2018年10月8日月曜日

書庫(61):『東京裁判A級戦犯25被告の表情』(読売法廷記者)より

脅迫された外交官 東郷茂徳被告

鹿児島県出身 67歳
駐独大使(昭和12年10月)
駐ソ大使(昭和13年10月)
東條内閣外務大臣兼拓務大臣(昭和16年10月~同17年3月)
鈴木内閣外務大臣兼大東亜大臣(昭和20年)


 "開戦外相"東郷被告が自身一生の信念をかけたという口供書(日本文130ページ)が朗読されたのは12月17、18両日であった。
 東郷被告は彼の立場を「戦争を好まぬ平和主義者」という主張の上におき、軍部の抑圧下に外務省本来の機能が満洲事変以来極度に失われていった過程を描き出したのであったが、それは木戸被告が「私の一生は軍国主義者と闘うことに捧げられてきた」と終始軍部の罪禍を強調したのと著しい相似点をなしていた。
 口供書は6つの部分にわけられ第1章一般問題、第2章ソ連関係、第3章ドイツ関係、第4章英米関係及び太平洋戦争、第5章戦時外交及び大東亜関係、第6章鈴木内閣及び終戦となっている。
 対ソ協調論者であり三国同盟反対論者であり英米との持続的平和論者であったとする東郷被告が何故東條内閣の外相として真珠湾攻撃をもって開始された太平洋戦争に同意したのであったか、検察側の主たる訴追が疑いもなくこの1点にかゝっていたと同じように東郷被告の自己弁論の中核もまたこゝにあった。東郷口供書には大要次の如く述べられている。
『昭和16年10月17日余は東條大将より外相として入閣を求められた。余はもし陸軍が支那駐兵問題で強硬態度をとるならば交渉継続は無意味であり外相就任は拒絶するほかないと述べたが東條は駐兵問題を含め日米交渉の諸問題は再検討すると保証を与えたのえ就任を受諾した。勿論軍部が日米交渉に就いて強硬態度をとるであろうことは当初より明らかであったが余はなお両国のために事態を解決し平和を維持する幾分かの余地があると信じたからである。10月23日の最初の連絡会議で杉山参謀総長は急速解決の要を強調し、9月6日の御前会議決定は9月中は外交を主とし戦争準備を従とするも10月上旬よりは戦争準備を主とし外交を従とするにあったと主張した。塚田参謀次長はさらに悲感的非妥協的で日米交渉の妥結は全く見込みなく英米がすでに経済断交をし日本の包囲を強化しているから直ちに自衛の手段をとるべきあると主張した。余はかゝる統帥部の態度に反対し意見の対立を解決するため連日連夜連絡会議を続け議論を交えた。交渉に関する重要点は三国同盟問題、中国における通商無差別問題及び駐兵問題の三であった。野村大使の報告によれば最初の二点は大体了解が成立したとのことであった。よって余は連絡会議で未解決の最重要問題と認められた中国の駐兵問題につき米国と合意に達するために出来うる限りの譲歩をすべく努力を集中した。しかし連絡会議の多数は中国の特定地域よりの撤兵の原則には反対特に陸軍側は特定地域における無期限駐兵の必要を強調した。余はこれに反対し期限付駐兵の同意を得たが余が豊田案の五年を提案したのに対し強く反対され結局大体二十五年とすることに決定した。これに関連して仏印問題につき余は協定成立の場合直ちに南部仏印より撤兵する件につき陸軍の同意を得た。余は十月下旬の連絡会議の動きから予想した陸軍の強硬態度と同様に海軍の態度が強硬なのに驚いた。余は海軍の長老たる岡田大将に使を派し海軍の態度緩和を申入れた。かくて甲案、乙案の基礎の上に交渉を進めるよう決定したがその後の連絡会議の大勢は交渉決裂の場合戦争また止むを得ずとの見解に達し陸軍側は必勝を確認、海軍は緒戦の成功を確信していた。東條は戦争全般についても勝算確実とのべ嶋田海相は悲観の要なしと言明永野軍令部総長は即時決定の要を力説海軍はさらに迎撃作戦にも自信ありと述べた。余はかゝる軍の保証を信じ得なかったが余の手許には軍事力判定の資料がないので軍部に反駁することが出来なかった。たゞその際残された唯一の点は余が辞職することにより事態をへんかさせうるか否かであったが従来重要問題につき助言を得ていた元首相廣田氏の意見では余が辞職すれば直ちに戦争を支持する人が外相に任命されるだろうから現職に止って平和維持のため全力を尽すべきだとあり、周囲の事態から余は東條に同意の旨をのべた。こゝに至って我々は再び対米交渉をいつまで持続するかの交渉期間の問題にぶつかった。十一月初め統帥部側は戦争不可避の場合は十二月初旬戦争開始の前提の下に作戦準備を行う必要ありとした。余は交渉に期限を付することは交渉成立を防げるとの理由で反対したが容れられず交渉を一段と困難にした。戦争準備は九月六日決定以来進められていたが軍の極秘事項として連絡会議にも知らされず、艦隊が単冠(ヒトカップ)湾に集結出港したことも第一次作戦目標が真珠湾であったことも余は全く知らなかった。甲案に対し米側は予期に反し興味を示さなかったので十一月二十日乙案を提出せしめたが十一月二十六日ハル国務長官は十項にわたる案を野村、来栖両大使に手交した。右提案を報ずる電報は二十七日に届いた。同日連絡会議が開かれハル・ノートを論議したがこれに対する我々の感じは一緒だった。米国は明らかに平和的解決のための合意に達する望みも意思も持っていないと感じた。日本は長年の犠牲の結果をすべて放棄するのみならず極東における大国の一つたる国際的地位をも捨てることを求められたのである。自衛上残された唯一の途は戦争であった。二十八日午前十時開会の閣議十五分前東條首相嶋田海相と野村来栖両大使よりの具申案及びハル・ノート全文につき協議した。二人とも具申案については時局を収拾するのは到底不可能であるとの意見だった。閣議の途中午前十一時半参内拝謁に先立ち木戸内大臣と会見しハル・ノートを説示し両大使具申案につき協議した。木戸はハル・ノートに失望の意を示し両大使の意見については「これでは仕方がない、かゝる提案で纏めようとするならば内乱になるだろう」といったかくの如く政府首脳部にも実現の自信なく内大臣も賛同せず何れの方面も責任をとりえないような提案だったので陛下には上奏されなかった。我々はこれを連絡会議で検討し米国もまた戦争を予期していると認めた。余は再び辞職を考えた。しかし余の辞職により軍部を抑制し得る強力内閣の更迭をみても米側にはもはや妥協の意思を全然なく事態の解決に何ら役立たぬと考えた。この上はあえて職に止まり最後の瞬間まで戦争回避に努力し不幸戦争となった場合はその早期終結に全力を尽すことに決心した。そのため十二月一日の開戦決定に先だち余は野村大使に交渉を打切ることのないよう訓示した。これは平和的解決のため最後の希望も捨てずに努力したために外ならず、検事側は作戦準備のための時を稼ぐ目的で見せかけの外交々渉を行い詐欺と不信をあえてしたという主張は当らない。』

