(…)すでに本章でとりあげた『昭和の精神史』は七年の思索の結晶と呼べるのに対し、
この「ローリング判事への手紙」に綴られた竹山の思いは、判決から半年少々しか
経っていないこともあってか、東京裁判が与えた衝撃の余燼が感じられる作品になっている。
たとえば、開戦を阻止することを自らに誓って東條内閣に入閣し、最後まで日米交渉成立、
開戦回避に努めつつも、結局は開戦内閣の一員になってしまった東郷茂徳についての
記述である。竹山は、日本人被告の名を誰一人として出さぬまま書きすすめているが、
前後の文脈から東郷のことであるのは明らかである。
次のような比喩を用いつつ、彼を評価しようとした。
あの当時にあってのもっとも正しい男性的な態度は、むしろ相手の中にとびこんで、
その組織の中からはたらくということでした。―今われらの国は軌道を外れて盲目的に
驀進しつつある汽車のようなものだ。所詮停めることができない汽車ならば、
ただその後尾の客車に坐って不平をいったり蔭口をきいたりしているよりも、
むしろすすんで機関車に入って、無謀な運転手の手をおさえて、車を軌道にのせるべく努力すべきだ。
―これが有効な結果を生みうる、残された唯一の道でした。邪悪なものと協力することによって
全体を救う、これがもっとも良心ある人のなすべきことでした。もしかりに戦争の勃発がふせがれえたとしたら、
それはただこうした人々によってのみなされえたので、手の清い人からそれをのぞむことはできませんでした。
あの条件の下にあっては、もっとも罪なきものであることは、共に罪を犯すことでした!
共犯者となることでした![D・261]
これは「手紙」というより「訴状」という言葉を想起させる、実に熱のこもった訴えの文面である。
竹山道雄の、穏やかで、時に淡々とも言える文体に慣れ親しんでいる読み手ならば、
次々と岸辺に押し寄せてくる大波の如き激しいリズムの反復に、圧倒されよう。
東京帝大独文科出身の外交官東郷茂徳は、竹山道雄にとって同窓の「先輩」にあたる。
もちろん、それが理由で彼がかくも熱をこめて東郷論を展開したのではなかろうが、
この東郷の努力を何ら顧慮することなく禁固二十年の刑を下した公式判決への、
竹山のいまださめない憤りが伝わってくる。『昭和の精神史』の表現を借りるならば、
「多くの非合理な痴愚の絶頂」[C・123]への忿懣である。
旧敵国人である自分を信頼して、公判中にも裁判について意見をもとめてきた元判事に、
竹山道雄も正直に胸の内を、こう書き記した。そして、こういう竹山の胸のつかえを解消してくれるかのように、
レーリングが東郷の努力を認め、無罪と判定したのを「まことに感謝にたえぬこと」[D・262]
とはっきり活字にした。当時、東郷茂徳は巣鴨プリズンで服役中、病魔と戦いつつ回想録
『時代の一面』執筆に取り組んでいた。所持品、差し入れ品等厳しい制限を受けていた虜囚の身の彼が、
レーリングの個別意見書に目を通したという記録はない。
まして、この竹山の一文が載った『新潮』を入手することもなかったろう。
しかし翌年、『時代の一面』の草稿完成直後病死する東郷に、
レーリングと竹山のこの「東郷論」を読ませてやりたかった、
とまで思わせるくらいに竹山の文章には熱がこもっている。
(…)
(「第5章 竹山道雄と東京裁判」より)
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