(…)私自身も、戦前の全否定とは、無縁の世界で育った。
極東裁判は、東郷茂徳を祖父に持つ私の家では、
戦いの場であった。
開戦を阻止せんとして東條内閣の外務大臣として全力を
つくして果たせず、鈴木内閣の外務大臣として終戦を
なしとげた祖父東郷茂徳は、A級戦犯として極東裁判で
禁固二十年の刑をうけ、一九五〇年巣鴨の獄中で死去した。
占領米軍にとって、真珠湾攻撃の時の外務大臣は、もっとも悪質な戦争犯罪人であった。
茂徳の弁護に当たった家族にとって、極東裁判は、茂徳の命を守るための戦いの場であるとともに、
太平洋戦争がいかなる曲折に基づいて行われたかを歴史に向かって証言する場でもあった。
太平洋戦争が侵略戦争であり、その首謀者は「平和に対する罪」として断罪されねばならないという、
極東裁判検察と多数判決の論理を、我が家では、一秒たりとも肯定したことはなかった。
六〇年代から八〇年代、冷戦の中で、戦前の日本にあった正当なる栄光をとりもどそうとしてきた
動きは、私は、時代の要請に応える必然的なものだったと認識している。(…)
(「第七章 ナショナリズム」より)
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