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2015年8月9日日曜日

書庫(56):牛村圭「「文明の裁き」をこえて」より

(…)
 東郷は『時代の一面』を、二十年の禁固刑の判決を受けた虜囚として、憤懣やる方なき心境で綴った。 その草稿を、病室に見舞いに来た娘に手渡した五日後に世を去ったという事実をも考え合わせれば、 この書は彼の遺書であり、弁明でもある。従って読む者は、どれほど東郷の姿にひかれようとも、 心して読むべきであろう。幸い、この会見に同席した加瀬俊一の次の回想が傍証となってくれる。

 マリク大使が宣戦通告分を持参した時には、ソ連軍は既に満州に殺到していた。 東郷・マリク会談はひと目を避けて貴族院貴賓室で行われ、私が立ち会ったが、 東郷は厳粛な表情で大使を引見し中立条約違反を烈しく難詰した。 大使はボソボソと低声に弁解したが、あたかも検事が被告を叱責るようで小気味よかった。 崩壊寸前の日本なのに、東郷の態度は堂々として立派だった。後にマリクは国連において私の同僚大使になったが、 『あの時は寿命の縮む思いがした』と述懐したものである。

 読む者にさながらその会見が眼前で展開しているかの如く、情景を思い浮かばせる文章である。 「厳粛な表情で大使を引見し中立条約違反を烈しく難詰した」の一文は、如何にも東郷らしく、 彼の面目躍如たるものを感じさせるに十分である。傍らでこの様子を見ていた加藤の、 「小気味よかった」という感想も、条約無視の上対日宣戦したソ連への憤りを痛烈に感じていた、 当時の日本人の一人としての、偽らざる気持ちであろう。後日加瀬にマリクが漏らしたという 「あの時は寿命が縮む思いがした」の一言は、加瀬の脚色が加えられている気味もあるが、 それでも東郷の詰問の激しさを十分裏書きできるものである。
 このマリク大使に対する東郷外相の言動は、野村大使に対するハル国務長官の態度と比較して、 「強い精神」の発揮という点においては全く遜色がない。 東郷茂徳は、丸山が指摘するような「弱い精神」の持ち主では決してなく、「強さ」の発揮が必要とされる場合には、 遅れて宣戦通告を持参したマリクを叱りつけたように、丸山眞男の言う「強さ」を十分発揮できた人物である、 と主張して一向に差しつかえない。
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(「第3章 「私人の間の気がね」と「腹藝」―東郷茂徳外相の論理」より

2015年7月1日水曜日

書庫(41):牛村圭「「文明の裁き」をこえて」より

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 東郷茂徳は、昭和十六(一九四一)年十月外相に就任以来、日米交渉を成立させるべく邁進して徹底的に開戦に反対し、 またのち鈴木貫太郎内閣の外相として、戦禍の増大を少しでも食い止めるため、ポツダム宣言の受諾を主張して真っ向から軍部と対決した人だった。 それは今日多くの記録が語ってくれる。外務省官僚としての東郷に親しく接した人たちの東郷評は、「孤高の性格のうえに、冷静厳格」あるいは、 「だれに対しても相当きびしい態度に出る人」という、東郷の外相当時の行動を裏書きするものである。 また満州事変のころから東郷と親交にあった共同通信の森元治郎記者は、

 彼は今更云つても始まらないと黙つて引込む男ではない。…(中略)…彼には法律家のような頭脳に、強靭無類な性格が交錯し、 公私何れの場合でも最も不利な而も受身な局面にぶつかると恐る可き底力を出した。

 と評した。
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(「第3章 「私人の間の気がね」と「腹藝」―東郷茂徳外相の論理」より

2015年6月30日火曜日

書庫(40):牛村圭「「文明の裁き」をこえて」より

テクノロジーに抗して
さて、『時代の一面』に見られる東郷茂徳の文明観の特徴、しかも先人陸奥の『蹇蹇録』には なかったものをさらに指摘しておかねばならない。それは、テクノロジー、すなわち機械が文明の中で占める位置への言及である。 明治初年の最も有名な西洋化の教師であった福沢諭吉はその著『文明論之概略』の中で「西洋文明を目標とすること」を説き、 一方、明治政府の方針も西洋化のもとに国作りを行うというものだった。その結果、日清戦争当時、陸奥外相が日本を 「西欧的新文明の国」と呼んだことはすでに見た。そういう「目標」と成り得ていた文明観に変化が訪れるのはちょうど世紀の変わり目、 直接のきっかけの一つとなったのは、前にも触れた、北清事変の鎮圧に向かった連合国軍の行動であった。 ドイツ軍の一部に至っては、戦いが終ったのちに到着したため、非戦闘員である中国人相手に略奪、暴行、そして殺戮を繰り返し「戦意」を満たした。 日本では、この堕落した文明の様を、『萬朝報』や『日本人』といったジャーナリズムが取り上げ、厳しく糾弾するばかりか原因の考察にものり出した。 こうしていつしか日本人の中に、西洋文明に対する一つの「言説」が生れてくる。 当時、余命幾許もなかった中江兆民は、この言説を簡潔に書き記している。

