それは美しい夏の朝だった。
涼やかな微風が窓のカーテンを揺らし、近くの林から鳥たちが鳴き交わす声が聞こえていた。
ひんやりとした空気は甘い香りに満ち、その日の上天気を予感させた。
輝かしい夏の日の始まり、今日も草原では、蜂や蝶たちが花々の蜜を求めて、忙しく飛び交うことだろう。
七月二十三日、私たちは軽井沢の鹿島の森の小さな夏の家にいた。
高原の夏は始まったばかりだった。
蝶々や蜂たちに劣らず、私にとっても忙しい日になるはずだった。
ちょっと目を離したらたちまち、帽子もかぶらずに外に飛び出してしまう双子の男の子を、
麦わら帽子をひらひらさせながら追いかけなくてはならないのだから。
子どもたちは五歳と半年。
愛らしいワンパク盛りだった。
仕事の都合をつけて東京からやってきた夫ともゆっくり話をしたかったし、二階の寝室で目をさました私は、
まださめきらない頭の中で、一日のあれやこれやをぼんやりと考えていた。
電話のベルの音が聞こえた。
こんな朝早くどこからの電話だろう…。やがて階下で受話器がとられる。
二言三言の話声がしたあと、家の中がしんと静まったように感じられた。
取りつがれた電話に出た私の耳に、なんともいいようのない、重くくぐもった母の声が聞こえた。
生まれてはじめて聞くような母の声だった。
「パパガ死ンダ」
その瞬間、輝くばかりの夏の朝はひかりを失った。
小鳥のさえずりも聞こえず、こぼれるほどに咲いていた花々ももう目に入らなかった。
二階から下りてきた夫に、電話で聞いた言葉をそのまま繰り返して、私は棒のように立っていた。
子どもたちの留守中の世話を頼み、いちばん早い汽車に乗った。戦争が終わって五年、列車事情の悪い時代だったが、
その日は不思議に空いていて座席に座れたのをおぼえている。
「いせ、大丈夫か?」
窓際に腰掛けた私の顔を覗きこんで夫がそういい、私はこくんとうなずいて、「ダイジョウブ」とかすれたような声でやっと答えた。
その言葉が、その日私が話したただ一言だったような気がする。
昭和二十五年の夏、父の死の知らせが届いた日だった。
その日の未明、太平洋戦争の開戦時の東条内閣と、終戦時の鈴木内閣の二度の外務大臣を務めた父、
東郷茂徳は、A級戦犯として巣鴨プリズンに囚われの身のまま、だれに看取られることなく六十七歳の生涯を閉じていた。
(…)
(「夏の終わり 父東郷茂徳の死・昭和二十五年」)
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