2015年2月5日木曜日

書庫(15):萩原延壽「東郷茂徳 伝記と解説」より

東郷茂徳は独特の癖のある字を書く。やや右肩上がりの、肘をつよく張ったかたちをしていて、いかにも癇のつよそうな、 容易なことでは自分を取り下げそうもない気性の一端が、そこにもすでに見てとれる。あのひとは我がつよいという、 その我がどの点画にもにらみを利かせているような字体である。

昭和二十五年(一九五〇)一月五日、東郷は鉛筆をにぎり、そうした文字に託して、「最後の戦い」を開始した。 回想録『時代の一面』の執筆である。このとき東郷は「A級戦犯」のひとりとして、東京裁判(極東国際軍事裁判)の 下した禁錮二十年の判決を受け、東京巣鴨の拘置所で服役中の身であった。


まず東郷は、「予は茲に予の公的生涯を通ずる期間、即ち恰も第一次世界戦争勃発の頃より第二次世界戦争終末に渉る間に於て、 予が直接見聞せる所並びに関与した事件に就て率直なる叙述を為さんとするのである」と述べ、つづいて「本書の目的は予の自伝にあらず、 又自分の行動を瓣解せんとするのでもなければ、日本政府のとつた政策を瓣解せんとするのでもなく」と、 その立場をあきらかにし、「自分が見た時代の動きを記述するを本旨とし、自己が見聞し且つ活動せる所に就き、外交史的」 と書いたところで、この「外交史的」を「文明史的」とあらため、「主として文明史的考察を行はんとするのである」とことばをすすめた。

それから本題に移り、最初の在外勤務である大正初年の奉天総領事館から叙述をおこし、昭和十六年(一九四一)六月の独ソ戦争勃発の砲をきくところまで、 字数にして約十二万字を大学ノート二冊の両面にぎっしり埋めて、第一部の稿をおえた。起稿後三週間の一月二十七日のことである。

つづいて二月九日、自らも外相として政策決定にふかく関与した日米開戦にいたる経緯に主題を移し、 今度は厚手の罫紙五十一葉の両面に約十二万字をつらねて、これを第二部とした。稿をおえたのは、やはり三週間後の二月二十八日である。

三月一日、東郷はただちに第三部にすすみ、開戦直後の戦時外交から説きおこし、翌昭和十七年(一九四二)九月の外相辞任、昭和二十年(一九四五)四月の外相復帰、 そして、終戦工作に従事して八月十五日を迎えるところまで、第二部とおなじ罫紙三十六葉の両面を使い、これに約七万字をあてて、二週間後の三月十四日に擱筆した。

「(八月)十七日午後、東久邇宮内閣が成立したので、翌十八日午前、外務省及び大東亜省で重光(葵)新任大臣と事務引継ぎを為した上、 両省省員に対し戦争終末の経緯を説明すると共に、両省省員の覚悟に付き希望を述べた」というのが、その最後のくだりである。

この日の日記は簡潔にこうしるしている。


「三月十四日 『時代の一面』、終戦迄一応完了。今ノ処二百五十頁ナルベシ。一月五日着手。」


総計約三十一万字、厳冬の季節に耐え、衰弱した肉体を懸命に支えながら、東郷は約二ヵ月で『時代の一面』を書き切った。(…)

「伝記 東郷茂徳 -その前半生」「序章 戦いの記録―『時代の一面』―」より

0 件のコメント:

コメントを投稿