2015年6月30日火曜日

書庫(40):牛村圭「「文明の裁き」をこえて」より

テクノロジーに抗して
さて、『時代の一面』に見られる東郷茂徳の文明観の特徴、しかも先人陸奥の『蹇蹇録』には なかったものをさらに指摘しておかねばならない。それは、テクノロジー、すなわち機械が文明の中で占める位置への言及である。 明治初年の最も有名な西洋化の教師であった福沢諭吉はその著『文明論之概略』の中で「西洋文明を目標とすること」を説き、 一方、明治政府の方針も西洋化のもとに国作りを行うというものだった。その結果、日清戦争当時、陸奥外相が日本を 「西欧的新文明の国」と呼んだことはすでに見た。そういう「目標」と成り得ていた文明観に変化が訪れるのはちょうど世紀の変わり目、 直接のきっかけの一つとなったのは、前にも触れた、北清事変の鎮圧に向かった連合国軍の行動であった。 ドイツ軍の一部に至っては、戦いが終ったのちに到着したため、非戦闘員である中国人相手に略奪、暴行、そして殺戮を繰り返し「戦意」を満たした。 日本では、この堕落した文明の様を、『萬朝報』や『日本人』といったジャーナリズムが取り上げ、厳しく糾弾するばかりか原因の考察にものり出した。 こうしていつしか日本人の中に、西洋文明に対する一つの「言説」が生れてくる。 当時、余命幾許もなかった中江兆民は、この言説を簡潔に書き記している。

 但近日営を北清の野に連ね、聯して敵に当るに方り、彼等が大に其弱失の処を見はして、蛮野の風を発せしを見て、我邦軍人輩、 皆始めて彼等の所謂文明の往々形質の表に止まりて、理義に至つては我れと相下らず、或は大に我れに劣る有るを知れり。

 西洋文明は「形質」面、物質面では日本より優れてはいるものの、「理義」、つまり道理と正義の点では日本の方が上かもしれない、 という言説の出現である。この言説はやがて大正時代になると、テクノロジーで代表される「文明」に対する、 精神「文化」の優位という形へと展開していく。十九世紀人の陸奥宗光にはおよそ予想もできなかったであろう文明観の変化だった。 更に時代の下った日米開戦の翌年昭和十七(一九四二)年七月、雑誌『文學界』は、「近代の超克」をテーマに京都で座談会を開いた。 その席上でも、明治の文明の意義とその後の影響については大きな話題の一つとなった。 第一次大戦後、日本に広まった「アメリカニズム」に包含されている物質文明、機械文明に対する精神の優位を説くのが出席者の大勢だった。 そして、東郷茂徳もまた、テクノロジーを絶えず意識していた二十世紀の日本の外交官だった。
 今なお時折出現するさきの大戦に関する批判の一つに、日本はアメリカとの国力の差をまともに考えることなく無謀な戦いに突入していった、 というものがある。たしかに、 緒戦の勝利が華々しかったため開戦内閣の閣僚の中にも「現今の勢で進めば『ワシントン』まで攻めて行けるかも知れない」 といった現実感覚の欠如した発言を行った者もいたが、開戦前の昭和十六年十、十一月、たびたび開かれた連絡会議の場では、 アメリカの国力を過小評価していたのでは全くなかった。東郷外相自身、米国勤務の体験からアメリカの巨大さは十分承知していたし、 アメリカの生産能力については「其戦争遂行能力の偉大なることは日本現存工業等が足許にも及ぶべからざること」を、 連絡会議の出席者は明白に認めていた。だからこそ東郷は本稿初めの方で見たように、昭和十七年元旦の外務省員への訓示をはじめ、 さまざまな場で早期和平を説いたのだった。
 しかしながら、開戦の翌年秋、大東亜省設置をめぐって東條首相と対立して単独辞職をすることになった東郷には、 もう国策を動かす力はなくなっていた。貴族院議員という名誉職にはあったものの、日本の戦局の悪化を次のように把えることしかかなわなかった。

 敵は科学的に進歩した飛行機、電波探知器、海中聴音器其他の兵器を使用したのは勿論であるが、進撃も科学的であり徐々に押して来た訳で、 彼方が当初の布哇の成功に誇り個人的勇気を以てする猪突的行動に出たこと等が失敗の基となつたのではないかと思つた。

