2015年6月26日金曜日

書庫(39):東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」より

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 この六日間、茂徳は、事態を一歩ずつ前進させるために、一つひとつの段取りに気を配ってきた。 十日の聖断を仰ぐ前には、首相に対し、陸相の辞任などにより、内閣の機能が脅かされることのないように注意して欲しいと内話し、 十二日には、バーンズ回答受諾を目指し、精力的な根回しに動いた。 その茂徳が、いつ聖断方式を心に決めたのかは、関係記録などを見てもはっきりしない。
 第1回の聖断については、重光葵が、近衛と連絡を取り、陛下に多くを煩わせるのを躊躇する木戸を説得した(九日)という説、 左近司国務相と米内海相の会談中、左近司が提案したという説、第二回は、木戸が、鈴木に説いた(十四日朝)という説などがあるが、 おそらくは鈴木首相自身、永く暖めてきた秘策だったのだろう。
 聖断を仰ぐための御前会議の設定に、能吏としての器量を発揮したのは迫水だった。第一回は、幹事も含めた最高戦争指導会議に平沼枢相を加え、 陛下の御臨席を仰いだが、招集には両総長の印が必要だった。緊迫した情勢下で、花押を改めてもらうのは難しいと判断した迫水は、 この事態を予期してすでに貰ってあった両総長の花押を無断で使い、会議を招集した。二回目は、政府(内閣)、統帥部、枢府が、 陛下のお召しにより参上するという異例の形式で、やはり迫水の発案によっている。
 二回にわたる御前会議は、まことに感動的なものだった。
 天皇は第一回目のお言葉で、「それならば、私の意見を述べよう。私の意見は、外務大臣の意見に賛成である」と述べられた。 本土決戦になった場合に予想される惨状、日本民族が絶滅する恐れ、それらを考えると、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任の処理など、 忍び難きを忍び、戦争をやめる決心をした、とのお言葉だった。
 十四日午前十時の臨時閣議に引き続き、第二回御前会議は、午前十時五十分に御文庫地下防空壕で開かれた。 主催した鈴木首相は、「外務大臣の意見に閣議の大多数は賛成であるが、統帥部を含め、反対の意見をお聞き願いたい」という形で議事を進行させた。 阿南陸相、両総長の再照会論のあと、天皇のお言葉となった。
 「私は、世界の現状と国内の事情とを充分検討した結果、これ以上は戦争を続けることは無理だと考える。 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、 この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。」
 茂徳のこれまでの考え、主張してきたことが、今、大御心のなかに語られていた。岳父の言葉を口述筆記していた文彦は、 珍しく感情を露わにした姿を心に刻んでいる。
 「聖断のあと、非常にエモーショナルだった。メモを口述しながら、涙を浮べていたね」(文彦)
 茂徳自身が、「誠に感激この上もなき場面であった。今日なおその時を想うとはっきりとした場面が眼の前に浮かび泪が自づとにじみ出る」 (『時代の一面』)と記した感慨以外にも、獄中のメモには、当時の心境についてこう触れている。
 ―終戦直後の感想 戦ひに負けたのはくやしい。併し勝敗の明かな戦争を続けて数百万の生霊を殺すのは人道に反し大和民族を亡ぼすことにもなる。 されば生命を犠牲にし終戦に力を致し之に成功したのは人生最高の義務を果したので、我事畢れりの感が胸一杯であった(Ⅰ-47)
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「第六章 終戦内閣の外相 X.最後の六日間」より

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