2015年7月31日金曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(8)

(大井)鈴木総理の話ですが、木戸日記を見ますと七月七日に総理が参内した時に、 陛下はソ聯との交渉は肚を探ると言つてゐたがあれはどうなつてゐるかと言ふ御下問があつたと言ふことが書いてあります。
(東郷)それは次の時にお話しようと思つてゐたが、今お話しませう。 さう言ふことでもつてソ聯の方からの話は一向進まない、 その上に広田マリク会談の報告マリクの方からは電報でなくクリエルで送つたと言ふことを私は聞いたことがある。 それで自分はこれはとても駄目だと思つて、その方には殆ど見切りをつけた。 それでロシアに対する関係は総て別に進める必要があると言ふのでそれには誰かモスクワに人をやるより外方法はないと言ふことでもつて、 総理其の他最高戦争指導会議構成員に話をして其同志を得た訳です。 それで七月二日頃高松宮に呼ばれた時に高松宮から色んなお話があつたから、戦局がこゝまで来た以上、 速かに和平に乗り出す必要があります、それについては陸軍、海軍の方もその希望は非常に強いから、 ソ聯を通じてやるよりないと思ふ、又それについてはモスクワに人を出すことが最も良いと思ふ、と申上げたら、 実はその話は米内から聞いた。誰をモスクワにやるつもりか、と言つてお聞きになる。 それで近衛をやつた方が最も良ろしいと思ひますと言つたことがある。 それは七月二日だつた。それで近衛公の話は総理にも話して置いたが、 私は近衛公に会つて内談して置く必要があるので七月七日、恰度七夕の日だつたからよく憶えてゐるが、 軽井沢に行つてその翌日の八日に近衛に会つた。 是非モスクワに行つて欲しいのだ、陛下には申上げてないけれども総理には話してある、 それで甚だ御苦労だけれどもさう願へないだらうかと言つて話した。 近衛公は陛下からさう言ふ御命令があれば行つてもいゝと言ふことだつた。 日支事変から日米交渉を経て斯う言ふことになつて自分も十分責任を感ずるからと言ふやうなことも言つて居つた。 条件はどうするかと言ふ話が向ふから出た。 条件については今迄も戦争指導会議構成員丈けではちよいちよい話をしてゐるんだが、 表向きの話になると、軍の方では、戦争に負けてゐないと言ふことを云ひ出すので困つてゐるんだ、 併し斯う言ふ状況になつた以上は、無条件では困るけれども、 それに近いやうなもので纏めるより外はないと思ふと話した。 すると自分もさう言ふ考だ、と近衛公は言つて居つた。 それについて自分が向ふに行くやうになれば斯う言ふ条件の下に和議を纏めると言ふことではなく、 白紙で行くことにして貰ひたいと言ふ注文があつた。 条件を決めて行くと言ふことになればなかなかむづかしいと思ふから、 結局その方が最もいゝかとも思ふと言ふ話をしたこともあるんです。
 それで内輪の話はずつと進んだ訳です。
 ところが七月八日に軽井沢から東京に帰つて総理に会つたところが、陛下からお召しがあつて、 和平の話を進めた方が良いぢやないかと言ふお言葉があつたから、 外務大臣が今朝軽井沢に行つて近衛公に会つてそんな話をしてゐる訳ですが、 帰つたら早速話しを進めることにしますからと申上げて置いたと言ふことだつたから、 近衛公の意見、希望も伝へ最高戦争指導会議構成員の集まりを直ぐ開くことに打合せた訳でした。
(大井)アメリカ側の書いたもので七月十二日に天皇は近衛をお呼びになつて、 さうして自分の取上げ得る条件は何でも受け入れるやうに近衛に秘かに訓令されたと言ふのです。 さうしてそれを天皇に直接電話するやうにと言ふことを近衛に仰せになつたと言ふことを書いてあるんです。 又近衛の手記にも同じことが書いてあるやうです。
(東郷)それは近衛の手記の方から出たのかも知れないけれども、 秘かにと言ふ訳でもないのです。 私が軽井沢に行く前に、鈴木総理に対し、自分はこれは近衛公の内諾を得て来ますが、 陛下にはあなたから近衛に御命令になつた方がよろしいでせうと言ふことを内奏して置かれた方がいゝ、 と言つたところがそれは結構だと総理も言はれた。 従て総理からは其趣旨で前以て陛下に申上げたことと思ふ。 そして七月十二日近衛公は日華協会の開会式があるので東京に来た訳です。
 それでその機会に陛下から近衛にお話になると言ふことは打合せ済みなんです。 日華協会の席上で近衛公から謁見の次第に付て通報があつたが、 更に詳細の打合をしたいとのことであつたから総理官邸に赴き総理と三人で話した訳です。 近衛公の曰く、陛下からのお召しを受けて行つたところが、 モスクワに行つて和平の話を進めると言ふことについてどう思ふかと言ふ話だから結構ですと言ふことを申上げたところが、 それでは是非行つてくれと言ふお話があつた、さう言ふことならば参りませうと言ふことを言つて置いた。 何れ正式の命令は後から出るでせうけれども、 その際の条件についてはあまりぎこちないことであつては向ふに行つてから仕事が出来兼ねることになると言つたから自分も其の通りと思ふといふことを言つておきました。 何でもいゝから自分のところにぢかに持つて来いと言ふお言葉があつたと言ふことはその時は話は聞かないけれども、 手記にさう書いてあることは聞きました。
(大井)近衛さんが自殺される時に書いて置いたものを今日持つて来ませんでしたが、 それにははつきりさう書いてあります。
(東郷)近衛公が書いてゐるのはさうでせう。 僕と軽井沢に於ける打合せの際にも白紙でもつてこちらを発つて行きたいと言ふ意味のことを言つて居り、 其後又陛下の方も大体に於て御異存がないやうだつたと語つたことは記憶します。

2015年7月30日木曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(7)

(大井)それでは次の広田マリク会談が中断したところを一つ…。
(東郷)これはどの程度の期待を寄せて居つたかと言ふことになると、昨日お話したやうに、 私はソ聯は日本に対して良い感じを持つてゐる筈はない、だからソ聯を仲介する場合にはその態度を探りつゝ悪感を緩和し且つ之を除去しつゝ、 さうして仲介にもつて行く必要があると言ふ考であつたから、この会議にもさう期待を寄せる訳にもいかなかつた。 大なる期待は寄せ得なかつた。そこで初めは広田の方も先づ探りを入れると言ふことでもつて話を始めた訳なんです。 六月の初め広田氏がソ聯大使に会つて一般的の話をしたところが、 マリクの方は日ソ関係の改善について非常な興味を示し今日の話は是非モスクワに伝へます、 モスクワの方から話を進めるやうにと言ふことを言つて来たら突込んだ具体的の話をしたいからと言ふことであつて大変うけがよかつた、 ものになりそうだと言ふことを言つた訳です。 次に食事の招待会二、三度会つてゐる筈なのですが、話は急速に進捗しないので私の方から広田氏に急いで話を進めて欲しい、 先方が交渉に乗つて来なければ別に考慮しなければならないから、 交渉を進める誠意があるかどうかをはつきりさせて欲しいと督促をしたことがあります。 ところが広田氏は、あまり急ぐとこちらの肚を見られるやうで損ぢやないかと言ふことを言つて居つた。 外交の筋道から言へばさう言ふことになる訳だけれども事態が急迫せる為、取急ぐ必要があることを説明して、 催促して貰つた訳なんです。それで広田氏の方も色んな者を通じて、督促はして居つたやうですがなかなか話は進まなかつた。 それで二十四日まで中絶して居つた訳です。 然るに六月二十二日陛下よりの御言葉もあつたので、自分は二十三日鵠沼に広田氏を訪ねて、陛下の御思召をも詳報し、 うんと突込んでやつて貰いたいことを話した結果、二十四日の会見と言ふことになつた訳です。
(大井)広田マリク会談と言ふことを始められましたのに広田氏を選ばれた理由、 それに広田マリク会談と言ふものは五月中旬の最高戦争指導会議でロシアと交渉をすると言ふことで、 先づ肚を探るために非公式にやつて見よう、斯う言ふ意味だつたんですか。
(東郷)さうです。腹を探りつつ両国の関係を改善し且一般和平の仲介に導かうとしたのです。 広田氏を選んだと言ふのは前からの行懸りもあつたんです。 ソ聯に対する日本の動きが活潑でないといふ非難が東京で長い間随分あつたんです。 従て鈴木内閣成立直后、梅津君が、昨日お話したソ聯の参戦防止の話をもつて来た際にも在ソ大使はあのまゝではいかんと思ふ、 何とか外務大臣の方で考へた方がいゝぢやないかとまで言つたことがある。 しかしこの際になつて人を変へると言つてもなかなか事態が窮迫していゐるんだからむづかしい。 大使が変つて着任する迄にひまがかゝる。 一ヶ月位は時を空費すると言ふことになつて非常な損失がある。 この際甚だ更迭は好ましくないと言ふ事情がある。
次に特使の問題であるが、これは東条内閣の末頃及小磯内閣時代に持ち出したけれども成立するに至らなかつたので、 更に持出しても成立の見込はない。但し広田氏は前にロシアに居つたこともあるし、行つたら直ぐ仕事の出来る人だし前に総理もして居つた、 最近は重臣の地位にあつたと言ふ関係もあるので、 佐藤大使以上の大使と言ふことになれば広田氏を起用する外はないと言ふことになる。 それで広田氏に打明けて話をしたところが、自分は今向ふに行くことは困る。 併し日本でならば対ソ関係につき働くことは喜んでしよう。 ロシアとの関係は今のまゝではいかんと言ふことは自分もつくづく考へてゐたので、 その意見は前の内閣の時にも随分当局に話をしたことがある。 それで日本にゐてやる得ることがあるならば自分はいくらでもやるから遠慮なく言つて来て貰ひたいと言ふ訳だつた。 こう言ふ行きがゝりもあるし、ロシア問題については今までの経歴上、 あれ以上の人はないと言ふ観点から広田氏に依頼すると言ふことになつた訳です。 (大井)これは外務大臣の依頼によってアンオフイシヤルでありながら、資格めいたことを言へば、 外務大臣の何と言ふ風に言へばいゝものですか。外務大臣の顧問でもないし。
(東郷)顧問では無論ない訳です。外務大臣の代表と言ふ訳でもないんですね。 それで会談は非公式のカンバーセーシヨンと言ふ風に名前をつけたらいゝでせうな。
(大井)向うは大使であるが、こちらは外務大臣の何ですか。
(東郷)広田氏に斯う言つて置いたんです。ソ聯大使へは此の話は政府は十分承知してゐることを明かにした方がいいと、 即自分の話は政府でも十分に承知してゐるのだと言ふ諒解の下に広田氏の話合は始まつたんです。

2015年7月29日水曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(6)

(東郷)…ここで一寸廻り道をして申上げる訳なんですが、五月十一日から十四日最高指導会議があつて、 そこで決議した訳ですね。其の成行きについては総理から陛下に申上げると言ふことに約束は出来て居つた。 ところが六月十五日に私は木戸君に会つて色んな話をしてゐるうちに、 その話が陛下に伝はつてゐないと言ふことが分つた。 それから鈴木さんにあの話はまだ陛下には申上げてないのではないですか、陛下は御承知ないやうに思ひますが、 と言つたら、私もついまだ申上げなかつたと言ふことを言つて居られた訳なんです。 だから、六月二十日に参内した時に、その戦争指導会議の話合の成行と、 それから広田前総理を通じてソ聯の気持を打診しつつ和平に導くと言ふ趣旨でやつて居りますと言ふことを委しく申上げたんです。
すると陛下はそれは非常に結構だ、それでその話を促進して一般の和平が早く出来ることを希望する、 との御言葉だつた。之に引続いて、陛下は前に最高戦争会議で色んな決定もあつたが、 その後参謀総長それから長谷川大将が各地を巡察して来ての報告を聞いたところが、 支那方面及び内地に於ける準備が非常に不足して居ることが分つた。 だから戦争を早く終結せしむることがどうしても必要と思ふ。 戦争終結はなかなかむづかしいこととは思ふけれども可成速に終結することに取運ぶやう希望すると言ふ、 随分委しいお気持の話があつたんです。それで私も、戦争の終結については戦局の関係が非常に大切なことになります、 今の戦局では日本の方に甚だ不利になつて居りますから、有利な条件により終結することは甚だ困難だと思ひますが、 これを早く終結することについては、粉骨砕身死を賭して御意思に副ふやうに致しますと言ふことを申上げたことがある。 その時は随分突つ込んでお話があつたので、陛下の思召は十分に分つた訳です。
それから次に六月二十二日に陛下がお召しになつた。 陛下は政府と統帥部の首脳部を一緒にお召しになつてお言葉があつたのです。 政府と統帥部は御承知の通り日本憲法の解釈上すつかり分れてしまつてゐた。 内輪の機関とし連絡会議最高戦争指導会議があるけれども、 この間の調節を何処か上の方でするのは陛下より外にない訳です。
その間の調節をしようと思へば陛下の方で両者を一堂に会しておやりになる必要があると言ふことになる訳です。 それでこの六月二十二日のお召しはその意味に於てあつたんだと言ふことに諒解をして居つた。 法理的の見解は別として、事実上の成行はさつき言つたやうな事情がある訳です。 即ち六月中旬(十五日―編者注)に木戸君に会つていろんな話をした際、私の方から最高戦争指導会議の話をして、 突然あゝ言ふ会議を開いて非常に強いことを決議しようと企て、 而も海軍の方はいつもは戦争継続不可能とはつきりしたことを言ふに拘らず、 あゝ言ふ会議の席になるとはつきりした態度をとらない、 自分としては非常に困つた許りでなく不愉快であつたと言ふ話をして、 もう少し気持を一致せしむる必要があると言ふ話をしたことがあるんです。 さうしたら木戸の方では、 戦局が斯うなつて来ると軍部から戦争の継続は不可能だと言ふことを申出て来るのが当り前だと思ふけれども、 軍の方からさう言ふことを申出すことは到底困難だと思ふ。 陛下の方では戦争の終結を急ぐ必要があると言ふお考であるから、 時期を逸しないうちに陛下のお言葉によつて大転換をすることが適当であるやうに思ふ。 即ちソ聯に対して仲介を依頼して戦争を終結することがいゝと思ふと言ふ話があつた訳です。 自分はそこでソ聯のことについては参考戦争指導会議の構成員だけで話をして和平に行く瀬踏みをしてゐるんだと言ふことを話して、 それは総理から話があつた筈だと思ふが、と言つたところが、総理からは何も話は聞いてゐない、 陛下にもそんな話は聞いて居られないと思ふと言ふことで、 始めてさつき言つた陛下も総理から上奏してないと言ふことが分つた。 とに角木戸との間には其れ以前にも早期和平の必要につき話しをしたので六月二十二日のお召しと言ふのは木戸から申上げた結果お召しになつたのかとも思ふ。
その御召しでは陛下から、内外の情勢緊迫をつげ、戦局は甚だ困難なるものがある。 今後空襲の激化等の考へ得る際に、更に一層の困難が想像せられる、 だから先日の御前会議の決定による作戦はそのまゝとするも他方なるべく速かに戦争を終結することに一同の努力を望むと言ふ趣旨のお言葉があつた訳です。 それに対して先づ総理から、聖旨を奉戴してなるべく速かに戦局の拾収に努めることに致しますと言ふことを申上げて、 それから宮中席次の関係で並んで居つたその順序でもつて一々発言した訳です。 即米内海軍大臣は、 今までもそれについては相当研究して居りますとて五月十一日から十四日の最高戦争指導会議の構成員の会合で申合せがあつたことも申上げた。 自分はそれを受けてその時の委しい事情を申上げた訳です。 陛下にはその前二十日に奏上したのだが、又重ねて申上げた。 そしてソ聯を通ずることには相当危険もあります、尚ソ聯を通ずる場合にはソ聯の利益に合致することが必要になります。 条件その他については大きな覚悟が要ります、と言ふことを申上げた。
その後で梅津参謀総長が、和平の提唱は内外に及ぼす影響が非常に大きいから、 十分に事態を見定めた上に慎重に措置する必要があると言ふことを申上げた。 すると陛下は梅津に対して、慎重に措置する必要があると言ふことであるが、 根本的に反対であると言ふ意味ではなからう、と言ふ意味のお尋ねがあつた訳です。 梅津は、さう言ふ訳ではありません。 慎重措置する必要があると言ふだけのことですと言ふことを申上げて、 陛下はそれから入御になつた訳です。
(大井)その時に陸相、それから海軍の豊田副武大将はどうでしたか。
(東郷)豊田君は何を言つたか憶えません。
それから陸相の方もよく憶えません。どうも大して意見を述べなかつたのではないかと考へられます。
(大井)それから二十二日の今の会議ですね。
これは最高戦争指導会議構成員と言ふことで幹事を混えないでお呼びになつたと言ふ事ではなかつたのですか。
(東郷)さうとも限りませぬ。最高戦争指導会議は陛下の親臨の下に開くと言ふのが建前です。 正式ならば最高戦争会議と言ふのは御前に於て構成員及び幹事が集まつて来ると言ふことになる筈なんですね。 これが六月八日の会議です。併し普通戦争指導会議と言ふと陛下のお出にならない会議、 即ち最高戦争指導会議の構成員及び幹事が集まることに使はれてゐるんですね。 それと区別するために最高戦争指導会議の構成員のみの会合と言ふ言葉を特に使ふことがある。 陛下御視察の最高戦争会議を開催する場合には総理及両総長連名で上奏することになつて居るのですが六月二十二日には上奏した訳ではありませぬし旁最高戦争指導会議を開催せらるると言う意味ではないと考へて居りました。 しかし政府及統帥部の首脳者として人選する場合には最高戦争指導会議の構成員と言ふことを根本の基準にせられて呼ばれたと言ふことになつてゐるんだと思ひます。
(大井)陛下からはお言葉の中に、ソ聯を仲介とすると言ふことは特に何もなかつたのですか。
(東郷)陛下の方からは何も言はれません。 木戸は前に言つた通りソ聯を仲介としてと言ひましたが陛下の方はソ聯を通ずると言ふお言葉はなかつたのです。
(大井)陛下から早期和平の御希望をお述べになられたことを承りましたが、 それと同時に何か和平条件に関して陛下から御発言がありましたか。
(東郷)その時はありません。

