(…)
もうひとつの記録は、それから約二年後の昭和十一年(一九三六)八月、
ナチに追われたユダヤ系ドイツ(オーストリア)の音楽家ローゼンストック(Joseph Rosenstock)が、
新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の指揮者に就任するため来日した機会に、ドイツの駐日臨時代理大使(大使館参事官)
ネーベル(Willi Noebel)によって作成された報告「ユダヤ人音楽家の採用に関する日本政府の態度」である。
この報告は全文が東郷との会見記になっているので、すこしながくなるが、その内容をくわしく見ておきたい。
「数日前、新交響楽団の指揮を引き受けたローゼンストックの到着によって、在日ユダヤ人音楽家の社会は、
残念ながら、さらに強力なものになった。」
こう書き出したネーベルは、つぎにローゼンストックの東京到着を報じた『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)の記事
(昭和十九年八月二十三日号)を取り上げ、これを良いきっかけにして、東郷欧亜局長にユダヤ人音楽家の問題を正式に提起したと、
ことばをつづけた。
この『東京日日新聞』の記事は、
「美しき独墺音楽の種子を日本に移植 ユダヤ系世界的楽人が東京駅頭で握手に誓ふ」という見出しをかかげていたが、
もうひとりの音楽家というのは、やはりナチに追われて来日し、
この年の四月から上野の東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)で教鞭をとっていたヴァイオリニストのウィリ・フライ(Willy Frei)のことである。
この記事は、ローゼンストックが、フライ、クロイツァー(Leonid Kreuzer)などの、
「ナチスの専制文化政策に対抗して母国をおはれた在留ユダヤ系楽人を糾合」して、
ドイツ・オーストリア音楽の精髄を日本につたえることを熱望していると述べ、
さらに記者会見でのローゼンストックの発言から、「私は単なる音楽家だから政治のことは知りませんが、
ドイツの音楽が日に日に衰へてゆくことは事実です。
楽聖といはれるフルトヴェングラー氏(ベルリン・フヰル・ハーモニーの指揮者。原注)もタクトを振ることを止められてしまひました。」
を引用していた。
ローゼンストックの場合、この記事ばかりでなく、ナチの政権獲得後も、職を追われたユダヤ系音楽家を組織し(「ユダヤ文化連盟」)、
これに拠ってオペラ上演などの音楽活動を継続するというベルリンでの「前歴」があったため、
ドイツ大使館側はいっそう神経をとがらせたのであろう。
しかし、前年の九月、ユダヤ人の市民権剥奪、ユダヤ人との結婚禁止などを定めた、悪名高いナチの「ニュルンベルク法」が施行されるにおよんで、
そういう活動にも終止符が打たれた。
さて、『東京日日』の記事を手にして東郷に面会をもとめたネーベルは、つぎのように切り出した。
ドイツ大使館はこの数年来、少数の例外をのぞくと、日本におけるドイツ音楽が圧倒的にユダヤ人によって代表されているのを苦々しく思ってきた。
今日までこの問題を日本政府に持ち出さなかったのは、これまでのところ、
在日ユダヤ人音楽家たちがドイツにたいする中傷活動をさしひかえてきたからである。
しかし、ローゼンストックの到着によって、事情は一変したように思われる。
『東京日日』の記事が示唆しているように、今後一種の「亡命者クラブ」の如きものが出来上り、かれらが団結して行動を開始し、
やがてあの記事に出ているような、いや、もっと不愉快な発言で日本の世論を煽動し、日独関係に不幸な影響をもたらす危険が生じてきたからである。
こう述べたネーベルは、つづいて具体的な提案に移り、日本政府は日独関係を考慮して、ユダヤ人音楽家の採用を中止させ、
そのかわりに「ドイツ人の血を引く音楽家」を採用させることはできないものかと、東郷にただした。
ネーベルも、相手が私立機関の場合、政府が「影響力」を行使するのはむずかしいことを認めたが、
公立機関と準公立機関、たとえば官立の大学・高等専門学校や放送交響楽団の場合、政府は「なんらかの措置」を講じることができるのではないかと、
東郷に迫った。
これにたいする東郷の答えは、ネーベルによって、つぎのように報告されている。
「東郷氏は、わたしの提案をまったく拒否する態度をとった。そして、大要つぎの如く述べた。」