 近代戦において、「個人的勇気」は「科学」すなわちテクノロジーにはかなわなかったのである。
(…)

(「第9章 文明批評家 東郷茂徳 ―『蹇蹇録』と併せ読む『時代の一面』」より

2015年6月26日金曜日

書庫(39):東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」より

(…)
 この六日間、茂徳は、事態を一歩ずつ前進させるために、一つひとつの段取りに気を配ってきた。 十日の聖断を仰ぐ前には、首相に対し、陸相の辞任などにより、内閣の機能が脅かされることのないように注意して欲しいと内話し、 十二日には、バーンズ回答受諾を目指し、精力的な根回しに動いた。 その茂徳が、いつ聖断方式を心に決めたのかは、関係記録などを見てもはっきりしない。
 第1回の聖断については、重光葵が、近衛と連絡を取り、陛下に多くを煩わせるのを躊躇する木戸を説得した(九日)という説、 左近司国務相と米内海相の会談中、左近司が提案したという説、第二回は、木戸が、鈴木に説いた(十四日朝)という説などがあるが、 おそらくは鈴木首相自身、永く暖めてきた秘策だったのだろう。
 聖断を仰ぐための御前会議の設定に、能吏としての器量を発揮したのは迫水だった。第一回は、幹事も含めた最高戦争指導会議に平沼枢相を加え、 陛下の御臨席を仰いだが、招集には両総長の印が必要だった。緊迫した情勢下で、花押を改めてもらうのは難しいと判断した迫水は、 この事態を予期してすでに貰ってあった両総長の花押を無断で使い、会議を招集した。二回目は、政府(内閣)、統帥部、枢府が、 陛下のお召しにより参上するという異例の形式で、やはり迫水の発案によっている。
 二回にわたる御前会議は、まことに感動的なものだった。
 天皇は第一回目のお言葉で、「それならば、私の意見を述べよう。私の意見は、外務大臣の意見に賛成である」と述べられた。 本土決戦になった場合に予想される惨状、日本民族が絶滅する恐れ、それらを考えると、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任の処理など、 忍び難きを忍び、戦争をやめる決心をした、とのお言葉だった。
 十四日午前十時の臨時閣議に引き続き、第二回御前会議は、午前十時五十分に御文庫地下防空壕で開かれた。 主催した鈴木首相は、「外務大臣の意見に閣議の大多数は賛成であるが、統帥部を含め、反対の意見をお聞き願いたい」という形で議事を進行させた。 阿南陸相、両総長の再照会論のあと、天皇のお言葉となった。
 「私は、世界の現状と国内の事情とを充分検討した結果、これ以上は戦争を続けることは無理だと考える。 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、 この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。」
 茂徳のこれまでの考え、主張してきたことが、今、大御心のなかに語られていた。岳父の言葉を口述筆記していた文彦は、 珍しく感情を露わにした姿を心に刻んでいる。
 「聖断のあと、非常にエモーショナルだった。メモを口述しながら、涙を浮べていたね」(文彦)
 茂徳自身が、「誠に感激この上もなき場面であった。今日なおその時を想うとはっきりとした場面が眼の前に浮かび泪が自づとにじみ出る」 (『時代の一面』)と記した感慨以外にも、獄中のメモには、当時の心境についてこう触れている。
 ―終戦直後の感想 戦ひに負けたのはくやしい。併し勝敗の明かな戦争を続けて数百万の生霊を殺すのは人道に反し大和民族を亡ぼすことにもなる。 されば生命を犠牲にし終戦に力を致し之に成功したのは人生最高の義務を果したので、我事畢れりの感が胸一杯であった(Ⅰ-47)
(…)

「第六章 終戦内閣の外相 X.最後の六日間」より

2015年6月25日木曜日

2015年6月21日日曜日

書庫(38):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(I)より:昭和二十三年二月二十三日付池田俊彦宛書簡所収

不二に入る夕日の如くあかあかと燃し盡さむ殘る命を

ひたすらに道の光をおろがみて進み來し身のたじろぎはせじ

書庫(37):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(I)より

巨船(おおふね)の沈める後もわだつみは潮干潮滿ち其儘に行く

六十路過ぎ宇宙の姿ひたと見つ愛は進歩の大筋なるぞ

賤やしづしづの小田巻繰り返し同じを生くる更に厭はず

秋の日の清き光りに現し身も塵一つだに留めぬ思ひす

秋の日の澄み渡りたる大空に如來の姿と寫りやもする

休廷后春秋逝きてもきまりかぬむりの裁きの故とこそしれ

「テヘラン」の會合前に我計の行はれしならばと只歎くのみ
(「テヘラン」「ヤルータ」会議に関するホプキンスの手記を読みて)