2015年7月28日火曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(5)

(大井)四番目の方ですが…
(東郷)四番目の六月八日の御前会議ですね、これがやはり今までお話した、その時の日本の気持から出てゐる訳です。 戦況が非常に悪かつた。
併しまだ戦争は止めると言ふ気持になつてゐないものが多かつた。その時の情勢ですね、 殊に鈴木総理は其内に戦争を止めたいと言ふ気持であつたが戦争を止めるにしても国民の士気はこれを維持して置かなければならぬと言ふ気持が非常に強かつた。 だから議会を開いて、議会でもつて士気の昂揚をはかると言ふ考へ方、それについては海軍はあまり賛成はしなかつた。 併し陸軍は非常に賛成した。陸軍ではその外に、陸軍の全部かどうか分らんけれども、 本土決戦まで持つて行く機運をこゝで作らうと言ふ大きな考があつた。 だから議会を六月の九日に開くことに決定した。 ところがその前に、六月の六日ぢやなかつたかと思ふのだが、最高戦争指導会議が開かれると言ふことを突然僕のところにも通知して来た。 戦争の継続で会議を開くのか、課題も何にも知らして来なかつた。さうして行つて見ると、戦争の継続と言ふ非常に強い文句の議案が出て来た。 それで僕はびつくりした。最高戦争指導会議には幹事として、陸海軍の軍務局長、総理のところから書記官長が出てゐるので、 そちらの方は予め相談することが出来るんだが、外務省の方からは幹事は出てゐないから何にも相談に与かつてゐない。 僕は最高戦争指導会議の議場に行つてから初めて議案を見た。 さうしてびつくりした訳です。 席上右議案に対する説明として秋永綜合計画局長官が国力の検討に付報告した上に国力が非常に弱つて来たそれで生産を増強しなければならぬ。 でないと戦争の継続はむつかしい、併し生産の増強不可能にあらずと言ふ趣旨の説明があつた。 それに迫水書記官長から士気の昂揚をはかる必要がある、 国際問題についてもなるだけ日本に援助せしめることに仕向けて行く必要があると言ふことを言つた。
その意味するところはロシアのことであつた訳なんです。 それに続いて河辺次長が、その時は梅津参謀総長が旅行をしてゐなかつたので、其代理として説明した。 戦争の状況は逼迫しつつある。 併し日本の方に戦場が近くなればなる程日本に有利であるのだから戦争の前途必しも危惧を要しないと言ふ説明です。 そこで僕は今聞いたところだけでも、日本の国力は漸次減退しつつあると言ふことである。 これは事実として明かに自分達の心配してゐるところと合致する。 而も今空襲は激化して来てゐるし、生産の増強は非常にむつかしいことに思ふ。 又参謀次長は、日本に近付けば近付く程我方に有利になると言ふ説明だつたけれども、 相手は先づ日本の生産力を空襲によつて減殺し然る上に上陸しやうと企ててゐるんだから、 近くなればなる程日本に有利になると言ふことは自分には納得が出来ない。 今の陸軍の主張は、日本で十分な航空能力を持つてゐるならば実現出来るけれども、交通兵力が足りない場合に於てこの説明は納得出来ない。 尚空襲激化の今日生産の増強が出来るか、自分にはどうも納得がいかんので、日本は最早覚悟することが必要だと思はるるとの趣旨を述べた。 然るに当日特に本会議に列席した豊田軍需相は、生産の増強が出来るか出来ないかの問題に付て、なかなか生産の増強はむつかしい、 併し外の方から、例えば陸軍で斯う言ふことをしてくれるとか民間で斯う言ふ風に働いてくれるとか、 色々条件を挙げてさう言ふことをやつてくれるならば出来ない訳でもないと言ふ意見の開陳があつた。 即各種条件が完成せらるれば、生産増強せられ、生産の増強が出来るとなると戦争の継続も出来ると言ふ理窟になるんです。 それで自分はさう言ふ条件を完成することは甚だむつかいしいことである。 今軍需大臣の言つてゐるところの条件の実行は殆んど出来ないぢやないかと言つたけれども、軍需大臣の意見をとり入れた案が提出せられた。 その時海軍大臣は何も言はない。自分は斯う言ふことを書いて置くのは疑問だと言ふことまで言つたが、 総理は、此際此程度のものを決定して置くのは必要であるとのことで、あの決議案は出来上がつたと言ふ訳です。 即初めの案よりもいさゝか修正されたもので、 九月までに生産を増強することが出来れば戦争を継続すると言ふ趣旨のものであつたやうに思ふ。
条件付きでも戦争継続を決議したやうな訳ですが、総理の方では議会に臨み、国民の士気を鼓舞する為めに、 少しは強いことを決めて置く必要があると言ふ気持です。 それが八日の御前会議まで行つたんです。 僕はあゝ言ふ条件付でさう言ふことを決めて、その条件の完成は殆ど出来ないと言ふ趣旨でもつて賛成したんです。 総理あたりは議会に対する対策としてあゝ言ふものを決めて置く必要があると言ふ気持があつたと思ふ。 御前会議に於て僕は、日本の外交上の立場は窮迫してゐるので、外国より有利な援助を望むことは不可能だ、 而も戦況が斯くの如く悪くなつた時に於ては対外的の地位は日一日と不利になつて行くばかりだ、 この点を早きに及んで考へる必要があることを述べたのです。 併し御前では其れ以上の議論にならないで前の決議が通つたと言ふことになつてゐるんです。 如斯状況であつたので六月六日乃至八日の最高戦争指導会議に於ては講和の問題は討議せられるる余地がなかつた。 殊に六日の会議に於ては幹事の方から、ソ聯を日本の有利に誘導して軍用器材の獲得に努めて欲しいと言ふ注文が出た。 それで僕はさう言ふことは出来ない、 何かさう言ふ予定を基礎にして戦争を継続するの決議が出来るならば尚更自分は反対だときめつけたところが、 それを条件としてこの案は出来た訳ぢやない、それはたゞ希望です、と言ふやうなことを言つて居つた。 併し希望としても空な希望をもつて考へると間違ふ、 ソ聯の方を日本の味方に変へ得ると言ふ考へ方は全然止めなければならぬと言ふことをはつきり言つておきました。
(大井)私共御前会議に於ける外務大臣の発言大東亜大臣の発言要旨と言ふ書類が残つて居ります。 これは御前会議経過と言ふ本が内閣から出まして、その中には誰が何時どう言ふ風に発言した、 さう言ふことを書いて、その次に国力の減少と言ふ先程の秋永さんの読まれたものがあり、 ずつと書類がある中に、大東亜大臣の発言要旨と言ふものが書いてあります。 その時には前からプレペアして、予め書いたものを読まれた訳ですか。
(東郷)それはどう言ふことを書いてあるのか読まなければはつきりしたことは云へないけれども、 大体は書いたものを準備して行く訳です。 しかしそれは下局で作つた儘のものですから、自分はいつもタイプした通りそのまゝしやべることはしなかつた。 その時に応じて色んな意見を入れたり又は削除したりして陳述した。
(大井)それから世界情勢判断と言ふのが御座ゐますが、迫水書記官長が読んだと言ふのは…。
(東郷)国際問題のことを言つてゐるから、どうも書記官長余計なことをすると言つて文句を言つたことがあります。
(大井)これも今のやうに六日の時に出てゐるやうですが。
(東郷)六日に出てゐるんです。
(大井)世界情勢の判断と言ふのは、外務大臣には前に相談しなかつた訳ですか。
(東郷)相談なし。会議開催に付前以ての打合も無かつたのですから、此陳述に相談があつた筈はないでせう。 又其中にそれに何かソ聯を引きずることも不可能ぢやないと言ふ意味のことがあつたと思ふがこれも全然自分の意見に反することだ。
(大井)これは外務大臣の仰しやつてゐる発言等の中に、文書は全然違ひますから比較にならんかも知れませんが、 少し違えば違うやうなところもあるやうですが。
(東郷)迫水の説明に就ては自分は一つも承知しなかつた。
(大井)さうですか。
(東郷)幹事の仕事振については、最高戦争指導会議の前身たる連絡会議の時にさう言ふくせがついてゐる訳です。 参謀本部の二部長、軍令部の第三部長あたりが来て外務省には何等打合せなく、外交問題を説明して居つた。 それに今の最高戦争指導会議の方には、外務省幹事がゐないでせう。 幹事の方で何処かに振り当てて準備しなければならぬ。 それで外交問題は書記官長がやると言ふ気持でやつたんでせう。 併しとに角書記官長あたりに外交問題が分る訳はないから余計なこと、間違つたことを言つては困ると言つて注意したことがあるんです。
(大井)当時の文書には今後とるべき戦争指導の大綱とありまして、七生尽忠の信念を源力とし、 地の利人の和をもつてあくまで戦争を完遂し、以て国体を護持し皇土を保衛し聖戦目的の達成を期す、 と斯う書きまして、次に、速かに国土戦場態勢を強化し皇軍の主戦力を之に集中すと戦略的のことが第一項に書いてあります。 細かいことが二行ばかり書いてありまして、その次に、 世界情勢の変転機微に投じ対外諸施策特に対ソ対支施策の活溌強力なる実行を期し、以て戦争遂行を有利ならしむ、 これが第二項に書いてあります。第三項に国内態勢の整備のことが書いてあります。 国内に於ては挙国一致国土決戦に即応し得る如く国民戦争の本質に徹する諸般の態勢を整備するんだと云ふのであります。 問題は第二項でありますが、この第二項の漠然たる言葉の中に、これで講和、 ソ聯の仲介かなんか知りませんが対ソ対支政策の活溌なる実行と言ふ中に和平と言ふことも含蓄の中に入れてあると言ふやうな考はなかつたですか。
(東郷)それは幾分あるにはあるがソ聯を有利に誘導すると言ふ気持の方がずつと強い訳なんです。 併し活溌なる外交の動きと言ふのは総て一般的な動きを意味するんだと言つて居りました。
(大井)最高戦争指導会議に出ましたものは、七生尽忠の信念を源力とし、地の利人の和をもつてあくまで戦争を完遂し、 以て国体を護持し皇土を保衛すると共に将来の民族発展の根基を確保す、恰度後で陛下が八月十四日ですか、 仰つたやうな言葉見たいなものが一寸出てゐるんですが、 御前会議提出の文書には何々すると共に将来の民族発展の根基を確保す、と言ふのがなくつて、 皇土を保衛し聖戦目的の達成を期す、と言ふ風になつてゐます。 鉛筆記入が具合から出発し最高戦争指導会議で書き改めたんだと言ふ風に思われますが…。
(東郷)八月十四日の陛下の御言葉と似てゐるかも知れませんけれども、 民族発展の根基を確保す云々とあると日本が向ふに持つてゐる占領地域を確認するんだと言ふやうな意味にもなるからこれでは困ると云つて、それは削除することになつたと思ふのですね。 地の利とか何とか言ふのは、陸軍の、さつき言つた近づけば戦争が有利になると言ふ考え方、 人の和と言ふのは士気の昂揚と言ふことですね。 議会によつて士気を昂揚すると言ふ意味から来たんでせうな。
(大井)迫水の手記に、国体を護持し国土を防衛することが出来ればこの戦争はそれで目的を達成したんだから、 そこで終つてもいゝんだと言ふ諒解があつたものである。 斯う言ふ風に手記の中に書いてあります。 朝日新聞でしたかに…。
(東郷)此決議案は主として迫水、秋永二人で作つたものではないかと思ふのです。 迫水あたりの気持はさうだつたかも知れない。 又今言つた後の方の文句を削つて日本が占領地域を自分のものにすると言ふ誤解を除去することにしたので戦争目的も大分緩和されたものになつて来ると言ふ気持はあつたんです。
(原)この書類は迫水書記官長が中心になつて起案したものと私は判断してゐるんですが、 この戦争指導の遂行に対しては鈴木首相は本当にそのつもりで真剣なつもりでお書きになつた。 決められたと斯う言ふ風に考へるのですが。
(東郷)鈴木総理の其時の気持は、議会を開くのだ、議会で士気を昂揚しなければいかん、 戦争を止めるにしても士気を落しては駄目だと言ふことが中心であつた。 だからこれはあの人が必しも実行が出来ると言ふのでなく一応斯う決めて置いた方が和平をやるにも都合がいいと言ふ気持です。 私が反対した時に、これ位決めて置くのは議会の関係もあるしいいぢやないかとの意味を述べられたことから、 私はあの人の気持はその辺にあつたやうに解釈します。
(原)主として陸軍ですが、継続派、強硬派の圧力に圧されて、 首相は不承知ながらもこれを決めたものではないかと云ふ考へ方もあるのですが、如何ですか。
(東郷)さうでもないと思ふ。陸軍の本土決戦派と言ふものがあつて、相当その中にも、 地の利なんて言ふのはその意味で書いたものだと思ふのですが、 それはなかなか容易なことではないと言ふ考は総理も米内海軍大臣も持つて居たと思ふ。 しかし総理は、あの頃はまだ暫くは戦争を継続し得るとの考へがあり、又一方には士気を鼓舞する為めの対議会策を考へて居たので、ああ云ふ態度をとられたものと思ふ。
(原)問題は御前会議の決定なんでありまして、いやしくも陛下の前で国策の大綱を決められた訳なんですが、 それが単に議会のための対策として斯う言ふ強いことを決めたと言ふことになりますと、 一寸斯う本末顛倒の感じがするので…。
(東郷)私はその点でその時反対したが、それから後木戸君にも話したことがある。 突然あの決議案が出て非常に困ったことを話した。 又六月二十二日陛下がお召しになると云ふ時にも御前会議の決定はあのまゝでは具合が悪いと思ふと言つたことがあります。
併しあれはあれで良いぢやないかと言ふのが木戸君を加へた一般の気持であつた。 あなたの言ふ通りそこに矛盾があることは百も承知して、 色んなことも言つて見たけれどもあれで良いぢやないかと言ふ一般の気持だつたです。
そこにあまり便宜的なものがあつたと言ふことは言へませう。
 (後略)