「周知のように、日本の世論は、ユダヤ人問題にたいして、ドイツの世論とはまったく異なる立場をとっている。
多くの分野の日本人のあいだに、『追放されたユダヤ人』にたいする同情すらあることを否定できない。
この純粋に原則的な観点からいっても、日本の世論によってユダヤ人を敵視するものとみなされ、人種差別に加担するものと解されるような、
なんらかの措置を日本政府が講じることは不可能である。」
「たとえこの点をまったく度外視するとしても、なんらかの措置を講じることは、技術的にみてほとんど不可能である。
というのは、日本の慣例では、研究所、学校、交響楽団などの機関は、教師、芸術家などの採用を決定するにあたって、
完全な自由を保持しているからである。これらの機関は、政府が人事問題に干渉することを好まない。
この点は、準公立機関の場合もおなじである。」
東郷は、日本の世論に関するかぎり、ユダヤ人音楽家の存在によって、日独友好関係にひびが入ることなどありえない。
自分はネーベルの言う三人のユダヤ人(ローゼンストック、フライ、クロイツァー)について、何んの心配もしていないと述べたのち、
さらに答えをつづけた。
「これら数名の人物がなんらかの行動をおこし、それが日独関係に悪影響をおよぼすなどと考えるのは、まったく馬鹿気ている。
悪影響をおよぼすおそれがあるのは、日本政府がドイツ側の要請に応じて、ユダヤ人を敵視する政策をとる場合である。
そうなれば、ユダヤ系ドイツ人の境遇に同情している日本人たちに、召集をかけることになるからである。」
「ただし、貴下の心配があたり、この三人のユダヤ人諸君がされに数名の参加者をえて、ひとつの確固とした組織を作り上げ、
ある種の政治活動を開始するようなことにでもなれば、はなしは別である。
万一そういうことにでもなれば、日本政府としても、大事にいたらぬうちにこれを防止することに、無関心ではいられない。
しかし、そのようなことは到底おこりえないと思う。自分も『東京日日』の記事をよんだが、現在の状態がそのままつづく可能性のほうが、
はるかに大きい。」
最後にネーベルは東郷をなんとか説得して、この件をすくなくとも一度は文部省の該当部門の局長と協議することを承知させようとしたが、
無駄であった。
「東郷氏は、この提案にたいしても、おだやかなことば使いではあったが、しかし断固とした口調で、まったく無意味であると言って、
これを拒絶した。」
ネーベルの報告は、つぎのように結ばれている。
「このような次第なので、会見の結果はきわめて不満なものであったが、ともかく日本政府の立場を知りえたのは、意味があったと思う。
この報告の内容は、ナチ党日本支部長に内密に知らせておいた。」
にべもないとは、こういう東郷の態度をいうのであろう。ネーベルは取りつくしまもない様子で、引きさがっていったけはいである。
一般的にいって、日本政府はナチ・ドイツと提携関係を結んでいた時期においても、たんにユダヤ人であるという理由だけで、
在日ユダヤ系外国人に迫害を加えたことはなかったといってよい。とくにこの会見がおこなわれたのが、
まだ昭和十一年(一九三六)という「早い時期」であったから、東郷以外のだれが欧亜局長の立場にいたとしても、結論としては、
おなじ答えをしたはずである。
そこでその答えをどれほど明確なことばで語るか、つまり、その断わり方に関心がしぼられてくるが、
その意味で、このときの東郷の応対ぶりはみごとである。だれか他の人が椅子にすわっていたとしたら、
こうも仮借ないことばをつらねて、ドイツ側の要請をはねつけたかどうかと、うたがってみたくなるほどである。
このネーベルの報告は、交渉や論争における東郷の「非妥協性」がどういうものかを、よくつたえている。
ここで付け加えておきたいのは、東郷からこのようやあしらいをうけたネーベルが、大使ディルクセン帰国中の代理をつとめる地位にいたことと、
この報告がベルリンのドイツ外務省に送付されていたことである。このときから約一年三ヶ月後に、
東郷はそのベルリンに大使として赴任する。やがて東郷がナチ・ドイツの首都で、いわば「好ましくない人物」
(persona non grata)の如き扱いをうける遠因は、このあたりにもひそんでいたのかもしれない。
(…)
「解説 『時代の一面』について」
「2 欧米(欧亜)局長」より
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