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ところが、開戦の翌年の八月ごとになると、大東亜省設置問題が起った。
つまり大東亜省を新設して、東亜の諸地域―ほとんどが占領地域である―をその管轄化に入れ、
外務省の所管外に置こうとしたのである。
外務省としては、まず、東亜の諸国とそれ以外の諸国とをちがった者で管轄するのでは外交の一元化が乱される、
つぎに独立を尊ぶ東亜の諸民族が日本から属国視されるように感じて、戦争への協力が得られなくなる、
という二点をあげて、つよく反対した。
さきに述べた貿易省問題と似たような問題ではあったが、今度の場合は戦時中でもあるし、
陸軍の方では、もしも前のときのような行動をとるなら、外務省を包囲するといううわさもあった。
それで今度は、省内の人が結束して決起するようなことはしないで、普通の交渉でやっていた。
ところが交渉がうまくゆかず、最後は東郷外相が、閣議で東条首相と一騎打ちで三時間ぐらい対決して、
前述のように、外政の不可分なことと東亜の諸民族に悪影響を与えることとを挙げて、
だいぶ激しく論戦した。ほかの大臣はほとんど発言していない。
それでも議がつきず、休憩中に東郷外相はすく近くの官邸に帰ってきた。
その間に、東条首相から単独辞職をすすめられたが、東郷外相は断わったという。
大臣がこの閣議に出かける前に私たちも二、三人で官邸に行き、
あなたは単独辞職を勧められても、決してそれを引き受けてはいけない、あくまで頑張って下さいと言って、
東郷さんを激励した。その時は、東郷さんは機嫌の悪い顔をしていたが、やはりそのとおりになったわけである。
すると、官邸に賀屋蔵相がやってきて辞職を勧告した。
しかし、東郷さんはきかない。
陸海軍省の両軍務局長が来たが、それでもだめだった。
それから最後に島田繁太郎海軍大臣がやってきて、宮中ではこの際政変を好ませられない、と言われた。
そこまでくればもうこれ以上聖慮を煩わすのは忍びないといって、非常に残念ではあるが、
東郷さんは外相をやめることになり、私もいっしょに次官の職を去った。
このときのいきさつは、『木戸日記』に出ている。多分閣議の休憩中であろう、
東条首相が参内して、こうなっては総辞職のほかありません、と上奏したので、
陛下は驚かれ、ああ、それは困ると言われたのである。
陛下としては時局重大なときであり、東条の施政のやり方がどうかというところまで、
まだ詳しくご承知になっておられないころでもあった。
しかし当時の東条首相のやり方には、もう秘密警察による憲兵政治が目についた。
東郷外相に、一身上の誹謗を放つ。とくに東郷さんの奥さんはドイツ人なので、
なにかけしからんことをいう。そうしたやり方には、おそらく私たちがいちばんはじめに気づいたのかも知れない。
東郷さんと重光さん 東郷さんのあとは、情報局総裁だった谷正之さんが外相を兼任し、
昭和十八年四月には最後に駐英大使だった重光さんが外相となった。
東条内閣が昭和十九年七月にたおれたのちも、重光さんは小磯内閣に留任した。
重光さんと東郷さんを比較してみると、東郷さんは外務省の本流ではなく、
重光さんの方が本流になる。重光さんは本省の課長時代から中国問題を処理したのをはじめ、
上海総領事、駐華公使など中国関係の要職をつとめ、次官もやっている。
当時は、中国問題がいちばんの重大時だった。
東郷さんは最初、奉天に暫く赴任していたが、あとはずっと欧米で、とくにスイス、ドイツあたりがながい。
本省では、シベリア出兵当時から欧米局の第一課長で、ソ連との国交回復の問題とずっと取り組んでいた。
その後、松平恒雄欧米局長が駐米大使になったときにアメリカについて行き、
そこに四年くらいいたが、あまりぱっとしなかった。それからまたベルリンに行き、
昭和七年(一九三二年)のジュネーブの一般軍縮会議のとき事務総長になり、
帰ってきてから欧亜局長になった。人柄からいっても、東郷さんはごく地味だった。
しかし昭和八、九年ごとになると、重光さんが外務次官、東郷さんが欧亜局長で、
外務省の両雄とみられていた。東郷さんは、陸海軍を相手にテーブルを囲んで正式に交渉するときは、
正面から激しく対峙するほうで、その点では外務省の第一人者だった。
新聞記者の間では、東郷さんの評判は非常によかった。そして欧亜局長をしていることから、
東郷さんは外務大臣候補といわれていた程で、そうしたことは当時としては珍しかった。
東郷さんは性格的にもあまり派手な交際はしない人だが、政界の要所を占めている政治家とは、
そうとう連絡の手を打っていた。だから決してよい意味の野心がないわけではなかった。
近衛文麿公と岡田啓介大将と広田さん、この三人との関係がもっとも深い。
外務省では広田さんの直系にあたる。
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第六章 日米開戦
1.東郷外相を補佐して
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