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(4)

(大井)それから第三は、昭和二十年五月十一、十二及十四日最高戦争指導会議構成員のみをもつて会議が開かれましたが、 その会議開催に至る経緯を説明して下さい。又その会議に於て審議されたこと及決定されたことを述べて下さい、 と言ふのですが、 その当時の書き物は或は外務大臣の起草されたものぢやないかと思はれるものがありましたので持つては居りますが。
(東郷)それは何処から手に入りましたか。
(大井)これは本当のものかどうか…。本当のものだらうと思ひますが、 外務省に持つて行つて見て貰ひましたがやはりよく分らないのです。 外務省からではなく軍令部から出て来たものです。 軍令部の書類の中にあつたのですが、その事情は恐らく斯うぢやないかと思ひます。 つまり及川大将が持つて居つたが、それが豊田大将に引継がれなかつた、 それでも一度外務省から豊田大将に外務大臣としてお渡しに成つたものと思ひますが、その辺はつきり分りません。
(東郷)一寸面白い問題だからお話しませう。 五月十一、十二と十四日に最高戦争指導会議の構成員丈けの会議を開くことになつたと言ふことが意味があることです。 その理由と言ふのは、私は以前戦争が始まる頃の連絡会議に出て居つたんです。 ところが連絡会議に於ては幹事の方で皆議案を準備して来る。 さうしてそこに来て説明するものは幹事なんです。 殊に外務省の方は僕がやつたことがあるけれども従て又討論の相当部分が幹事によつて行はれ、 その間に本当の構成員たるメンバーが議論をすると言ふ訳なんです。 それで話は構成員丈けの話とはならん訳です。 これは都合の良い時もあるけれども、不都合なことが多かつた。 殊に人が沢山になると、戦争と言ふことが中心になつてゐる問題が多いのだから、 強い方に話が傾くのは当然である。 又そこに出て居る幹事により会議の状況は全部下にも伝はる、さうすると部下を統御する関係上あまり弱いことは言へない。 個人的に話をして見るとさうでもない意見の人が、その場に出ると非常に強い意見を言ふと言ふ傾きがある。 それで本当に話を進めて行くには幹事を入れてはとても駄目だと言ふのが、その時得た私の感じだつた。 それで今度の会議は構成員だけと言ふことに私が仕組んだ訳です。 恰もその時は、戦争はもう沖縄の方も殆ど駄目だと言ふ訳で、 全般の大勢が非常に悪化してゐると言ふ時であつた。 陸軍の方からは私の所に参謀総長梅津大将が来、河辺次長も二度ばかり来て、 ソ聯が参戦しないやうに外交で処理して貰ひたいと言ふ話を持ち込んで来た。 その時の日本の国際情勢は全面的に悪化して、手のつけ様もない状態だつた。 それで僕は陸軍の両君に対してそれはむつかしい注文だ、戦時の外交は軍事情勢の推移によつて決つて行く訳だから、 もう少し日本が戦争に勝つやうにならなければ外交も何にも出来はしない。 それ所かソ聯に対しては手遅れであるから、既に米英との間に分前の分配まで相談してゐることも予想しなければならぬ。 それで戦争の方を勉強して欲しいと言ふことを言つた訳です。 海軍の方はそれ以上に不思議な訳で、ソ聯を日本の方に有利に誘導して欲しいといふ注文だつた。 それはソ聯の参戦防止だけでなく、ソ聯から日本に石油などを取り得るやうにして欲しいと言ふ。 これは軍令部の小沢次長其他が見えて「ソ」聯の石油、飛行機が欲しい其代り日本から巡洋艦をやつてもいいと言ふ。 これに対し自分は以ての外のことだと話した。 さう言ふものを供給するのは中立違反であるから、 ソ聯は日本の味方となつて戦ふ覚悟をする覚悟がなければ出来ないことだ、 戦局から見てもソ聯が日本の味方になつて戦ふ覚悟をすることは全然考へられないと僕は話したことがある。 併し向ふでは頻りに希望するので、それでは皆と一緒に話をする事にしようさうするには、先程も言つた通り、 幹事を入れては本当の話は出来ないから幹事をいれないで構成員丈けで話をしようぢやないかと言ふことを先づ梅津に話した訳です。 それは梅津も非常に賛成した。それで梅津に、阿南陸軍大臣に君の方から話をして呉れ、 総理と海軍大臣には僕が話すからと言つて手分けをして話した。 その話が纏まつて構成員だけの会議が開けることになつて、これがしまいまで非常に役に立つた。 第一はあの構成員の会議は終戦迄ずつと続けて居つたが、 この会議に於て忌憚のない話をして全般的に意見の一致を見ることが多かつた。 即ち戦争の終結と言ふことについての大体の気持は此会合で作ることが出来た。 第二は、ここでの話は下に洩れなかつた。洩れて居つたならばその間に非常な反対が起つて、 結局終戦の話はそのうちにこはれてしまつたかも知れない。 その危険を除去したと言ふ点に於てもこの組織は非常に役に立つた訳です。 その点で鈴木総理もそれから迫水君も頻りに此組織の有効であつたことを言つて居つたので、 迫水の手記かなんかにも出てゐるんぢやないでせうか。
(大井)この効果と言ふ風にはつきり分解したやうな書き方はして居りませんが、 これは色んな人が、その構成員のみをもつてする会議、と言ふ風に重視して取扱つてゐるやうに感じます。
(東郷)さう言ふ訳です。それからそれについて恰度その頃に、五月十四日頃でしたか、 これは一寸今誰だかはつきり思ひ出せないけれども及川君ぢやないかと思ひますが、 はつきり思ひ出せないので誰だつたと言ふことは止めて置きませうが、 軍部の一人から斯う和平の問題を議論すると言ふことが洩れては、下の者がだまつてはゐないと思ふ。 それでこの話は次長にも次官にも話さないことにしようぢやないかと言ふことを言ひ出した。 僕はそれは誠に結構だと早速賛成して、下に洩さないと言ふ約束をした。 それで和平の問題は外務省に於ても六月の末までは何人にも殆ど知らしてなかつたのです。 陸海軍でもさうだつたと見えて、 迫水君は軍務局長あたりから頻りに何か相談してゐるだらうと言ふことを言はれて困つたと言ふ話をして居たことがあります。 又私のところにも陸海軍の軍務局長は態々それを探りに来たことがあるんです。 併しその約束に従つて何にも言はなかつた。 兎に角これが役に立つことが分つた。 尚此会議を開くもう一つの私の本旨は、陸軍の方ではソ聯の参戦防止、 海軍の方ではソ聯の引入れを希望してゐるところから一般の和平機運の醸成と言ふことに導いて行きたかつたのである。 元来私の見るところでは、とても戦争は長くやつて行けない。 これは私が入閣する時に鈴木大将に対して入閣の条件にした訳なんだ。 この点は私の供述書に書いてあるから委しく話す必要もないが、鈴木大将は、まだ二、三年位戦争はやれるだらうと言ふので私は、 そんなに長く続ける訳には行きません。急速に和平をやらなければいかん、 本当に早くやると言ふ総理の気持がなければ入閣しても仕方がないことを述べたが、結局自分の意見に賛成すると言ふ諒解をとつて入閣した。 其様な訳で、自分は速に戦争を止めると言ふ考であつた訳で、 そのためには構成員だけの会議を開いて逐次和平の気持に持つて行く必要があると考へたのです。 若し和平の気持を政府及び統帥部の首脳部が十分持たず、 即十分その頭が練れないうちに突然和平の話に持つて行くと言ふことでは成立もむつかしい。 その事を尠くとも首脳部に於て十分に納得してからでないと結局は非常な騒ぎが起る。結局日本全体が騒ぎの渦巻の中にはいることになるので、 講和全般の成立を阻害することとならんとも限らない。それで全般的の話合、 全般的の気持を醸成して来ることが極めて必要だと言ふ根本的の考からこの構成員だけの会議を開いたと言ふ事情なんです。
この会議に於ては、さう言ふ成行きからもよく分るでせうが、先づ起つて来たのはソ聯に対する問題であつた。 陸軍で言ふソ聯の参戦防止、海軍の方のソ聯をして日本に好意的態度を持たしめるやう誘致する、 それに私の考へてゐる全部的和平と言ふ問題がこゝに持ち出された訳なんです。 その初めの日の話は、ソ聯はどの程度に於て利用し得るかと言ふ問題が討議の中心になつた訳です。 私は、ソ聯は軍事的経済的に利用し得る余地はないのだ、ソ聯を利用しようと思ふならば、 前から私はそのことは政府部内の人にも言つて居つたのだが、米英ソ三首脳者が会談しない前でなければ駄目だ、 あの三人が会つた後では日本がソ聯を利用すると言ふことは出来ない。 日本とソ聯との関係を全部的に調整することも、又ソ聯とドイツとの和平促進も三巨頭が会はない前にやらなければいけなかつたのである、 併しさう言ふ考が実行せられないで、カイロ宣言、テヘラン会談と言ふことになつた。 尚又ヤルータ会談も終了した。今頃になつてソ聯の重要軍事資材を利用するとか、好意ある態度に誘致すると言ふことは出来なくなつた。 既に手遅れだと言つたところが、米内海軍大臣は手遅れではないと思ふと言ふ。 少し余談になるけれども私は米内君とは鈴木内閣にはいつて以来話が合つて、一緒に仕事をして来た訳なんだが、 此時たゞ一ぺnだけ激論をした。即米内大将はソ聯に対しては手遅れぢやないと言ふのに対し、 それはソ聯の実状を知らんからさう言ふことを考へるのだと言つたところが、前に外務大臣をして居つた君等の先輩でも、 ソ聯は今からでも手をつけ得ると言ふことを言つてゐるんだと言ふ。
その名前も聞いたけれども、名前はこゝでは止めて置きませう。自分はそれはソ聯を知らないのだ、 ソ聯を日本の有利に誘致すると言ふこと結局飛行機を貰ふとか石油を貰ふとか言ふことは全く考へる余地はないと言つて私は強く反対した。 併し総理は向ふの気持をそれとなく探つて見ていけなければそれでも良い、探る位のことは良いぢやないですかと言ふ。 それでさう言ふ意味合のことを加へて置くならば差支ないだらうと言ふことになり結局に於て決つたのは、 第一がソ聯を参戦せしめないこと、これは誰しも必要を感じてゐたことです。 第二が好意的態度に誘致すること、第三に、ソ聯を通じて和平を導くと言ふ三つの目的をもつてソ聯と交渉すると言ふことであつた。 私はその時主張したんだが、ソ聯は日本との戦争を始終心配してゐるから、 今の状態に於て日本に対して好意をもつてゐると言ふことはあり得ないのだ。 日本が弱くなつてゐるんだから、日本と一緒に仕事をして何か利益を得ようと言ふよりは、 英米と一緒になつて利益を得ようとする気持の方が強くなつてゐると思ふ。 従てソ聯に対しては参戦防止、好意ある態度への誘導にしても仲介にしても、相当の代償を払はなければ成功しない□合であると述べたが、 これは皆も納得したんです。そこで代償はどう言ふものが適当であらうかと言ふ問題に話がなつて、 十五日までの間にその話が大体決つたんです。あなたの言つてゐるのはこのことでせう。
(大井)代償のことは何カ条かに書いてありますか。
(東郷)私の方で立案したものに、少し附け加つたところがあるけれども、その決定せられたものを書類にした。 その時の出席者即総理、陸海軍大臣、両総長と私とでサインして書類は私の所、外務大臣の官邸に置いた。 ところが外務大臣の官邸は五月三十日(二十五日)の空襲で焼けてしまつた。 その書類も焼けてしまつたので、更に同一内容の書類を作成し、総理にだけ斯う言ふ訳だからと話し、総理だけのサインを貰つて、 自分が其成行を記載してサインして置いた次第なんです。 それでその決議したソ聯に対する代償の大体の趣旨は、南満洲以外は日露戦争前の状態に返すこととする。 言ひかえて見ると、ポーツマス条約及びこれによる漁業権は解消しなければならぬ。 北満洲にも向ふは非常な希望をもつてゐるから必ず要求するだらうと思ふ。 併し南満州をどちらかの勢力範囲とすることは又々葛藤が起る原因になると考へて居たから之は緩衝国にすると言ふ大体の考です。
(大井)これは十五日に、十一、十二、十四日だけでなく十五日も会つて居つた訳ですか。
(東郷)この会議は終戦迄ずつと続けてやつて居つた。
(大井)先程の書類は会議の劈頭に出したものでなくつて、会議の後に作られたのですか。
(東郷)その話はそこまで動いて、その結論を書き物にした。
(大井)決定したものをですか。
(東郷)決定したのです。
(大井)次のことを決定したと斯う書いてありますがその時書いた日付がハツキリしません。 書き物はあまりコンプリートぢやない関係かも知れませんが。
(東郷)決定したと言ふことは、本当にテキストには出てゐない筈ですが、それは及川さんが書き入れたんでせう。
(大井)昭和二十年五月十一、十二及十四日に亘る最高戦争指導会議構成員のみをもつてせる会議に於て意見一致せるところ左の如し、 左記として。
(東郷)書き出しはさうなつてゐたやうに思ひますね。
(大井)十四日の会合が終つて書いたのですか。
(東郷)さう、十四日の会合が終えて書いたんです。
(大井)或る人の話によりますと、 斯う言ふソ聯を使ふと言ふことの会議の発端の頃に当時沖縄の戦闘が行はれて居つた訳ですがこの沖縄の戦闘に対してソヴエートの態度が割合に好意的である。 例へば今までレイテとかその他の会戦に於て日本の戦況をあまり有利に報道し居らなかつたタス通信あたりが、 沖縄の戦闘に関する限り何だか日本側に有利なやうな報道をするやうになつた。 さう言ふことでソ聯を使ふと言ふことに対して脈があると言ふやうな感じがした、 斯う言ふ陳述も私の方にして呉れた人があるんですが。
(東郷)沖縄の戦争でソ聯のタスあたりが日本に有利なことを書いたと言ふことは聞いたことがあります。 併しそんな枝葉のことが原因になつて決つた訳ではないので、大きなところは陸海軍の方でソ聯の参戦と防止する、 誘導してくれと言ふ気持が本になつた訳です。
(大井)それから或る書き物、調査によりますと陸軍大臣がドイツの屈服と言ふことに刺激されてこの会議を、 この会議かどうか知りませんが、何か国策の大転換に対する会議見たいなものを提唱したと言ふように書いてありますが、それについては…
(東郷)それもうそだ、陸軍大臣が此構成員丈けの会議を提唱したことはない。 陸軍大臣は無論賛成はしたが、陸軍大臣が持ち出してこの会議が始まつたと言ふ訳ぢやない。
(大井)延いてはソ聯を仲介として一般的和平に導くと言ふ今の外務大臣案ですが、 あれに対して皆さんの意見はどう言ふ風でしたか。
(東郷)その時問題は進んで一般の和平第三に移つた訳です。ところが和平と言ふことには全員不賛成はない訳なんで、 結局条件をどうするかと言ふことに問題はなる訳なんだ。 この条件と言ふ問題になると陸軍では阿南君が強く言つて居つたが、日本は決して負けてはゐないのだ、 まだ敵の領土をうんと占領してゐるんだ、この負けてはゐないと言ふことを基礎にして考へなければいかんと言ふ訳なんです。 それで僕は、今猶広大なる領土を占領されて居るのは、沖縄だけと言つてもいい位なんだが、 今後に於ける戦局の推移如何が問題なんだ。 それで今とに角敵の領土を占領して、日本の領土を占領されてゐないと言ふことのみで、 和平条件を決定することはとても出来るものではないと言ふことを主張したけれども、形勢はなかなか険悪になつて来た。 そこで海軍大臣は、この第三の実行については当分伏せることにしませうと言ふことを突如として言ひ出した。 僕はもう少し話合を進めて置かなければ後になつて困るんぢやないかと思つたけれども、 総理も今そこまで決定しなくても、先づソ聯の気持を探りつつ話合を進めて行くことにしようと言ふ訳なんです。
さう言ふことで第三項の実施は後れた訳です。

