほか米内海相、東郷外相は受諾を 主張し、陸相その他は本土決戦をも敢て辞せずとして受諾拒否を主張し、閣議は容易に一致を見る 能わざりしため、最後の閣議は御前において開かれ、鈴木首相は閣議一致せざる故を以て遂に 聖断を仰ぎ、聖断一下、ここに終戦をみるに至ったのである。東郷氏は寡黙、無表情、無愛想な人である。最終閣議にのぞんだ時の外相の風貌今にして 思いやらるるものがある。終戦促進によって戦禍の拡大を防ぎ得たるは今日においては明かであるが、 終戦にまでこぎつけるためには、鈴木総理の決断が土台になったことは勿論で、その上東郷外相及び 米内海相が総理を補佐してここに至らしめた功績は決して没すべきでない。(…)
(「32 開戦と終戦の頃―東郷外相の苦心を憶う」)
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