2015年2月1日日曜日

書庫(10):岡崎久彦「重光・東郷とその時代」より

(…)ハル・ノートは、公式には十項目提案と呼ばれる。もともとは英国などに回覧して 意見を求めた暫定案の付属文書であり、暫定案が受諾されたあとで本交渉に入る際の 米国側の基本的立場、それも最大限の要求を記したものである。

それを本文の暫定案から切り離して、それだけを日本側にぶつけたのであるから、 当面の交渉の答えになっているはずもなく、従来の日米間の交渉の経緯をまったく 無視して一方的に米国の最大限の要求だけを突きつけた最後通牒と解されても 仕方ない文書となった。

もちろん公式の宣戦文書ではないが、日本側が交渉打ち切りの通告と 受け取って当然の内容であった。東京裁判でインドのパル判事は当時の歴史家の 文章を引用して、「真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと 同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも 合衆国に対して戈をとって立ち上がったであろう」といっている。

東郷茂徳外相でさえも、「戦争を避けるために眼をつむって鵜呑みにしようとしてみたが 喉につかえてとても通らなかった」と記しているような内容であった。

東郷は、当時の日本の指導者のなかでは例外的に大勢に順応しようとしなかった人物である。 自らの分析と戦略に信念をもち、それに反する妥協には応じない強靭な精神力をもった外務官僚であった。

戦争責任を問われて獄中にあったときの短歌に、

十年あまり火水の中を渉り来ぬ妥協の港に憩らいもせで

唯一つ妥協したるがくやしくも其後のまがつみ凡てはこれに

とある。その「妥協」とは開戦のことであり、また開戦に際しては辞職すべきだったところを 慰留を受けて外相を辞任しなかったことにあると解されている。

(「第十一章 真珠湾へ」)

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