2015年7月27日月曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(3)

…鈴木内閣が出来た時には私は軽井沢に居つた。ところが鈴木さんが東京に来て呉れと言ふので、出て来て会つたところが、 自分に外務大臣になつて欲しいと言ふことであつた。それで鈴木さんに、非常に戦局の悪化したので戦争を早く終結する事が必要だと思ふが、 戦争の見透しについてどう思つて居られるか、その見通しを聞かなければ私は外務大臣になるかどうか御返事出来兼ねると言つた。
ところが鈴木さんは、戦局は悪いが、二三年は大丈夫だと思ふと言ふ。 私はもう今のこの状況からして二三年保つと言ふことは不可能である。 速かに局面の収拾をやるのでなければいけないと考へる。 あなたがまだ二三年は戦争がやれると言ふのは私の考と非常な差がある。 私が入閣しても、此見透しに付いて意見が一致しなければ私の気持とあなたの気持との間にしつくりしないとことが出来るので 一緒に仕事をやるのも不可能ぢやないかと言ふことを主にして随分長く話した訳です。 その点にあまりこだわらないではいつて欲しいと言ふ色んな話があつたが、これが根本問題だからもう少しあなたも考へて貰ひたいと言つた。 私の方にも考へてくれと言ふことで、お互に考へようと言ふことでその晩遅く別れた。 さうして翌日岡田元総理、それから外務省の私の先輩として松平宮内大臣、 広田元総理に鈴木総理との会談について評価を語つたが何れも此際他に適任者が見当たらないから是非やつてくれと言ふ。 しかし自分としては総理の方の気持が決まらなければはいつても仕方ないと言つて置いた ところが、そのうちに迫水君が来た。是非はいつてくれと言ふ、あなたがはいつてくれなければ鈴木内閣は非常に困るんだと言ふ。 それで私は斯う斯う言ふ訳でその点について総理の気持がはつきりしなければ仕方がないと言つて帰したことがある。 その頃松平君が来て是非入閣して欲しいと言ふ。それで今言つたやうな話をしたところが松平君が言ふのには、 自分の推測では、総理の気持もさうはつきり決つてゐるとは思はん、 それでその点についてはあなたが入閣してから啓発して貰ふことが適当だ、 殊に終戦の問題について陛下も非常に考慮して居らるる模様である。 だからその点についてはあなたの心配は要らんと思ふ。 この局面を背負つて立つのはあなたより外ないからと言ふので是非入閣してくれと言ふ話があつた。 それが和平に関する陛下の御思召しを知つた第一です。 昨日の話のうちに東京裁判の話が出たから、昨夕一寸私のところに私の関係する裁判の書類があつたので見たところが、 その点は松平康昌君が私に対する口供書の中に相当委しく出てゐるんです。 あなたも見られたと思ひますが、それから迫水君の方の分も鈴木内閣の入閣の事情、 それからはいつてからのことも迫水君の方の口供書に出てゐるやうですね。
そんなものを一つ参考にして貰つたら私の方で委しくお話する必要もないと思ひます。 それから迫水君がもう一度鈴木総理にあつてくれと言ふので会った。 その時に、鈴木さんはあなたの言つた考えでやつて貰へばいゝ、と言つて僕の話をすつかり受入れたので、 僕は入閣した訳です。その後四月の末にドイツが潰れた。
その直後に陛下にお目にかゝつて、ドイツがどうして崩壊したかと言ふ事情について委しく申上げたことがある。 それに引続いて陛下から色んなお尋ねがあつた。 それに関聯してドイツの崩壊したのも空襲が主なる原因になつてゐますが日本に於ても空襲がだんだん劇しくなつて来てゐる、 生産が非常に減退して来た、この事態からしますと戦争の継続は殆んど不可能と思ひます。 従つて日本の今後の方策は此点に重きを置いて考へる必要があると思ひますと申し上げた訳です。 陛下は、戦争は早く済むといゝねと言ふお言葉があつた。 その時はたゞそのはづみで今のやうな話になつた訳で、私も閣内で相談した上で申上げると言ふところまで行つてゐないし、 陛下も単に御気持をお洩らしになつたと言ふ位のところになる訳ですが、 とに角さう言ふことがあつて、陛下の方は早期和平と言ふことを希望して居られると言ふことはそれで察しられた。

巡礼(15):青山霊園 2015年7月27日

2015/7/27
2015/7/27
2015/7/27
2015/7/27
2015/7/27
2015/7/27
2015/7/27
2015/7/27
2015/7/27
2015/7/27

2015年7月26日日曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(2)

(東郷)第二の質問は、カイロ宣言は日本の講和努力に対して障害になりましたか、なつたとすればどんな風にですか。 これは障害になつたと言つてもちつとも差支へありません。 何故かならばカイロ宣言の中には日本は領土の一部を返還すると言ふ規定があるもう一つは、 日本の無条件降伏と言ふことがある。 それは当時の気持として日本が無条件降伏をするなんて言ふことはとても考へられない。 それで少くともその頃に於てあゝ言ふ宣言が出たと言ふことは 日本が和平しようと言つても出来ない方向に持つて行つたものである。 殊に領土の問題については日清戦争を日本の侵略だと言ふ建前から観てゐる。 日清戦争は、これはあなた方も御承知だらうと思ふが支那の方から朝鮮に向つて出兵して、 日本も条約の命ずるところによつて出兵した、そこに衝突が起つた。 結局支那が朝鮮を自分の保護国乃至属国にしようと言ふから日本はあの戦争を自衛上始めたと言ふ訳なんです。 これはその頃に於てはつきり世界的に認められた事実なんです。 併しカイロ宣言に於てはその歴史的事実を変更して日清戦争は日本の侵略戦争なりと言ふ建前で取扱つてゐる。 日本の国民感情から言へばさう言ふ解釈は許されぬ。 従つて平和の努力には非常な障害になつた。 この問題は大西洋憲章とも関係のある問題である。 大西洋憲章の方から言ふならば何れの国も戦争により領土を拡大しないと言ふ条項があつたと思ふ。 この領土の拡大を企述しないと言ふことからして日清戦争を日本の侵略戦争なりとし、 日本が略奪したんだから還さなければならぬと言ふことに無理にくつつけたものだとも思ふが、 兎に角大西洋憲章と抵触してゐる嫌ひがある。 更に日本の国民感情から言へば今言つたやうな訳ですから、平和の努力に対しては大きな障害になつたと言ひ得る訳です。 併しこのカイロ宣言は私が外務大臣を辞めた後のことだから、 これについてその時の政府の考はこゝで私が言ふべき地位ぢやないですからこれだけに止めて置きませう。
(大井)これは後でポツダム宣言の中に織り込まれた…。
(東郷)それを思つて長くしやべつた訳です。その時言ふべきことを今言つてしまつた訳です。
(大井)ポツダム宣言の時にはこのカイロ宣言があつたからと言つても、 外相としてはそのカイロ宣言はあまり邪魔には感じられなかつたですか。
(東郷)私は邪魔に感じたんですよ。あの時はカイロ宣言なるものが相当理論的に徹底しない。 国民感情から言へば納得出来ないし、又歴史的事実に反すると言ふ気持で私はその時も考へた。 併しこれに対する処置は、そんな感じばかりではいけませんから、又外の考へ方に由つて処置した。

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(1)

昭和二十四年五月十七日
 太平洋戦争終結の史実に関する元外務大臣東郷氏の陳述第1回

陳述者 東郷茂徳(1941.10.17より1942.9.1まで、1945.4.9より1945.8.17まで外務大臣)
聴取者 山崎東助、大井 篤、原 四郎(FEC, GHQ, G2, 歴史科)
速記者 野田一郎
陳述期日、場所 1949年5月17日、東京巣鴨拘禁所

