2015年2月1日日曜日

書庫(7):吉田茂「思出す侭」より

(…)確か十一月二十七日であったと思うが、東郷外相の代理として 現参議院議員の佐藤尚武氏が平河町の私の家を訪ねて来た。 佐藤氏は当時外務省顧問という役目だったと記憶する。 佐藤氏は一通の英文の文書を示し、これはアメリカから来たものだが、 重大なものだと思われるので、お前から牧野に見せてくれという意味の 外相の口上を伝えた。それがいわゆる「ハル・ノート」であった。 内容は日本の主張言分と、それに対するアメリカの主張言分とを詳しく書き (このアメリカ側の主張だけが当時公表された)特に左の上の方に テンタティヴ(試案)と明記し、また「ベイシス・オブ・ネゴシエーション(交渉の基礎) であり、ディフィニティヴ(決定的)なものでない」と記されていた。実際の腹の中は ともかく外交文書の上では決して最後通牒ではなかったはずである。

それだけではなく、グルー米国大使が私のところへ使いを寄越して至急会いたいと いうので、十二月一日虎ノ門の東京クラブで大使に会った。大使は私の顔を見るなり 別室に案内し「ハル・ノートを読んだか」と聞く。私は浪人でもあったし読んだことは読んだが、 当事者ではなかったから「承知している」と答えた。大使は椅子から身体を乗出すようにして 「あのノートを君は何と心得るか」というので、私は「あれはテンタティヴであると聞き及んでいる」 と返答したら、大使は卓を叩いて語調も荒く「まさにその通りだ。日本政府はあれを最後通牒 なりと解釈し、日米間外交の決裂の如く吹聴しているが、大きな間違いである。日本側の言分も あるだろうが、ハル長官は日米交渉の基礎をなす一試案であることを強調しているのだ。 この意味を充分理解して欲しい。ついては東郷外相に会いたい。吉田君から斡旋してもらえないか」という。 せっぱつまった大使の気持ちを察して私はその日、電話で外相に連絡するとともに外務省に 出向いて大使の言葉を伝えた。外相は言葉を濁して会う気配はなかった。会ったらどうなっていたか。 今から思えば結果は同じだっただろう。当時既に奇襲開戦の方針が決定していて艦隊は 早くも行動を起こしていたらしい。外相としては会うのが辛かったのであろうが、外交官としては 最後まで交渉をするのが定跡だと信ずる私としては誠に痛恨に堪えなかった。

東郷外相の依頼を受けて私は通牒の写しを当時渋谷に住んでいた牧野に見せた。 手にとって読んでゆく牧野の顔は次第に険しく「随分ひどいことが書いてあるな」と いいながら黙っている。そこで私は「外務大臣があなたに見せる以上は何か意見を聴きたいという 意味でしょう」というと、暫く考えて「明治維新の大業は鹿児島の先輩西郷や大久保の苦心によって 成就した。この際先輩たちの偉業を想起し慎重に考慮すべきであると伝えよ」という。 戦争すべきではない。先輩の大きな夢を崩すことになるという意味である。私はこの牧野の言葉を そのまま佐藤氏に伝えたところ、氏は眼に涙して「必ず外相に伝達します。私は戦争になれば いまの地位(外務省顧問)をやめるつもりです」といっていた。私はこの写しを当時やはり浪人していた 幣原喜重郎氏にも見せた。私はさらに東郷外相を訪ね執拗にノートの趣旨を説明し注意を喚起した。 東郷は「お説の通り、なお米国側と折衝するつもりでいる」ということであったので、私は少々乱暴だと 思ったが「君はこのことが聞き入れられなかったら外務大臣を辞めろ。君が辞めれば閣議が停頓するばかりか 軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか」とまでいったものである。

(「6 ハル・ノートの秘密―果たして「最後通牒」だったか」)

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