2018年9月30日日曜日

極東国際軍事裁判速記録第334号 昭和22年12月15日(3)

○ブレークニー弁護人 法廷証3609号を朗読します。
〔朗読〕
 私は1932年5月10日から1933年5月16日迄外務次官でありました。その間1933年私は外務次官として当時外務省欧米局長であつた東郷茂徳が外務大臣内田康哉に提出する為起草した「国際連盟脱退後に於ける帝国の対欧米外交政策」と題する報告書を検討し閲読したことがあります。私は弁護側文書第146号を示されましたが同文書が前記の文書であり、日本語で書かれ、96頁より成り、当時私が読んだ報告書原本に相違ないことを認めます。
   1947年1月31日
          東京に於て
             有田 八郎(署名)
 証人の確認した文書、すなわち弁護側文書146号を証拠として提出いたします。提出された翻訳には載つていませんが、原本には極秘と記されていることを申し上げます。
○キーナン検察官 検察側は東郷被告の外務省欧米局長であつた当時の、1933年4月の半ばごろつくられましたところの、このあまりにも厖大なる文書の提出に対して異議を申し立てます。そうしてこの文書は、日本、ヨーロッパ及びアメリカの関係に関しまして、常時東郷被告がもつておりましたころの見解を集めたものであります。さらに米国、フランスとの関係、さらにドイツ、オランダ、ソビエツト連邦、ソビエツト連邦と境を接する国、近東及びアフリカ、満州国及びソビエツト連邦間の紛争に関する彼自身の見解、これは起訴状の中にこの被告が発議されておりますところの違法行為、犯罪行為に関しましては何ら証明力なしと検察側は主張します。いずれにいたしましても、いかなる場合においてもそうでありますが、特に検察側は私が述べましたところの見解、ちよつと前にこの法廷で述べましたことに鑑みましてそうであります。検察側は1933年に東郷被告がいかなる心理状態にあつたかということに関してはまつたく関心を有しません。そうしてこの文書はただいまのこと以外に何ら証明力がないのであります。
○裁判長 それでは東郷が東條内閣に入閣する前には、全然共同謀議いは参画していなかつたというふうに検察側は了解している、ないしは主張しているというふうに了解していいのですか。
〔モニター ないしはそれを認めているのですか〕
○キーナン検察官 まさにその通りであります。と申しますのは、1939年彼東郷が駐ソ日本大使であつたときに関するわれわれが付帯しましたところお留保事項を除きましては…そうしてさらにわれわれといたしましては、1941年の10月に彼がこの共同謀議に参画すれば、法律的には有罪であると主張するのであります。そうしてわれわれといたしましては、こういうことを言うことがすなわち東郷の有罪であるか、有罪でないかということに関するわれわれの考えであるということを申し上げておいた方が、公正なものだと思うのであります。また特に時間を節約するという意味においても、こういうことを言いたいのであります。そうしていかなるものが関連性がないかということに関してのわれわれの見解を、明らかにしておくという点もあるのであります。
○ブレークニー弁護人 ただいま言われましたことに関しまして、裁判所がなし得るところの、またただいま私が提出いたしました証拠に関しまして、裁判所がなすであろうところの決定というものは、私がこれから皆さんとする証拠提出順序表にあります大半に関しまして、大きな影響があるのでありまして、この件に関しては十分協議をし尽したいと私は考えるのであります。