 (前略)
(東郷)それでは第一問の東条内閣時代に一般的講和の努力がありましたか、 あつたとすればそれはどんなものでありましたかと言ふ質問ですが東条内閣時代と言つても戦争が始まつて直ぐ、 戦争勃発の直後と言ふことになると、その時はあなた方も御承知の通り日本では緒戦に勝つたと言ふことで、 非常に勝利に酔つて居つた。又当局では戦争は長びくとの見透しであり、 軍の方では、この戦争は和平によつて解決するのではなく、こちらが何時までも持久戦でいつて、 向ふが弱るのを待つより外ないと言ふ考へ方が強く、 この戦争は十五年も二十年も続くと言ふことがその頃言はれて居つた。 その一例として一寸思ひ出したのは、一九四二年の一月末だったと思ひますが、 衆議院の予算総会で、先頃国務相をしてゐた植原悦二郎君が外交質問をしたことがある。 それは外のこともあつたけれども、 この戦争は何れ講和しなければならないがそれについて外務大臣は考慮せられてゐるだらうかと言ふ質問だつたんです。
だから私は、無論戦争は平和に持ち来すと言ふことが必要である、 だからそれについては十分の準備と覚悟を持つてゐると言つたところが、 議員の方から非常な抗議が出た。敵を壊滅するのが戦争の目的だ。 然るに外務大臣が講和の用意があると云つたのは失言だ。取消したらよかろうと言ふ訳です。 私は当り前のことを言つたんだから取消す必要はないと頑張つたところが閣内でも、 議員の言ふのは尤もだ、 今の勢で行くならばワシントンまで占領することも出来るかも知れないと言ふやうなことまで言つてゐるものがあつた。 今から見ると丸で滑稽な話しですが、当時は左様な世相であつた。 だから総理も何とか穏かに話をつけるのが良いだらうと僕に言ふ。 僕は取消す必要はちつとも認めないのだがたゞその頃よく使つて居た方法で速記録に載せないと言ふことがある。 僕は速記録に載せるためにしゃべつてゐるのではなく議員に諒解せしむるためにしゃべつてゐるのであるから、 速記録に載せると言ふことの必要は認めない。 それで速記録に載せないと言ふことを僕が承諾すると言ふことでもつて話を纏めたことがある。 議会でも当時はさう言ふ勢だ。
(大井)議会では全部の議論がさうだつたと言ふのではないと思ひますが…。
(東郷)その時のことは今から名前を言ふ必要もないと思ふ。議員の方からさう言ふ要求が出て、 これに、大勢の人が賛成したと言ふことに承知されたいのです。 さう言ふ時代であつたから、一般的講和の努力をすると言ふことはとても出来る時代ではないと言ふことを言ひたいのです。 だから私としては先づ個別的に講和の機運を作り、 然る後に一般講和に導くと言ふことがその際としては最もとるべき方法だと考へ、 それについては相当尽力した訳です。 併しそれも講和の具体的提議とか言ふやうなことは無論その時の情勢から見てあるべき筈はない。 即講和に対する準備と言ふ気持ちで動いて居た。 その一つとして、これは私の口供書に書いてゐるのだが、ソ連に対してスメターニンと言ふ大使が帰る時に、 モロトフの言づけをして呉れと言つたことがあるんです。 それは一九四二年の春ですけれども、世界の大国中、日本とソ連とだけが戦争をしない関係にある、 即ち恰かも夕立の中に日光の射してゐるやうな場所だ。 世界の平和はこの地点からこれを拡げて行くと言ふのが自分の希望だ、だからソ連もその気持でもつてやつて欲しい、 と言ふことをモロトフに言づけをしてやつたことがある。 これが一つの私の全般的和平に導くと言ふ気持の現はれです。 次には支那問題が太平洋戦争の起因であると言ふことは明かな訳だから、 先づ支那問題を解決する。日本と支那との間の和平が出来るならば、戦争の終幕も促進せらゝと言ふ考で、 一九四二年の五月末だつたと思ひますが、連絡会議にその話を持ち出して、 支那問題をこの際速に解決すると言ふことにしようぢやないかと言ふことを提案した。 支那問題解決促進の趣旨に就ては列席者一同の同意を得た訳ですが 具体的にどうして実行に移すべきかと言ふ問題になつたところが、 なかなか議論が紛糾して来た。或る一部では、日本は今戦争に勝つて今重慶は殆んど困憊してゐるのだから此勢に乗じ、 国民政府を撃滅する方が東洋平和のためにいいと主張した。 併し私は徹底的にこれを撃滅することは不可能であるから、やつつけるよりは、 寧ろ今の日本の有利な状態に於て話をつけることが得策であると言ふことを言つて議論を交えた訳ですが、 結局は軍に於て、今の支那との戦争行為をどう言ふ風に持つて行けばいいか、 又これを終結するにはどう言ふ風にするか今少しく研究したいと言ふことで、 参謀本部の方でこれを研究することになつた訳です。
その後参謀本部の方で研究しつつあると言ふことは当時の岡本第二部長から私にも度々話がありましたが、 其の話によるとなかなか軍の方の研究はむつかしくつて一向結論が出ないで困つて居るとのことであつた。 さうしてゐるうちに例の大東亜省云々の問題が発生して、同年九月私は辞めることになつた。
それで支那問題の方も私の考を達成するところまでいかないでそのまゝになつて私は辞めたと言ふ訳です。 それからソ聯との関係に於ては 先づソ聯とドイツとの間の和平を促進し逐次全般的和平に誘導することが適当であると言ふ考で、これを連絡会議に 持ち出して大体の筋道に於ては賛成を得た訳なんです。 一九四二年七月クイブイシエフに居つた佐藤大使に、 何時でも独ソ間の和平の問題を持ち出し得る地盤を準備して置くやうにと言ふことを訓令したことがある。 ところがこれも話合を開始する所まで行かないうちに私は九月一日に外務大臣を辞めたので、 私のその時の考案は実行せらるるに至らなかつた。 一般的和平の為めの具体的の動きがあつたのはずつと後になつて鈴木内閣が成立してからのことですよ。 第一問は大体そんなところです。
(大井)法廷の記事によりますと一九四二年七月に、陛下から何かお話があつたが、 その前に同年二月にも総理と内府に対し陛下が申されたのはあなたに伝へられなかつたと言ふことが載つてゐるやうでありますが。 (東郷)それは東条内閣の時、一九四二年の二月のことです。
(大井)その七月の陛下が仰しやつたことは、 ソ聯関係を独ソ和平に逐次全面的に誘導すると言ふことについて佐藤大使に訓令したことと関係ありませんか。
(東郷)関係ありません。陛下の方の話は鈴木内閣の時です。 このことは後の方に項目があるやうですからその時話します。
(原)シンガポールが陥ちた時に、 イギリスから和平提案があつたと言ふことを中野正剛の輩下の三田村と言ふ人が大々的に新聞に出しましたが…
(東郷)全然ないことです。少し立入ることになるけれども、斯く言ふことがあります。 戦争勃発后イギリス大使クレーギーが帰国する時加瀬秘書官を使ひにやつたことがある。 クレーギーとは日米交渉に付話をしたことがある私はイギリスをあの交渉に参加せしむるを適当と考へ同大使に対し、 イギリスは極東に大きな権益をもつてゐるのだから、此交渉に参加したほうがよからうと二三度話したことがあります。
クレーギーもそれに賛成して本国政府に電報を出した。 ところが本国から、日米交渉に於ける支那問題その他の問題は現在アメリカ側の交渉に一任してあるから、 それでイギリス政府としてはその話の成行を待つてゐるので、その間自分達は干与しない方針だと言つて、 叱られて来たと言ふことがあつたんです。 それでクレーギーに対しては折角お互に交渉成立を図つたけれどもとうとう成立しなくて、 戦争になつたのは甚だ遺憾である。戦争になつた今日に於ては戦ふより外ないが、 一方戦争が勝算なきに至つた場合には速に之を止めることがお互双方のために良いことだから、 此の点はよく含んで置いて欲しい。 或はあなたが適当だと思ふならば帰つてから政府にも話して欲しいと言ふことを加瀬を通して伝言した。 さうしたらクレーギーはアメリカ側のハルノートは自分は戦争になつてから初めて読んだ。 ああ言ふものなら日本側がこれを拒絶したのは当然のことと自分は思ふと同時に戦争を止めることについては、 今これを止めると言ふことになるとイギリスが不利の状況にある今日、 和を講じたらよからうと進言するやうなことになるから、自分は帰国してからも政府に言ひ兼ねる、 併し日本の外務大臣の厚意には自分は感謝すると言ふ挨拶があつたと言ふので、加瀬から報告があつた。 だからイギリスの方でその時和平の話を持ち出すと言ふことはとてもあり得ることぢやない訳です。 当時イギリスからさう言ふ話があつたらうと予想するのは忍耐強いイギリス人をあまり軽蔑するものだと言つても差支へない位です。又さう言ふことは実際に於て私の方に通じて来たこともなかつた。 その三田村の話と言ふのは、中野が話したとか、鳩山から話が出たとかに違ひない、 私もずつと後になつて其の話を聞いたことがあります。 併し鳩山中野がそんなことを知り得る筈はない。 私の所にも中野は時々来たことがあります。が、その時もそんな話が出たことはない。それは間違です。
(原)日本の常識になつてゐるのですが…
(東郷)さう言ふことは理論的に言つてもあり得る訳のものではない。
 (後略)

2015年7月25日土曜日

極東国際軍事裁判速記録第334号 昭和22年12月15日(1)

(…)
○裁判長 ブレークニー少佐
○ブレークニー弁護人 東郷茂徳の弁護を始めます。 法廷の便宜の為我々は出来得る限り証拠を小数の項目に分けて提出します。 即ち、独逸関係、露西亜関係、英米関係及太平洋戦争、戦時外交、及終戦であります。
 但し証人は往々各般の事項に亙つて証言するので右の分類は不完全であります。 右各項に就て証拠は主として次の諸事実を明らかにしやうとするものであります。
 日独関係に就ては東郷氏の態度は常に日独関係が日本と他の諸国特に米、英、 露の諸国との関係を悪化せしむる如きものであつてはならぬと言ふことでありました。 防共協定に就ては当初より之に同情を有せず之を弱化することに努力しました。 三国同盟には強く反対を続け、其結果終に駐独大使の地位を追はれたのであります。 東郷氏はナチス時代のカサンドラであつたのであります。
 蘇連邦に就ては東郷氏は終始友好関係維持を以て最も重要なりと為しました。 東郷氏は其の経歴を通じ其の夙に立案し其実現に努力した政策を殆ど完全に実現することが出来ました。
 東郷氏は東支鉄道を蘇連邦に売渡す交渉に成功し、国境画定問題に就て初めて成功を収め、 又駐蘇大使としては不可侵条約の締結に殆ど成功した時帰朝を命ぜられたのであります。
 太平洋戦争を通じ東郷氏は現職に在る時は常に日蘇間の平和と友好関係の重要性を強調しました。
 英米両国との関係に就ては東郷氏は一九四一年十月外務大臣に就任する迄殆んど直接の関係を持ちませんでした。 但し機会ある毎に日本と英米との関係の改善に努力しました。 東郷氏は防共協定と共に英国との協定に就て関係当局を説得し、 海軍軍縮問題に就ては米英両国との関係を阻害することなからしむる為海軍側の主張に反対し、 又外務大臣に就任しては破綻に瀕した国交の調整に努めたのであります。 東郷氏が東条内閣の外相として太平洋戦争に関係した点は疑ひもなく検察側の主たる訴追であるが、 東郷氏は当時官職から退いていた処殆ど同氏を知らない新首相から入閣を求められたのである。
 此の入閣は新内閣は日米交渉の成功の為に真剣に努力すべく陸軍も之に反対せずとの明確な保障を取付けた後 初めて東郷氏は受諾したのである。 爾後同氏は甚だ困難な事情の下に二つの事を為したのである。 即ち一は久しく悪化して破綻に瀕して居た日米交渉及日米関係を解決せんと努力したこと、 他の一は此の問題を扱つた連絡会議に於て統帥部の勢力が甚だ強かつてのであるが 日米交渉及日米関係の為の努力を為し得る様統帥部を説得したこと之である。
 然し乍ら東郷氏の使命は不可能なものであつた。 米国は為し得べかりし譲歩を為すを欲せず、日本側の総ての関係者が最終通牒と認めた十一月二十六日の覚書を手交した。 日本としては其の大国としての地位を放棄し其の存在すら危殆に瀕するに甘んずるか 或は自衛の戦争に訴へるかの一を選ばざるを得ざる立場に追込まれたのであるが、 実際其の間選択の余地はなかつたのである。斯して戦争は決定された。 東郷氏は最後迄戦争に反対したが終に自衛の為武器を執ることに賛成せざるを得なかつたのである。
 戦争開始の手続の問題の起つた時、東郷氏は通常の通告の手続を執ることを主張し、 此の都合にも統帥部の反対と戦はなければならなつた。 東郷氏は連絡会議に於て米国政府に対し交渉打切りの通告を為すことを認められた。 通告は手交の時間は統帥部に依り定められたが 統帥部は東郷氏に対し其の時間は攻撃開始の時間との間に十分の余裕あることを保障した。
 斯くして十二月七日午後一時に手交のことに打合せられ、其旨命令されたのである。 但し実際に手交されたのは華盛頓に於ける事務の手違いに依り一時間以上も遅れ、 米英両国の領土に攻撃が加へられてから後になつたのであつた。
 戦争開始後は外交の余地は減少したが其の上大東亜省の設置に依り其範囲は一層縮小した。
 此の問題並に他の根本政策の問題に就ての意見の不一致から東郷氏は一九四二年九月一日外務大臣の職を辞したが、 既に其辞職の前から東郷氏は戦争終結の方策を進めて居た。 一九四五年四月東郷氏は大命を拝した鈴木大将から再び外務大臣として入閣を求められた 此の場合にも東郷氏は入閣の条件を付したが、其の条件は鈴木内閣が戦争を終結せしめると云うことであつた。
 鈴木内閣の短い期間東郷氏は此の目的の為に全力を尽し終に主として其の努力に依り一九四五年八月十五日 此の目的は達成されたのである 証拠は東郷茂徳氏の役割は侵略の為の共同謀議者のそれではなく、 終生軍国主義を其の予見得べき結果に反対したことであつたと云ふことを示すであらうことを茲に述べる次第である。

書庫(54):栗原健「『終戦工作の記録(上)』解説」より

(…)
 それらの一つ一つについて記す紙数がないのは残念であるが、『本書』上巻に関連して最も忘れ難いことは、 この『終戦史録』に次の「記事」を編入しておいたことである。
 それは、「第二篇 戦争指導に関し東郷外相と東条首相との衝突」の中の「昭和十七年元旦東郷外相訓示の一節」の項に、 (編者メモに依る)として私の「メモ」より次のような引用をしておいたことである。

 東郷外相はその時「…力及ばずして、遂に戦争になつてしまつたが、われわれは、 この戦争を日本に最も有利な機会に切り上げなければならない。 外務省員は他の用務を放擲しても、このことの研究と準備に力を尽して貰いたい。…」と言われた。 元旦、フロックコート(モーニングだったか)に威儀を正され、日米交渉以来の傷心に、 顔面蒼白いささか痙攣を伴なうかに見えた東郷外相は、陸奥外相銅像の下に立って厳粛に右の趣を訓示された。

 時、あたかも元旦、緒戦の戦果を改めて祝う人々が、 外務省と真向いの海軍省との間の霞ヶ関の通りを日の丸の小旗をふって通っていた。 東郷茂徳外務大臣のそのときの訓示と、門前の光景とは、今なお私の脳裏に実に印象的に残っている。 そして私は、右の引用に続けて『同書』にさらに次のように記したのだった。

 編者はその末席にあって、その時始めて外相の真意をうかがい、その見識と勇気にひそかに敬意を表するとともに、 条約改正時、日清講和、日露講和時の大隈、陸奥、小村等外相の苦心を想い、 いずれ東郷外相は往時に倍積された苦難に直面されるだろうと思った。 本書編纂のそもそもの動機はその時の東郷外相訓示に発していることを茲に明記しておく。
(…)

