祖父、父、そして私
(…)祖父東郷茂徳が、一九五〇年七月二十三日、A級戦犯として 巣鴨の拘置所で息をひきとったとき、私は、五歳だった。私のなかにある茂徳の記憶は、おぼろげなものでしかない。 茂徳は、寝間着のうえに、えんじ色のガウンのようなものをまとって、 どこかの病院の廊下をこちらに向かって歩いてきた。ほんとうに 私がそういう茂徳を見たのか、それとも、あとになって、いろいろな物語を 聴くなかから、そういう記憶が結晶していったのか、いまとなってはそれも 定かではない。(…)
あの晩―ハル・ノート
(…)母から聞いたいくつかの話は、私の記憶に、鮮明に残っている。「おじいちゃまはね、それまでは元気だった。でも、あの晩、家に帰ってきたとき、 ほんとに疲れきっていた」
私が何歳のときだったかは、はっきり覚えていない。しかし、そういったときの母は、 まだ相当に若かったから、中学か、高校か、学生時代のころだったと思う。
一九四一年十一月二十七日早朝(ワシントン時間二十六日午後)、 国務長官コーデル・ハルは、野村吉三郎、来栖三郎の両駐米大使に、 十一月に始まった日米交渉の帰結として、いわゆるハル・ノートを提示、 茂徳を含む日本政府は、これを事実上の最後通牒と受けとめ、戦争開始 やむなしとの結論に至った。
ハル・ノートンの内容は、二十七日連絡会議などの場で検討された。 母の記憶は、その晩、茂徳が自宅に帰ったときのものだと思う。
「あの晩まで、おじいちゃまは、ものすごくはりきっていた。絶対に、アメリカとの 交渉を成功させて、戦争を回避するって、とても忙しかったし、軍との議論は たいへんだった。けれども、それこそ、やりがいのある仕事だった。だから、毎日 生き生きとしていた。でもね、ハル・ノートを受けとった後、広尾の自宅に 帰ってきたとき、あんまり暗いムードになっていたので、びっくりした。 ほんとうにがっかりしていたのね。」
『時代の一面』も、まったく同じ記述をしている。
しかし茲に自分の個人的心境を顧れば、「ハル」公文に接した際の 失望した気持は今に忘れない。「ハル」公文接到迄は全力を尽して 闘ひ且活動したが、同公文接到後は働く熱を失つた。其直後賀屋大宮の 葬儀に於て「グルー」大使に邂逅したから、自分は全く失望したと 話したことを記憶する。戦争を避ける為めに眼をつむつて鵜飲みにしようとして 見たが喉につかへて迚も通らなかつた。自分ががっかりして来たと反対に軍の 多数は米の非妥協性を高潮し、それ見たかと云ふ気持で意気益々加はる状況にあつて、 之に対抗するのは容易なことではなかつた。
ハル・ノート発出にいたる日米交渉の経緯については、じつに多くの記述が残されている。 ハル・ノート発出の米国側の意図がどこにあったか、これを事実上の最後通牒と受けとめた 日本政府の判断は適切だったのか、などについて、必ずしもすべての議論が終息したわけではない。
しかし、日本では、私の知るかぎり、当時の日本政府がこれを事実上の最後通牒とうけとめたことは 定説となっており、また、圧倒的多数の歴史家、オピニオン・リーダーは、日本政府としては そう解釈せざるをえない十分の理由があったと判断していると思う。
(「第6章 私のなかの東京裁判」「1.祖父の戦い」)
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