 但近日営を北清の野に連ね、聯して敵に当るに方り、彼等が大に其弱失の処を見はして、蛮野の風を発せしを見て、我邦軍人輩、 皆始めて彼等の所謂文明の往々形質の表に止まりて、理義に至つては我れと相下らず、或は大に我れに劣る有るを知れり。

 西洋文明は「形質」面、物質面では日本より優れてはいるものの、「理義」、つまり道理と正義の点では日本の方が上かもしれない、 という言説の出現である。この言説はやがて大正時代になると、テクノロジーで代表される「文明」に対する、 精神「文化」の優位という形へと展開していく。十九世紀人の陸奥宗光にはおよそ予想もできなかったであろう文明観の変化だった。 更に時代の下った日米開戦の翌年昭和十七(一九四二)年七月、雑誌『文學界』は、「近代の超克」をテーマに京都で座談会を開いた。 その席上でも、明治の文明の意義とその後の影響については大きな話題の一つとなった。 第一次大戦後、日本に広まった「アメリカニズム」に包含されている物質文明、機械文明に対する精神の優位を説くのが出席者の大勢だった。 そして、東郷茂徳もまた、テクノロジーを絶えず意識していた二十世紀の日本の外交官だった。
 今なお時折出現するさきの大戦に関する批判の一つに、日本はアメリカとの国力の差をまともに考えることなく無謀な戦いに突入していった、 というものがある。たしかに、 緒戦の勝利が華々しかったため開戦内閣の閣僚の中にも「現今の勢で進めば『ワシントン』まで攻めて行けるかも知れない」 といった現実感覚の欠如した発言を行った者もいたが、開戦前の昭和十六年十、十一月、たびたび開かれた連絡会議の場では、 アメリカの国力を過小評価していたのでは全くなかった。東郷外相自身、米国勤務の体験からアメリカの巨大さは十分承知していたし、 アメリカの生産能力については「其戦争遂行能力の偉大なることは日本現存工業等が足許にも及ぶべからざること」を、 連絡会議の出席者は明白に認めていた。だからこそ東郷は本稿初めの方で見たように、昭和十七年元旦の外務省員への訓示をはじめ、 さまざまな場で早期和平を説いたのだった。
 しかしながら、開戦の翌年秋、大東亜省設置をめぐって東條首相と対立して単独辞職をすることになった東郷には、 もう国策を動かす力はなくなっていた。貴族院議員という名誉職にはあったものの、日本の戦局の悪化を次のように把えることしかかなわなかった。

 敵は科学的に進歩した飛行機、電波探知器、海中聴音器其他の兵器を使用したのは勿論であるが、進撃も科学的であり徐々に押して来た訳で、 彼方が当初の布哇の成功に誇り個人的勇気を以てする猪突的行動に出たこと等が失敗の基となつたのではないかと思つた。

 近代戦において、「個人的勇気」は「科学」すなわちテクノロジーにはかなわなかったのである。
(…)

(「第9章 文明批評家 東郷茂徳 ―『蹇蹇録』と併せ読む『時代の一面』」より

2015年2月21日土曜日

書庫(22):牛村圭『「文明の裁き」をこえて』より

(…)すでに本章でとりあげた『昭和の精神史』は七年の思索の結晶と呼べるのに対し、 この「ローリング判事への手紙」に綴られた竹山の思いは、判決から半年少々しか 経っていないこともあってか、東京裁判が与えた衝撃の余燼が感じられる作品になっている。 たとえば、開戦を阻止することを自らに誓って東條内閣に入閣し、最後まで日米交渉成立、 開戦回避に努めつつも、結局は開戦内閣の一員になってしまった東郷茂徳についての 記述である。竹山は、日本人被告の名を誰一人として出さぬまま書きすすめているが、 前後の文脈から東郷のことであるのは明らかである。 次のような比喩を用いつつ、彼を評価しようとした。