書庫(53):西春彦「回想の日本外交」より

(…)
 ところが、開戦の翌年の八月ごとになると、大東亜省設置問題が起った。 つまり大東亜省を新設して、東亜の諸地域―ほとんどが占領地域である―をその管轄化に入れ、 外務省の所管外に置こうとしたのである。
 外務省としては、まず、東亜の諸国とそれ以外の諸国とをちがった者で管轄するのでは外交の一元化が乱される、 つぎに独立を尊ぶ東亜の諸民族が日本から属国視されるように感じて、戦争への協力が得られなくなる、 という二点をあげて、つよく反対した。 さきに述べた貿易省問題と似たような問題ではあったが、今度の場合は戦時中でもあるし、 陸軍の方では、もしも前のときのような行動をとるなら、外務省を包囲するといううわさもあった。 それで今度は、省内の人が結束して決起するようなことはしないで、普通の交渉でやっていた。
 ところが交渉がうまくゆかず、最後は東郷外相が、閣議で東条首相と一騎打ちで三時間ぐらい対決して、 前述のように、外政の不可分なことと東亜の諸民族に悪影響を与えることとを挙げて、 だいぶ激しく論戦した。ほかの大臣はほとんど発言していない。 それでも議がつきず、休憩中に東郷外相はすく近くの官邸に帰ってきた。 その間に、東条首相から単独辞職をすすめられたが、東郷外相は断わったという。
 大臣がこの閣議に出かける前に私たちも二、三人で官邸に行き、 あなたは単独辞職を勧められても、決してそれを引き受けてはいけない、あくまで頑張って下さいと言って、 東郷さんを激励した。その時は、東郷さんは機嫌の悪い顔をしていたが、やはりそのとおりになったわけである。 すると、官邸に賀屋蔵相がやってきて辞職を勧告した。 しかし、東郷さんはきかない。 陸海軍省の両軍務局長が来たが、それでもだめだった。 それから最後に島田繁太郎海軍大臣がやってきて、宮中ではこの際政変を好ませられない、と言われた。 そこまでくればもうこれ以上聖慮を煩わすのは忍びないといって、非常に残念ではあるが、 東郷さんは外相をやめることになり、私もいっしょに次官の職を去った。
 このときのいきさつは、『木戸日記』に出ている。多分閣議の休憩中であろう、 東条首相が参内して、こうなっては総辞職のほかありません、と上奏したので、 陛下は驚かれ、ああ、それは困ると言われたのである。 陛下としては時局重大なときであり、東条の施政のやり方がどうかというところまで、 まだ詳しくご承知になっておられないころでもあった。
 しかし当時の東条首相のやり方には、もう秘密警察による憲兵政治が目についた。 東郷外相に、一身上の誹謗を放つ。とくに東郷さんの奥さんはドイツ人なので、 なにかけしからんことをいう。そうしたやり方には、おそらく私たちがいちばんはじめに気づいたのかも知れない。
東郷さんと重光さん 東郷さんのあとは、情報局総裁だった谷正之さんが外相を兼任し、 昭和十八年四月には最後に駐英大使だった重光さんが外相となった。 東条内閣が昭和十九年七月にたおれたのちも、重光さんは小磯内閣に留任した。
 重光さんと東郷さんを比較してみると、東郷さんは外務省の本流ではなく、 重光さんの方が本流になる。重光さんは本省の課長時代から中国問題を処理したのをはじめ、 上海総領事、駐華公使など中国関係の要職をつとめ、次官もやっている。 当時は、中国問題がいちばんの重大時だった。
 東郷さんは最初、奉天に暫く赴任していたが、あとはずっと欧米で、とくにスイス、ドイツあたりがながい。 本省では、シベリア出兵当時から欧米局の第一課長で、ソ連との国交回復の問題とずっと取り組んでいた。 その後、松平恒雄欧米局長が駐米大使になったときにアメリカについて行き、 そこに四年くらいいたが、あまりぱっとしなかった。それからまたベルリンに行き、 昭和七年(一九三二年)のジュネーブの一般軍縮会議のとき事務総長になり、 帰ってきてから欧亜局長になった。人柄からいっても、東郷さんはごく地味だった。
 しかし昭和八、九年ごとになると、重光さんが外務次官、東郷さんが欧亜局長で、 外務省の両雄とみられていた。東郷さんは、陸海軍を相手にテーブルを囲んで正式に交渉するときは、 正面から激しく対峙するほうで、その点では外務省の第一人者だった。 新聞記者の間では、東郷さんの評判は非常によかった。そして欧亜局長をしていることから、 東郷さんは外務大臣候補といわれていた程で、そうしたことは当時としては珍しかった。
 東郷さんは性格的にもあまり派手な交際はしない人だが、政界の要所を占めている政治家とは、 そうとう連絡の手を打っていた。だから決してよい意味の野心がないわけではなかった。 近衛文麿公と岡田啓介大将と広田さん、この三人との関係がもっとも深い。 外務省では広田さんの直系にあたる。
(…)

第六章 日米開戦
1.東郷外相を補佐して

書庫(52):西春彦「回想の日本外交」より


次官就任と革新派の粛清 日ソ中立条約が締結されたのと同月の昭和十六年(一九四一年)四月から、 日米交渉が開始されていた。七月に第二次近衛内閣が総辞職したのも、 松岡外相を更迭して日米交渉を円滑にすすめるためで、第三次近衛内閣では豊田貞次郎氏が外相に就任した。 しかし対米交渉は思うように進展せず、同月末に日本軍の南部仏印進駐が決まると、 米英両国は日本資産を凍結した。日米交渉で米国側が主張した条件には、はじめから中国からの撤兵があったが、 最後にこの点を東条陸相が突っぱね、近衛内閣は十月十六日に総辞職した。 後継内閣は東条首相が組織することになり、東郷茂徳氏が入閣して外相となった。 私は、氏の求めに従って次官に就任することとなった。
 東郷さんは外務省の本流を歩いた人ではないので、心から知り合った人もあまり多くはない。 私は同県人でもあり、東郷欧亜局長時代の第一課長として北鉄交渉もやったし、 モスクワでも東郷大使のもとで漁業交渉をやった。 そうした事情があって、わりあいと関係が深かった。また東郷さんはだれに対しても相当きびしい態度に出る人だったので、 私は局長連が驚かないように、その間のクッションになってもよいと思っていた。 しかしほかに東郷さんの決めたい人がいるなら、その人にやってもらった方がいいと思ったので、 大臣に就任したときにも、挨拶にもいかなかった。 ところが、東郷さんから使いがきて、次官にならないかという。 私は、なれというなら決死の覚悟でやるが、それは大臣にまかせる、と答えた。 結局次官に就任したものの、日米交渉の経緯はそれまでまったく知らなかった。 国家機密で絶対に関係者以外には話さないのであるから、東郷さんも断片的な知識しかもたないで入閣したわけだ。
(…)

第六章 日米開戦
1.東郷外相を補佐して

書庫(51):森元治郎「ある終戦工作」より

(…)
東郷を見舞う 九月十日には、軽井沢の別荘に心臓が悪く静養中の東郷さんを見舞ったが、 ぐっと老けられた様子が痛々しい。ついで十月十九日には麻布の自邸に戻っていた彼をまた訪ねた。 すでに戦犯指定の内命があったのか、身辺整理をしておられたようだった。
 二階の陽当たりのいい窓際で和服にくつろいだ東郷さんは、口も軽く、終戦の経緯、 ことに六月二十二日の御前会議、「ポツダム宣言」正式受諾の際の御前会議で、 東郷の意見に賛成であるとの陛下からのお言葉に感激した模様をせきを切ったように語った。 その様子から「君もよく憶えておいてくれ」と遺言ともとれる話し振りだった。 あまりの早口に私はメモをとり損なうくらいであった。しかし、まだ法廷での闘いが控えている。 とても彼の好んで色紙に書く「明月時至」の心境になかったのがお気の毒であった。
 私はこの貴重な「外交秘話」を雑誌にでも投稿すれば必ず少なくない金になることは知っていた。 が、書いたとしても、彼の意とするところを伝え損えば、いずれ裁判にかかる彼に迷惑をかけ、 大変なことになると思ってこれを慎んだ。
 帰りがけに東郷さんから「これから君はどうするか」とたずねられた。私は、「郷里へ帰りたいと思います。 世の中はみんな交替すべきです」と答えた。のちに私が政界入りするに当って、 「社会党」をえらんだ心の土台はここにあった。
 なお、私の終戦工作をもとにして、昭和二十七年に「東映」から監督関川秀雄、脚本八木保太郎で、 終戦秘話「黎明八月十五日」という映画が製作された。 主演俳優、新劇の松平克平が演ずる「林記者」というのが私である。 お芝居であるから林記者の言動がすべて私のそれと同じではない。 おかげで、私はたくさんの謝礼をもらって大助かりであった。
 終りに、ひとたびこうと決めたらテコでも動かぬ頑固さ、 それにあの類い稀れな粘り強い東郷さんが外相であったればこそ終戦に持って来られた、 余人をもってしては到底出来なかったとつくづく思う。 性格が正反対の彼の下で一伝令兵として僅かの期間ながら働いて、私は多くのものを学びとったことを感謝している。

2015年7月23日木曜日

書庫(50):東郷いせ「色無花火」より

 それは美しい夏の朝だった。
 涼やかな微風が窓のカーテンを揺らし、近くの林から鳥たちが鳴き交わす声が聞こえていた。 ひんやりとした空気は甘い香りに満ち、その日の上天気を予感させた。 輝かしい夏の日の始まり、今日も草原では、蜂や蝶たちが花々の蜜を求めて、忙しく飛び交うことだろう。
 七月二十三日、私たちは軽井沢の鹿島の森の小さな夏の家にいた。 高原の夏は始まったばかりだった。
 蝶々や蜂たちに劣らず、私にとっても忙しい日になるはずだった。 ちょっと目を離したらたちまち、帽子もかぶらずに外に飛び出してしまう双子の男の子を、 麦わら帽子をひらひらさせながら追いかけなくてはならないのだから。
 子どもたちは五歳と半年。 愛らしいワンパク盛りだった。 仕事の都合をつけて東京からやってきた夫ともゆっくり話をしたかったし、二階の寝室で目をさました私は、 まださめきらない頭の中で、一日のあれやこれやをぼんやりと考えていた。
 電話のベルの音が聞こえた。 こんな朝早くどこからの電話だろう…。やがて階下で受話器がとられる。 二言三言の話声がしたあと、家の中がしんと静まったように感じられた。
 取りつがれた電話に出た私の耳に、なんともいいようのない、重くくぐもった母の声が聞こえた。 生まれてはじめて聞くような母の声だった。
 「パパガ死ンダ」
 その瞬間、輝くばかりの夏の朝はひかりを失った。
 小鳥のさえずりも聞こえず、こぼれるほどに咲いていた花々ももう目に入らなかった。
 二階から下りてきた夫に、電話で聞いた言葉をそのまま繰り返して、私は棒のように立っていた。
 子どもたちの留守中の世話を頼み、いちばん早い汽車に乗った。戦争が終わって五年、列車事情の悪い時代だったが、 その日は不思議に空いていて座席に座れたのをおぼえている。
 「いせ、大丈夫か?」
 窓際に腰掛けた私の顔を覗きこんで夫がそういい、私はこくんとうなずいて、「ダイジョウブ」とかすれたような声でやっと答えた。 その言葉が、その日私が話したただ一言だったような気がする。
 昭和二十五年の夏、父の死の知らせが届いた日だった。
 その日の未明、太平洋戦争の開戦時の東条内閣と、終戦時の鈴木内閣の二度の外務大臣を務めた父、 東郷茂徳は、A級戦犯として巣鴨プリズンに囚われの身のまま、だれに看取られることなく六十七歳の生涯を閉じていた。
(…)

(「夏の終わり 父東郷茂徳の死・昭和二十五年」)

巡礼(14):青山霊園 2015年7月23日

2015/7/23
2015/7/23
2015/7/23
2015/7/23
2015/7/23
2015/7/23
2015/7/23
2015/7/23
2015/7/23
2015/7/23