月淸く薩摩濱邊に友つどい幼な昔を盡きずに語る

城山の崖にかゝりし櫻花あだに匂ひて眺めて飽かぬ

菊の花の咲きつらねたる見晴らしに舞ふや告天鳥(ひばり)の我を忘れて

箱庭に立てる篠のゝ月影に動くすがたのらうたけきかな

夕野の月夜を淸み梅の花小峯の宿に匂ひ渡りつ

つゆ晴れの月夜に咲ける藤の花吹き來る風に水の面に舞ふ

我庭の小隅に咲ける桃の花紅(くれない)匂ひ照りて輝く

颱風の去りたる朝の靜かけくさやけき光り天地に滿つ(九月十七日)

滿天の星を眺めて天地の無限の力をおろがみてあり

世の動き運賦と見べきこと多し末(すゑ)の定めに心騒がず(個人と大衆の関係につき)

冬は來ぬ麻布の児等はまさけくや巣鴨の住居寒さ身に沁み

2015年6月20日土曜日

巡礼(9):青山霊園 2015年6月20日

2015/6/20
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2015/6/20
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2015/6/20
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書庫(36):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(I)より

天日を貫く誠はとこしへに滅びぬものを何にか思はん

己れ我れ神になりたる氣持もて世の人々にゆるやかぞあれ

(九月以降の分)
人の世は風に動ける波の如と其わたつみの底は動かじ

世の事は聴きもほりすれわれに世を動かす自由ありたればこそ

我はこゝに慎み居れり但しこれ御國に對するものとこそ知れ

人の世は岩に碎くる水泡(みなは)なれ其の元河(もとかわ)は流れて息まず

世の人の多くは旅路の伴(つ)れなれや朝(あした)に語りて夕に別る

丈夫の力の限り盡し來ぬ獄屋の夜を靜かに眠る

危かる命を各(おの)は生き堪えぬさらによき世にあはざらめやも

時折は高嶺の上に獨り居り眠れる下界を見渡す心地す

鐵窓に來觸る風のさやけきに秋の風の動くを知りぬ

朝毎に空のさやけさ加はりぬ秋の心の動くなるべし

あぢさいの花を見しのち花を見ず秋の野原を只偲ぶのみ

眞心が政事にも行きわたる來らん世こそ待ち遠しかな

神代より黒潮の香に洗われし笠さごの岩神さびて立つ

薩摩瀉黒潮寄する潮の香にますら丈夫は健(たけ)くこそあれ

厄日前頻りに動く雨雲の世界のさまにさもよく似たり

秋雲のとく動くには非ずして人の心の騒ぐなりけり

高原のさやかに澄める秋空の雲の心にわれよく似たり

秋の日の澄める心の深みつゝ憂國の思ひなどかしげしき

運命の逆立つ波を漕ぎ抜けて人の自信は潮(しほ)滿つがごと

2015年6月16日火曜日

2015年6月14日日曜日

書庫(35):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(I)より:八月九日、エヂへ

こゝにありてい蒸し暑さの時折は山の住居を偲びつるかも

ここの夏涼しき雨の降る時は山家のストーブ眼交いに見る

夕立に庭に水溜め芝舟を浮べて遊びし頃をしぞ念ふ

獄庭に蝉は來鳴けりあさっては立秋なりとぞ時は動きて

三とせ來世の事凡てよくならず人の進歩のさも難きかな

世の人よ政治は天下の爲めなるぞ私心を捨てよ眞心を持て

三とせ前原子爆弾投下さる世界歴史に特筆すべし(八月六日)

弓矢もて殺すはわろし鐵砲しよしと言ふごと原子爆弾は

書庫(34):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(I)より:八月二日、イセへ

入歯して一とせ経しも今も猶我歯とは思へず不自由多し

たまさかによき人に遭ひもろもろを語りしことのいとも嬉しき

巡礼(7):青山霊園 2015年6月14日

2015/6/14
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