幼年時代を過ごした東京麻布の洋館。見上げるように高い天井の、二階へ通ずる階段を上がった奥の部屋。
ずっしりと重い木の扉の向こうに、その人はいる。濃い緑かえび茶色の和服を着て、髪は随分と白くなっている。
背はそれほど高くない。眼差しがじっとこちらに注がれている。なにか、暖かいものに包まれているような気がする。
両親に連れられて行った、どこか厳めしい建物。くすんだ色のシャツとズボンのその人の膝の上に乗っている自分。
そばには、丸く白いヘルメットに制服の外国の兵隊さんたちがいる。ある日「おじいちゃまがお家に帰ってくると、
兵隊さんたち、さびしくならないの」と母に言った時の、まわりの大人たちの間に起きた小波のような笑い。
「おじいちゃま」と、子供の頃より呼んでいたその人の直接の記憶は朧である。自らの体験、後になって聞かされた話、
あるいは、当時の写真などを見ているうちに定着したイメージ。そうしたいくつかが、混然とした思い出となって
心の底に残っているだけである。
私が五歳の時に世を去った祖父の記憶がとくに限られているのは、一歳と五ヵ月の時に獄中の人となったからだと思う。
今回、はからずも祖父の伝記を書くことになり、獄中での遺品を整理していた時、祖父が日頃つけていた手帳日記に
五枚の写真が挟みこまれているのを見つけた。いずれも、麻布の家の庭などで遊んでいる幼い私や、双子の弟の写真だった。
当時の私たちが描いたキリンや馬、鉛筆、おもちゃの電話、バスケットなどの絵も雑然とした書類の中に挟まれてあった。
祖父は、獄中から家族にたくさんの手紙を書いている。そのなかには、双子の孫の教育に関し、様々な意見や注意が記述され、
時には率直な愛情が吐露されていた。
「茂坊及和坊のにこにこしたすがたがいつも眼の前に浮かんで来るが、身体も精神も健全に発育するやうに祈って居る」
「兎に角全体としては、正直な、よく働く人間に育て上げる方針が安全である」(二十三年七月七日付)。
「幼年の頃には成人の後には偉い人になるとの奮発心と、他方如何なる場合にも正直に、且つ真直の途を履み進むやうにすることが根本と思ふ」
(同年九月十二日付)。
男の子は、弱虫にならないよう、困難に耐え、精神的にも肉体的にも鍛錬すること、生涯の基礎となるような良い習慣を身につけさせる。
贅沢は最も害をなす―といった原則論から、日本語や日本史、漢字の習得に小さいうちから力を入れておくと良いなど、私の受けた教育を今振り返ると、
「あれは祖父の指示に基づくものだったのか」と思い当たる節が多かった。
軒ばなる雀にもがな麻布なる
児等と遊びて後帰りこむ(二十三年四月)
こどもらのよきたより聞きてセメントの
冷たき室にも熟睡せるかも(二十五年四月)
などの和歌を詠んだ祖父の肉筆を見、獄中の心境を想う時、心中に、熱いものがこみ上げてくるのを押さえることが出来ない。
東郷茂徳。太平洋戦争の開戦と終戦時の外務大臣をつとめ、東京裁判に於て禁固二十年の刑を受け、獄中で死んだ祖父は、
我が家では「絶対」の存在であった。日本を戦争に導かぬよう心血を注ぎ、一旦戦いが始まると、その終結のために身命を捧げ、
本土が戦場となる前に大戦を終わらせ、国と世界を救った―その業績と人に対する畏敬。常に家族を大きな愛情で包んでくれていながら、
身内の誰一人にも看取られることなく、獄中で世を去らねばならなかったことへの無念と怒り。「おじいちゃま」について語られる時、
家族の心の底にはそれらの混じりあった強い感情がいつもあったのではないかと思う。
(「プロローグ」より)
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