2015年7月18日土曜日

書庫(49):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(II)より

 昭和二十三年四月二十二日
二とせは戦ひのせとに押して来ぬさばきの趣旨はこれいかならむ

 鈴木貫太郎大将数日前逝き、米内大将亦昨日遠逝の由、終戦の際を偲ぶ
民族の亡びぬ為ぞとのたまひしみ声は今に著しかも

 本日は天長節也。起訴状の発せられたるより二年目也
太平洋潮ひ潮満ち時来べし力落すな大和民族

邦家再健の曙光を認め我れ死なむ道遠くとも健やかにして

 六月二日
出来る丈おのが自由の欲しきかなせめて読書に且つは思索に

 十月三十一日
冬は来ぬ麻布の児等はいかならん巣鴨の住居寒けきものを

 廿三年十一月判決以降
たわいなき判決はありぬ二十年いつの時にか此年期明けむ

年の瀬を幾度こゝに過すべきか家なる児等をかけて忍びつ

いざ神のさばきに身をば委ねなん彼等の裁きたよりなければ

現し身はたわいなき身なり従容と死に就にしこそいともめでたし

黙々と死に就きたるぞいともよし物言ふことのしるしなければ

判決のありたる後も敵人に頭を下げて乞はむとは思はじ

 母上五年祭に
四年間移り変りのはげしきも母見まさぬにやゝ安らけし

年の瀬に年内のこと皆浮び来ぬ試練の年よよくぞ過ぎ行く

年の瀬に為すこともなし巣鴨にて只諦めの心哀しく

来む年に為すべきことの目途無きも唯世の為に生くべしと思ふ

冬の朝巣鴨の庭の片隅に椿三輪紅に咲く

現し世の毀誉褒貶はたよりなしわれ一筋に我道行かむ

 昭和廿四年一月四日
読み話しいねてし居ればいつしかに日一日と過ぎて行くなり

 一月七日
行く先に望みの光り見ればこそ囚屋の闇はわびしかるとも
 一月十日
我心痛みて止まず世の人のなべて憂に生きてしあれば

 一月十二日
十年余り火水の中を渉り来ぬ妥協の港に憩(やす)らいもせで

 一月十二日
世の中のかゝらはしさに飽き果てぬ心靜かに死にて行かなむ

 一月十四日
此人等国を指導せしかと思ふ時型の小きに驚き果てぬ

 一月十四日
唯一つ妥協したるがくやしくも其後のまがつみ凡てはこれに

 一月十四日
此人等妥協を旨と心得て風を避けつゝ波に押されつ

 一月十四日
此人等信念もなく理想なし唯熱に附するの徒輩なるのみ

 一月十五日
病ひへの抵抗力の失せぬるか嵐来らばひたと仆れむ

 一月十五日
これよりはせんすべをなみ唯真理探究者として世を終へむのみ

 一月二十四日
冬の日を病める独房の窓に鳴く雀の声は嬉しかりけり

 三月十九日
常なくもうれしかりけり山離かる空の浮雲朝日に匂ふ

 三月下旬
巣鴨なる樫の小枝に新芽立ち降りし小雨に心和めり

 四月十三日
人の世は奇しくもあるか幾度も生死に境し遂に死せず

 四月十三日、軽井沢庭の桜を偲びて
高原の樅に混らふ桜花月靄に浮び常春の里

 四月十五日
春の風獄の狭庭に立つ我れの白き鬚先撫でて吹き行く

 四月十五日
書(ふみ)を読み道を守りて独り居の楽しき心三年経にけり

 四月十五日
日一日なべて佳き日と暮しなば楽土と思ゆ囚屋なりとも

 五月七日
偽りのなき世なりせばいか計り人の言の葉嬉しからまし

 五月七日
かく計り憂きすおもひし人が世に何か我身に生れきにけむ

 六月二十一日、本城氏への返歌として
降りよどみはてしもしらぬと思ほえし五月雨晴れて大空光る

 五月雨に続く暑さの其後の涼しき秋の光りをぞ待つ

 七月三十一日
夏雲の立ちたる彼方麻布なる我家のほとり夕焼けにして

 九月四日
放しやらぬ人のつらさを情にて朝な夕なに書(ふみ)に読み入る

冬されば青桐銀杏落葉して囚屋の庭に霜柱五寸

病院によろずの病ひ見てしより病なき身を有難しとぞ思ふ

 昭和二十五年一月二十八日
君の為め世の為めの業(こと)は成し遂げぬ今は死してもさらに惜まじ

 一月二十八日
死を賭して三つ仕遂げし仕事あり我も死してよきかと思ふ

 一月二十八日
むらむらと望郷の念ぞ湧く日なり天の白雲見ればかなしも

 一月三十一日、終戦后唯紺碧の空なつかし
宮城は見しこともあらず墟(あと)空し唯祥光のさわに立つ見ゆ

 三月十五日
今一つ仕遂げたきことなり出でぬ我が世の欲の重なるものか

 三月十六日
わびし世を誰れに語らんよしもなし波に浮べる水鳥のごと

 三月十六日
国力を消耗せしが惜しかりき未曾有の働きせしにはあれど

 三月十七日
真面目なる動きに我は冠たりきそれのみにて今もよしと思へり

 四月四日
この夜またあまたの所刑あるといふ雲たれこめて春寒き夕

 四月二十七日
こどもらのよきたより聞きてセメントの冷き室にも熟睡(うまい)せるかも

2015年7月13日月曜日

書庫(48):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より

戦争に就て
 戦争に就ては論ずべきことが極めて多く、戦争の原因を社会的諸条件のみに帰せしむるものか、 また個人的原因がその要件なりとせば、意思の自由との関係はどうか。 自由意思とは正義の観念と同じく人類の発育せしめたもの、正確に云えば発育の途上にあるものではないか、 などの社会学的以上哲学的範囲に入りての検討が必要となる。 また従来国際法の一原則であった内政不干渉と思想戦との関係も考察に値する。 殊に全体主義と民主主義、共産主義と資本主義の戦いと云うが如き、充分の考究を要するものである。 しかし本書でも後にこれら一般問題に論究することになるかも知れないから、 ここではなるべく簡単に戦争に関する、二、三の事項に限定して述べたいと思う。
 第一に戦争の起因は各時代により異なることであるが、近世期に於ては個人的欲望によることは甚だ稀で、 そのほとんど全部が国家主権の確立および資本主義経済の発達に伴うものであった。 植民地獲得およびこれに伴生した各国間の戦争が主なるもので、 原料の獲得および市場の確保を目的とするものが多かった。 いずれも経済的原因を主とするもので、最近に於ける高度資本主義発達の必然的結果とも云うべきものであり、 各国の経済的競争によるものであった。かくの如き戦争が絶えず発生し、かつ科学の進歩と共に 戦争が大規模となる傾向にあるため、これが発生を阻止せんとする企てが一方には台頭した。 紛争がある場合、仲裁裁判によりてこれを解決し、戦争の発生を防止する方法も企てられたが、 総括的仲裁裁判を受諾する国が少ないので余り効果は挙らなかった。 また不戦条約の如き条約を以てするの方法であるが、成立当初から自衛の場合は除外すると云う抜け穴があった。 国際連盟その他の集団的保障によって相手国に制裁を加え、また攻守同盟によって相手国に対する戦争に参加するなどの方法により、 戦争を防止するに資せんとしたが、或いは有効ならざるかまたはかえって戦争を激成することになった。 勢力の均衡による戦争防止もまた同様であって、実際的にこれを防止するの方法がなかった。
 これに反し現代に於ても戦争防止の効果を阻止するものが少なくない。 各国自己に都合よき主張の下に軍備縮小に反対せるものその一つであり、各国間に猜忌を逞しくし、 ただ武力を以て自己を防衛せんとする思想が、最近ますます盛んとなったことも挙げなくてはならぬ。 なお世界の領域が確定したるに伴い、持てる国々が自己の利益を擁護するに急にして、 持たざるものの立場を顧慮せず、従って不平等或いは不当となりたる条約の改訂もなんら事実上は行われざりしことも、 戦争勃発の止むなき原因となった一つである。 更に近代国家の成立と共に国家主権が高調せられた結果、自国主権の制限を好まず、自衛権の範囲の如きも、 各国凡て自らこれを決定するの権能あることが国際法の一原則であった。 なおまた最近、一国の自衛は防衛が最有効なる土地および時に及ぶとの思想が、 米国の如き最も強大なる国により唱道せらるることとなったために、 一国の凡ての行動を自衛の範囲内にありと説明し得る範を示すことになって、 戦争防止を阻害する大原因となった。 他方最近戦争が全体的形態となったため、所謂戦略物資の範囲が無限に拡大したことが、 「ヒトラー」の電撃作戦の実施と相俟ちて、国際法の遵守を困難ならしめたのも注目すべきである。
 従って、第一次世界大戦に於ては、「戦争を終熄せしむるための戦争」との標語を以て戦ったに拘らず、 忽ちにして第二次大戦となり、この戦争に於ては各国共によりよき世界の出現を望んだが、 未だ講和条約さえ成立せぬ間に冷たき戦争に入り、第三次世界戦争の勃発が呼号せらるる世の中である。 されば戦争の絶滅には、戦争の起因につき更に熱心に更に良心的検討を加え、 各国が今以上に自利心を放棄して真に独立和衷の途に進まざる限り、 平和の維持は不可能であると云わなくてはならない実状である。 これ釈迦、耶蘇、孔子等の如き人類の先覚者が平和の念に目覚めて以来漸く二千年を以て数えるのであり、 人類の起源に較べても余りに短き期間であるから、人類の協力、各国の和衷というが如き境涯に到達するには、 なお若干の歳月を要するのも無理からぬことではあるが、原子爆弾の如き最も非人道的武器が、 単に戦争の終期を早からしむると云う理由により既に使用せられ、更にまた水素爆弾の如き更に威力あるものも 使用せられんとするのであるから、世界の人士は単に戦争防止の形式的方面にのみ囚われず、 その真因につき速かに方法を講ずる必要が認めらるるのである。
 なおこの点につき一言すべきは、真に平和を欲求する場合には身を以ても戦わなくてはならぬことである。 一事件につき傍観者の地位に立ちて、事件経過後自分が平和を冀求したことを述べても無意義である。 また自分を危害のない地位に置きながら、演説または電報を以て平和的意向を表示するのは安易に過ぎる。 真に平和を欲するものは凡ての機会を利用して輿論の喚起に、または平和攪乱者との戦いに危害を冒しても進むの慨がなくてはならぬ。 殊に時勢の流れが凄じき奔りを見せている際に、左右枝悟または前後矛盾する行動に出るが如きは以ての外のことであるが、 東西とも所謂政治家と称するものには類が少なくない。 なおまたこの点は国際間の交渉にも適用を見るのである。 一国がある交渉に於て平和的意図を高調しても、具体的交渉条件につき徹頭徹尾自己の主張を固守し、 いささかの譲歩すら為さずとせば、相手方に全面的屈服を求むることは、 案件の性質如何を問わず真に平和を希求する態度とは云えない。蓋し交渉は普通の場合「ギヴ・アンド・テイク」であるからである。

「第二部 太平洋戦争勃発まで」
「第三章 日米交渉の歴史的背景」より

巡礼(13):青山霊園 2015年7月13日

2015/7/13
2015/7/13
2015/7/13
2015/7/13
2015/7/13
2015/7/13
2015/7/13
2015/7/13
2015/7/13
2015/7/13

書庫(47):東郷茂彦「『時代の一面』(東郷茂徳) 解説」より

(…)
 茂徳の文学的でヒューマンな素質は、本書でも、奉天、スイス、アメリカなど、若い頃に勤務した国々の描写や、 戦犯として巣鴨の獄につながれるようになってから創作した二百首をこえる短歌などに垣間見ることができる。 本書を通読し、単なる外交史の記録を越えて、真理を求める哲学の書にも似た感動を受けるとしたら、 その辺りにも理由があるのかもしれない。
(…)
 苗代川出身でドイツ人を妻にもつ茂徳にとって、外務省で頼るものは出自閨閥であろうはずがない。 外務省はまた、そうしたものがなければやっていけない所でもなかった。 己れの頭脳と意欲意志のみを信じ、一つひとつ周囲の信頼をかち得ていった茂徳は、 官、政、軍、財、言論など各界に独自のネットワークを形成する。 その気骨を買い、新聞記者はもちろん、意外に思えるかも知れないが、陸軍にも東郷ファンが出来、 やがて外務省を背負って立つ人物として、局長の頃から大臣候補に上がるほとであった。
 しかし茂徳の交遊は、人におもねったり、派閥をつくることにはなく、相手をひとかどの人物と認め、 その交わりの中に同憂の士を見出す、といった風であった。従って、その姿は時に孤高ともなる。 新聞記者として直接茂徳を親しく取材した森元治郎氏(元参議院議員)は 「人付き合いが悪く、いつも孤影がつきまとう。常識的には面白くないが、そこが面白い。 よく知れば、渋みのある深い人柄」と評している。 (…)

2015年7月11日土曜日

書庫(46):阿部牧郎「危機の外相 東郷茂徳」(平成五年)より

(…)
 先進諸国と夜郎自大の日本人のあいだに立って調整に苦労したのが、西欧文明を深く呼吸し、 西欧の事情に明るい外交官たちだった。幣原喜重郎、重光葵、広田弘毅、佐藤尚武、吉田茂、有田八郎、 東郷茂徳などという人々がそれだった。彼らは年々鼻息の荒くなる軍部に尻を叩かれ、 他方では先進諸国の仏頂面に向かいあって両者の橋わたしに精魂をかたむけた。 国際情勢と日本人の一人よがりの大国幻想のギャップを埋めるのに血のにじむ努力をかさねた。 だが、大部分の者は結局軍部に妥協したり、活動の場を追われて沈黙せざるを得なくなった。
 東郷茂徳はなかでもっとも頑強に軍部に抵抗した人物だった。なんとしても戦争を回避したい一念から、 彼はあえて火中の栗をひろい、東条内閣の外相となった。力およばず開戦にいたると、 終戦のための努力をはじめた。やがて東条と対立して辞任、敗戦が濃厚になると、 終戦の実現のため外相に返り咲いた。本土決戦を呼号する軍部の説得に獅子奮迅の働きをした。 当時の鈴木貫太郎内閣のなかで、彼はもっとも強硬な和平派だった。 彼がいなければ、わが国は徹底的に破壊され、すみずみまで荒廃して、 私たちの経験したようなすみやかな復興は望めなかっただろうと思う。 その業績にもかかわらず、東郷は昭和二十五年に獄中で死んだ。 戦後脚光をあびた吉田らとは対照的な不遇の生涯だった。
 東郷は日本の著名な外交官のなかでも屈指の交渉能力の持主だったといわれる。 理路整然と正攻法で押しまくる交渉をやった。 自説をゆずらず、決裂ぎりぎりまで国益を押し出す豪胆さは、ソ連のモロトフ外相を感嘆させるほどのものだった。 国内に向けては、日本的心情には動かされぬ徹底した合理主義者であった。 ドイツ女性と結婚するなど、明治生れの日本人にはめずらしい国際人だった。
 東郷は鹿児島の出身である。 伝統的に尚武の気風が強く、士族が偏重され、有能な軍人を輩出した同地で、 寡黙な秀才だった東郷はかならずしも幸福な青年時代を送らなかったようだ。 先祖が韓国から渡来した陶工だったという事情もある。 なにかといえば軍刀の威力にものをいわせたがる軍人に彼は憎悪の念を抱き、文官として大成する道をえらんだ。 軍人は国を事実、破綻させ、東郷は彼らの暴挙から国をまもるために精魂をすりへらした。 この頑強な平和主義者が軍国主義のふるさとだった鹿児島で育ったことに、 物書きとしての私は興味をそそられた。 欧米諸国とわが国の文化のギャップが、欧米をよく知らない私たちの目にも明らかになってきた現在、 東郷の生涯をたどることにはそれなりの意味があろうと思う。
 東郷茂徳の少年時代についての知識を得ようとして、昨年、私は鹿児島をたずねた。 記念館の一つもあるかと期待したのに、そんなものはなかった。 図書館にも、通りいっぺんの資料しかなかった。 東市来町美山に残っている生家のそばに「東郷先輩につづけ、美山の子」と書かれた杭の立っているのが、 わずかに彼の偉業の痕跡であった。
 「ほう、そんな偉い人がおったとですか。鹿児島ではなんというても西郷さんですから。 大久保さんも偉い人じゃが、わしらはやはり西郷さんです。東郷茂徳という人は知りもさんかった」
 美山往復のため乗ったタクシーの運転手がそう話していた。
 夜の天文館通りの飲み屋でも、東郷茂徳はほとんど知られていなかった。この日本外交史上の巨人は、 たんにA級戦犯の一員として人々の共同墓地に眠っていた。起きてもらおう、と私は思った

「序章 共同墓地の巨人」より
 

書庫(45):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より


予の根本思想
 右意見書を通ずる予の根本思想は国際信義、条約の神聖、平和的紛争処理であるが、 いずれの国いずれの時と雖もその衰微を防ぐには不断の変化と発達を要するので 保守停滞は禁物であるが、しかし一時代の推移も一国隆盛も余りに急激なる速度を以てするは好ましからずとするにあった。 この思想は本意見書の表面上にも到るところに現れており、 国家的交際も個人的交際と同じく信義を緊要とすとの思想と相並んで国家の秩序ある進歩を希求しているのである。 即ち一時眩惑的成功を来しても右には充分の根底を欠くことが多いから、 間もなく逆転することになったのは史上の例に乏しくない。 革命に於てさえその実例は枚挙に遑ないのである。 なおこの点を掘り下げて文明史的考察を下すなれば、人類の科学的、物質的進歩は最近顕著なるものがあるが、 精神的進歩はこれに伴わない。されば社会的変革の如きもその速度を按じ、社会の道徳性の向上と歩調を一にするに非ざれば諸変革も成功せざるか、 または一時成功せるが如く見えても逆転することが多い。 されば時代を推進する場合も一国の興隆を計る場合にも徐々に堅実なる方法を以てするを最上の策として推薦したのである。 右意見書を起草して以来十五年を閲して一昨々年、東京裁判に際し再読したのであるが、 その後に於ける対支対英米関係は予の杞憂せる如き悪化を来し、 軍縮問題による悪影響も正に予の予見した通りとなって、 遂には騎虎の勢いを以て太平洋戦争の勃発を見るに至ったのは誠に遺憾に堪えぬ次第である。


