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東郷は『時代の一面』を、二十年の禁固刑の判決を受けた虜囚として、憤懣やる方なき心境で綴った。
その草稿を、病室に見舞いに来た娘に手渡した五日後に世を去ったという事実をも考え合わせれば、
この書は彼の遺書であり、弁明でもある。従って読む者は、どれほど東郷の姿にひかれようとも、
心して読むべきであろう。幸い、この会見に同席した加瀬俊一の次の回想が傍証となってくれる。
マリク大使が宣戦通告分を持参した時には、ソ連軍は既に満州に殺到していた。
東郷・マリク会談はひと目を避けて貴族院貴賓室で行われ、私が立ち会ったが、
東郷は厳粛な表情で大使を引見し中立条約違反を烈しく難詰した。
大使はボソボソと低声に弁解したが、あたかも検事が被告を叱責るようで小気味よかった。
崩壊寸前の日本なのに、東郷の態度は堂々として立派だった。後にマリクは国連において私の同僚大使になったが、
『あの時は寿命の縮む思いがした』と述懐したものである。
読む者にさながらその会見が眼前で展開しているかの如く、情景を思い浮かばせる文章である。
「厳粛な表情で大使を引見し中立条約違反を烈しく難詰した」の一文は、如何にも東郷らしく、
彼の面目躍如たるものを感じさせるに十分である。傍らでこの様子を見ていた加藤の、
「小気味よかった」という感想も、条約無視の上対日宣戦したソ連への憤りを痛烈に感じていた、
当時の日本人の一人としての、偽らざる気持ちであろう。後日加瀬にマリクが漏らしたという
「あの時は寿命が縮む思いがした」の一言は、加瀬の脚色が加えられている気味もあるが、
それでも東郷の詰問の激しさを十分裏書きできるものである。
このマリク大使に対する東郷外相の言動は、野村大使に対するハル国務長官の態度と比較して、
「強い精神」の発揮という点においては全く遜色がない。
東郷茂徳は、丸山が指摘するような「弱い精神」の持ち主では決してなく、「強さ」の発揮が必要とされる場合には、
遅れて宣戦通告を持参したマリクを叱りつけたように、丸山眞男の言う「強さ」を十分発揮できた人物である、
と主張して一向に差しつかえない。
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(「第3章 「私人の間の気がね」と「腹藝」―東郷茂徳外相の論理」より
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