 あの当時にあってのもっとも正しい男性的な態度は、むしろ相手の中にとびこんで、 その組織の中からはたらくということでした。―今われらの国は軌道を外れて盲目的に 驀進しつつある汽車のようなものだ。所詮停めることができない汽車ならば、 ただその後尾の客車に坐って不平をいったり蔭口をきいたりしているよりも、 むしろすすんで機関車に入って、無謀な運転手の手をおさえて、車を軌道にのせるべく努力すべきだ。 ―これが有効な結果を生みうる、残された唯一の道でした。邪悪なものと協力することによって 全体を救う、これがもっとも良心ある人のなすべきことでした。もしかりに戦争の勃発がふせがれえたとしたら、 それはただこうした人々によってのみなされえたので、手の清い人からそれをのぞむことはできませんでした。
 あの条件の下にあっては、もっとも罪なきものであることは、共に罪を犯すことでした! 共犯者となることでした![D・261]


これは「手紙」というより「訴状」という言葉を想起させる、実に熱のこもった訴えの文面である。 竹山道雄の、穏やかで、時に淡々とも言える文体に慣れ親しんでいる読み手ならば、 次々と岸辺に押し寄せてくる大波の如き激しいリズムの反復に、圧倒されよう。 東京帝大独文科出身の外交官東郷茂徳は、竹山道雄にとって同窓の「先輩」にあたる。 もちろん、それが理由で彼がかくも熱をこめて東郷論を展開したのではなかろうが、 この東郷の努力を何ら顧慮することなく禁固二十年の刑を下した公式判決への、 竹山のいまださめない憤りが伝わってくる。『昭和の精神史』の表現を借りるならば、 「多くの非合理な痴愚の絶頂」[C・123]への忿懣である。 旧敵国人である自分を信頼して、公判中にも裁判について意見をもとめてきた元判事に、 竹山道雄も正直に胸の内を、こう書き記した。そして、こういう竹山の胸のつかえを解消してくれるかのように、 レーリングが東郷の努力を認め、無罪と判定したのを「まことに感謝にたえぬこと」[D・262] とはっきり活字にした。当時、東郷茂徳は巣鴨プリズンで服役中、病魔と戦いつつ回想録 『時代の一面』執筆に取り組んでいた。所持品、差し入れ品等厳しい制限を受けていた虜囚の身の彼が、 レーリングの個別意見書に目を通したという記録はない。 まして、この竹山の一文が載った『新潮』を入手することもなかったろう。 しかし翌年、『時代の一面』の草稿完成直後病死する東郷に、 レーリングと竹山のこの「東郷論」を読ませてやりたかった、 とまで思わせるくらいに竹山の文章には熱がこもっている。
(…)

(「第5章 竹山道雄と東京裁判」より)

2015年1月18日日曜日

書庫(3):牛村圭「「文明の裁き」をこえて」より

(…)一方、東郷に対しては戦後、「『ハル・ノート』を受諾出来なかった筈はない」[256]という非難が向けられるようになった。批判者が実は戦前日独防共協定締結の熱心な賛成者だった、というような主義・主張の変節ぶりを指摘[257]した後、東郷は次のように他策がなかったことを書き遺した。

…「ハル」公文を受諾した後の日本の位地が、敗戦後の現在の地位と大差なきものとなるべきであることは又疑の余地はない。されば戦争による被害がなかつた丈け有利ではなかつたかとの考があるかも知れぬが、これは一国の名誉も権威も忘れた考へ方であるので論外である。[259]

また別の箇所では「誰れの内閣であらうと大陸から全面的に撤退しない限り戦争」[195]と書き、大陸からの日本軍隊・警察の全面撤退要求事項を含むハル・ノート接到以降は、開戦しか道がなかったことを力説した。(第9章 文明批評家 東郷茂徳 -『蹇蹇録』を併せ読む『時代の一面』)

*   *   *
(…)しかし東郷茂徳には終生、一つのささやかな満足感があった。それは多大の障害を乗り越えて、昭和二十年夏に、戦争を終結できたという思いに他ならない。昭和二十二(一九四七)年十二月、極東国際軍事裁判の証言台に立った彼は、長文の宣誓口供書を次のように締めくくった。

一九四一年に戦争を阻止し得なかったことは余の生涯に於ける大なる痛痕(ママ)事であったが、一九四五年之を終結に導き人類の苦悩を軽減することに寄与し得たことは以て聊か慰めと為す次第である。[337・19]

第二次世界大戦での敗戦で終わる帝国日本最後期の外務大臣をつとめた東郷茂徳、彼が宣誓口供書をこう結んでからまた半世紀の時が経った。(第9章 文明批評家 東郷茂徳 -『蹇蹇録』を併せ読む『時代の一面』)