「第一部 第一次世界大戦より第二次世界大戦まで」
「第八章 欧米局長時代」より

2015年7月5日日曜日

書庫(44):岡崎久彦「重光・東郷とその時代」より

(…)
 このあとの終戦に至る細かい経緯は、枝葉末節であろう。 鈴木も東郷も、戦争終結の機会を心中ひそかに求めていたが、ドイツの敗戦のときでも、 ポツダム宣言のときもまだ日本国内では機が熟していなかった。
 八月六日、原子爆弾が広島に落とされた。それが老若男女の非戦闘員に及ぼした惨苦は言語に絶した。 実地調査をしてみると、紛うかたなき原爆とわかった。その報告は八日にもたらされ、同日ソ連が対日宣戦をした。
 九日の晩、最高戦争指導会議が開かれた。
 出席者は、鈴木首相、東郷外相、阿南惟幾陸相、米内海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長であったが、 ポツダム宣言受諾にどういう条件を付けるかで意見が対立した。条件といっても、陸軍がいうのは、 米軍の本土上陸は許さない、在外の日本軍は降伏ではなく自発的撤兵とするなど、 面子にこだわる条件でとうていアメリカが受け入れるはずのないものであり、事実上の継戦論であった。
 鈴木は、ここで、寸刻を争う情勢のもので、こうして時を過すべきではないと考え、天皇の前で再度会議を開くことを決め、 その日の夜中十一時五十分から御前会議を開いた。

 ここから先は、議長であった鈴木の回想の表現を借りて記述するのがいちばんよいと思う。 カギカッコ内は引用である。
 従来の経緯を説明し、ポツダム宣言の無条件受諾が最善であることを「論理正しくはっきりとした口調で述べた」東郷が、 「つねに冷静に、反対の立場の人々に対しては毅然として、ポツダム宣言の意義を説明され、 信念をもって終始された」ことに鈴木は深い敬意を表している。
 陸奥宗光、小村寿太郎、幣原喜重郎が築いてきた大日本帝国の外交の灯が消える直前の瞬間に東郷がみせた日本外交の最後の輝きである。
 これに対して阿南陸相は「私は外務大臣の意見に反対である」と前提して、 「敵の本土来襲を待って徹底的打撃を与えれば、そのときこそ自ずから平和への道も有利に開ける」と抗戦を主張した。
 「その緊張した空気は誠に真剣そのもので真に御前会議らしい」雰囲気だった。そこで鈴木は「この重大な事柄を決するに、 じつに陛下ご自身にお願い申し上げ、国の元首のお立場から御聖断を仰ぐべきだと心中強く決するに至った」のである。 そして玉座近くに進み出でて、「かくなるうえは誠にもって畏れ多い極みではありますが、これより私が御前に出て、 思し召しをお伺いし、聖慮をもって、本会議の決定と致したいと存じます。」と述べた。
 これこそ日本の近代史で誰もあえてしなかったことである。 もし戦争に至る大きな節目のときに時の総理が昭和天皇の御判断を仰いでいたならばどうだったろう、との感慨は避けがたい。

 鈴木の回想からの引用を続ける。
 そこで天皇は、「自分は外務大臣の意見に賛成する」と仰せられ、その御説明においては、 「誠に理を究め、曲を正す、正鵠な御認識によるお諭しの御言葉であり、 いかに陛下が平素から正しく戦局を御認識あられたかが拝察できる御論旨であった。一同ただ声なく粛然と襟を正したのである。
 会議は十日の午前二時まで続き、翌朝七時には、鈴木は連合国に対してポツダム宣言受諾の用意ある旨電報させた。
 十三日に、連合国側の正式回答があり、その内容が国体の護持について不明瞭であるとして、 ふたたび主戦論が強くなり十四日ふたたび御前会議が開かれた。しかし昭和天皇の御決意は変わらなかった。
(…)

「第十六章 もう、やめねばならない」より

2015年7月3日金曜日

書庫(43):萩原延壽「東郷茂徳 伝記と解説」より

(…)
 さて、後藤新平の招聘によって、ヨッフェが来日したときからかぞえても約二年、 東郷はその間の日ソ交渉すべての過程に深く関与することによって、外務省を代表するソ連通としての基礎をいっそうかためたものと思われるが、 東郷が学んだ教訓の中には、ソヴィエト代表の執拗且つ粘りづよい交渉態度もまじっていたにちがいない。 しかも、東郷にはこの教訓を生かしきる素質と頭脳があった。 後年、東郷は、駐ソ大使の時代に、当時の外相モロトフをして、これほど「自国の利益を頑強に主張する人物」はないと、 感嘆のことばをはかせることになるのである。
 くりかえしになるが、ここでもう一度「欧米局第一課」の大正十二年(一九二三)十一月初旬の起案と、 十二月十四日の起案(ただし、結語の部分をのぞく)とをふりかえると、この双方に流れている東郷のソ連観は、 イデオロギー的な偏見から解放されたリアリズムの色調をつよく帯びていた。これが共産主義にたいする無知にもとづくものでなく、 むしろ既知であるが故の「自信」にもとづくものであることは、ここでふたたび指摘しておかなければならない。
 ボルシェヴィキ政権という「異質の他者」の出現は、日本の支配層を震撼させ、政府および外務省首脳を恐怖と嫌悪に駆りたてたが、 東郷は「異質の他者」とも共存してゆくことが、国際社会における「自明の理」であると信じているかの如くであった。
 いや、国際社会にかぎらず、そもそも苗代川という、戦前の日本社会の辺境の地から身をおこした東郷にとって、 「異質の他者」との遭遇は、人生の日常茶飯事であったのかもしれない。
(…)

「伝記 東郷茂徳」
「第三章 最初の本省勤務」より

書庫(42):萩原延壽「東郷茂徳 伝記と解説」より

(…)

 もうひとつの記録は、それから約二年後の昭和十一年(一九三六)八月、 ナチに追われたユダヤ系ドイツ(オーストリア)の音楽家ローゼンストック(Joseph Rosenstock)が、 新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の指揮者に就任するため来日した機会に、ドイツの駐日臨時代理大使(大使館参事官) ネーベル(Willi Noebel)によって作成された報告「ユダヤ人音楽家の採用に関する日本政府の態度」である。 この報告は全文が東郷との会見記になっているので、すこしながくなるが、その内容をくわしく見ておきたい。

「数日前、新交響楽団の指揮を引き受けたローゼンストックの到着によって、在日ユダヤ人音楽家の社会は、 残念ながら、さらに強力なものになった。」

 こう書き出したネーベルは、つぎにローゼンストックの東京到着を報じた『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)の記事 (昭和十九年八月二十三日号)を取り上げ、これを良いきっかけにして、東郷欧亜局長にユダヤ人音楽家の問題を正式に提起したと、 ことばをつづけた。
 この『東京日日新聞』の記事は、 「美しき独墺音楽の種子を日本に移植 ユダヤ系世界的楽人が東京駅頭で握手に誓ふ」という見出しをかかげていたが、 もうひとりの音楽家というのは、やはりナチに追われて来日し、 この年の四月から上野の東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)で教鞭をとっていたヴァイオリニストのウィリ・フライ(Willy Frei)のことである。 この記事は、ローゼンストックが、フライ、クロイツァー(Leonid Kreuzer)などの、 「ナチスの専制文化政策に対抗して母国をおはれた在留ユダヤ系楽人を糾合」して、 ドイツ・オーストリア音楽の精髄を日本につたえることを熱望していると述べ、 さらに記者会見でのローゼンストックの発言から、「私は単なる音楽家だから政治のことは知りませんが、 ドイツの音楽が日に日に衰へてゆくことは事実です。 楽聖といはれるフルトヴェングラー氏(ベルリン・フヰル・ハーモニーの指揮者。原注)もタクトを振ることを止められてしまひました。」 を引用していた。
 ローゼンストックの場合、この記事ばかりでなく、ナチの政権獲得後も、職を追われたユダヤ系音楽家を組織し(「ユダヤ文化連盟」)、 これに拠ってオペラ上演などの音楽活動を継続するというベルリンでの「前歴」があったため、 ドイツ大使館側はいっそう神経をとがらせたのであろう。 しかし、前年の九月、ユダヤ人の市民権剥奪、ユダヤ人との結婚禁止などを定めた、悪名高いナチの「ニュルンベルク法」が施行されるにおよんで、 そういう活動にも終止符が打たれた。

 さて、『東京日日』の記事を手にして東郷に面会をもとめたネーベルは、つぎのように切り出した。
 ドイツ大使館はこの数年来、少数の例外をのぞくと、日本におけるドイツ音楽が圧倒的にユダヤ人によって代表されているのを苦々しく思ってきた。 今日までこの問題を日本政府に持ち出さなかったのは、これまでのところ、 在日ユダヤ人音楽家たちがドイツにたいする中傷活動をさしひかえてきたからである。 しかし、ローゼンストックの到着によって、事情は一変したように思われる。 『東京日日』の記事が示唆しているように、今後一種の「亡命者クラブ」の如きものが出来上り、かれらが団結して行動を開始し、 やがてあの記事に出ているような、いや、もっと不愉快な発言で日本の世論を煽動し、日独関係に不幸な影響をもたらす危険が生じてきたからである。
 こう述べたネーベルは、つづいて具体的な提案に移り、日本政府は日独関係を考慮して、ユダヤ人音楽家の採用を中止させ、 そのかわりに「ドイツ人の血を引く音楽家」を採用させることはできないものかと、東郷にただした。 ネーベルも、相手が私立機関の場合、政府が「影響力」を行使するのはむずかしいことを認めたが、 公立機関と準公立機関、たとえば官立の大学・高等専門学校や放送交響楽団の場合、政府は「なんらかの措置」を講じることができるのではないかと、 東郷に迫った。
 これにたいする東郷の答えは、ネーベルによって、つぎのように報告されている。

「東郷氏は、わたしの提案をまったく拒否する態度をとった。そして、大要つぎの如く述べた。」
「周知のように、日本の世論は、ユダヤ人問題にたいして、ドイツの世論とはまったく異なる立場をとっている。 多くの分野の日本人のあいだに、『追放されたユダヤ人』にたいする同情すらあることを否定できない。 この純粋に原則的な観点からいっても、日本の世論によってユダヤ人を敵視するものとみなされ、人種差別に加担するものと解されるような、 なんらかの措置を日本政府が講じることは不可能である。」
「たとえこの点をまったく度外視するとしても、なんらかの措置を講じることは、技術的にみてほとんど不可能である。 というのは、日本の慣例では、研究所、学校、交響楽団などの機関は、教師、芸術家などの採用を決定するにあたって、 完全な自由を保持しているからである。これらの機関は、政府が人事問題に干渉することを好まない。 この点は、準公立機関の場合もおなじである。」

 東郷は、日本の世論に関するかぎり、ユダヤ人音楽家の存在によって、日独友好関係にひびが入ることなどありえない。 自分はネーベルの言う三人のユダヤ人(ローゼンストック、フライ、クロイツァー)について、何んの心配もしていないと述べたのち、 さらに答えをつづけた。

「これら数名の人物がなんらかの行動をおこし、それが日独関係に悪影響をおよぼすなどと考えるのは、まったく馬鹿気ている。 悪影響をおよぼすおそれがあるのは、日本政府がドイツ側の要請に応じて、ユダヤ人を敵視する政策をとる場合である。 そうなれば、ユダヤ系ドイツ人の境遇に同情している日本人たちに、召集をかけることになるからである。」
「ただし、貴下の心配があたり、この三人のユダヤ人諸君がされに数名の参加者をえて、ひとつの確固とした組織を作り上げ、 ある種の政治活動を開始するようなことにでもなれば、はなしは別である。 万一そういうことにでもなれば、日本政府としても、大事にいたらぬうちにこれを防止することに、無関心ではいられない。 しかし、そのようなことは到底おこりえないと思う。自分も『東京日日』の記事をよんだが、現在の状態がそのままつづく可能性のほうが、 はるかに大きい。」

 最後にネーベルは東郷をなんとか説得して、この件をすくなくとも一度は文部省の該当部門の局長と協議することを承知させようとしたが、 無駄であった。

「東郷氏は、この提案にたいしても、おだやかなことば使いではあったが、しかし断固とした口調で、まったく無意味であると言って、 これを拒絶した。」

 ネーベルの報告は、つぎのように結ばれている。

「このような次第なので、会見の結果はきわめて不満なものであったが、ともかく日本政府の立場を知りえたのは、意味があったと思う。 この報告の内容は、ナチ党日本支部長に内密に知らせておいた。」

 にべもないとは、こういう東郷の態度をいうのであろう。ネーベルは取りつくしまもない様子で、引きさがっていったけはいである。
 一般的にいって、日本政府はナチ・ドイツと提携関係を結んでいた時期においても、たんにユダヤ人であるという理由だけで、 在日ユダヤ系外国人に迫害を加えたことはなかったといってよい。とくにこの会見がおこなわれたのが、 まだ昭和十一年(一九三六)という「早い時期」であったから、東郷以外のだれが欧亜局長の立場にいたとしても、結論としては、 おなじ答えをしたはずである。
 そこでその答えをどれほど明確なことばで語るか、つまり、その断わり方に関心がしぼられてくるが、 その意味で、このときの東郷の応対ぶりはみごとである。だれか他の人が椅子にすわっていたとしたら、 こうも仮借ないことばをつらねて、ドイツ側の要請をはねつけたかどうかと、うたがってみたくなるほどである。 このネーベルの報告は、交渉や論争における東郷の「非妥協性」がどういうものかを、よくつたえている。
 ここで付け加えておきたいのは、東郷からこのようやあしらいをうけたネーベルが、大使ディルクセン帰国中の代理をつとめる地位にいたことと、 この報告がベルリンのドイツ外務省に送付されていたことである。このときから約一年三ヶ月後に、 東郷はそのベルリンに大使として赴任する。やがて東郷がナチ・ドイツの首都で、いわば「好ましくない人物」 (persona non grata)の如き扱いをうける遠因は、このあたりにもひそんでいたのかもしれない。

(…)

「解説 『時代の一面』について」
「2 欧米(欧亜)局長」より

2015年7月2日木曜日

2015年7月1日水曜日

書庫(41):牛村圭「「文明の裁き」をこえて」より

(…)
 東郷茂徳は、昭和十六(一九四一)年十月外相に就任以来、日米交渉を成立させるべく邁進して徹底的に開戦に反対し、 またのち鈴木貫太郎内閣の外相として、戦禍の増大を少しでも食い止めるため、ポツダム宣言の受諾を主張して真っ向から軍部と対決した人だった。 それは今日多くの記録が語ってくれる。外務省官僚としての東郷に親しく接した人たちの東郷評は、「孤高の性格のうえに、冷静厳格」あるいは、 「だれに対しても相当きびしい態度に出る人」という、東郷の外相当時の行動を裏書きするものである。 また満州事変のころから東郷と親交にあった共同通信の森元治郎記者は、

 彼は今更云つても始まらないと黙つて引込む男ではない。…(中略)…彼には法律家のような頭脳に、強靭無類な性格が交錯し、 公私何れの場合でも最も不利な而も受身な局面にぶつかると恐る可き底力を出した。

 と評した。
(…)

(「第3章 「私人の間の気がね」と「腹藝」―東郷茂徳外相の論理」より