 さてまず最初にこの文書が非常に部厚なものであるということに関する異議であります。これは異議としては妥当なものでないと思います。しかし私が申し上げたいのは、これを全部読む気はないということであります。この証明価値の問題でありますが、これはただいまからしばらく経ちましたらば、同時通訳によつてすでに準備したところの私の論点を申し述べるつもりであります。しかしそうする前に私は検察側主席の方が、この文書に対してなしましたところの性格づけ方の訂正をさせていただきたいと思います。彼主席検察官がその内容を要約したということは正しいのであります。しかし彼は同時にその一部を強調することによつて、裁判所をしてその全体に対しての注意を怠らしめるように仕向けました。それで私はただこの文書の表題だけを指摘して、裁判所の御注意を喚起することにいたします。この表題は日本のヨーロッパ及びアメリカに対する外交政策、そうしてこれは日本政府が採用するように考慮を払われたしとして、提案されたところの一つの政策の原案なのであります。これは1933年につくられたものであるということは事実であります。
 この証拠の証拠能力については議論の余地はないと思います。この裁判もまた弁護も夢にも考えらなかつた14年前につくられ、その目的は公刊ないし宣伝の目的ではなく、政府の一省のための秘密の情報として、またあるいはその政策のために書かれたものであります。すなわちこの文書は欺瞞や飾辞の必要はまつたくなしに書かれたものであり、従つて書いた人のほんとうの意図と理想を隠すことなく述べたものと認めることができます。
しからばこの文書に現れた意図や意見は、本裁判における問題と関連性があるでしようか。本被告は犯罪すなわち共同謀議の罪を問われていますが、その最も重要な構成要素は意図であります。意図は通常行動ないし表示から推断されるのであります。被告の犯罪というものは被告自身の言つたことによつて、たとえその言辞が事件よりもはるか以前に言われたものであつたとしても、犯意を立証されるということは疑いの余地のないところであります。また私の知る限り、逆の場合、すなわち被告の過去の言辞により、被告の犯意がないということが立証されるということにも、同じく確立されたところであります。もし被告が本文書より遥か以後のときになつて、犯意を抱くに至つたのであるとするなら、これに対しては被告の企図が重要であるという場合には、被告が過去において同じ目的の企図を有した場合、前の企図は現在の企図の証拠たるの性質を有すべく、また前に現在の企図と矛盾する企図を有した場合には、かかる企図は現在の企図の証拠たるものであります。すなわちあることをしないという計画の表示が前にあつた場合、そのことがなされたという訴追に関して、かかる表示はその弁護のために提出され得るものであります。単に時が経過したということは、かかる証拠の証拠力を破壊するものではありません。許容さるべき期間の長さは、著名なる権威者の述べているごとく、事件の諸事情のもとにおいて、条件の継続が中断された可能性が真にあつたか否かによるのであります。かかる真の可能性が存しないということは、1933年に表示された企図が、訴追の終了した1945年に至る間、引き続き存在したということを示す諸証拠により判明するでありましよう。私はこの点についてのはなは適当な類似例として、殺人ないし殴打をもつて訴追された被告が、その被害者に対して有した好悪の気持を、過去においてでも表示したことがあつた場合の例をあげたいと思います。かかる場合に被告の犯意の有無の決定について、被告の気持なり、意図なり、意見なりは通常考慮されるものと思います。私の言わんとする類推というのは、この裁判における共同謀議の訴追における根本の問題は、おそらく被告は被告を訴追している諸国に対して、敵意を有したか友情を有したかということではないかということであります。
 さてただいま検察官の申し述べましたところの見解を通じてみましたところの共同謀議の疑念でありますが、これによりますと1941年において、共同謀議がさらに続けられており、かつ存在している。そのときに東郷被告がこの共同謀議に参加したところにおいても、存在していたということになつております。しかしソビエツト連邦に関しまして検察側のなしましたところの留保条項について考えますと、その共同謀議の時期より、東郷被告が連帯しているということを明らかにしております。
〔モニター 1939年〕
 さてそこでただいまの日付はどうでありましたかにいたしましても、結局本審理が終結して裁判所の方において判決を下す場合において、被告のすべてのものがいかなる時期において、いかなる行為をしても、その共同謀議が法律的に成立した場合には、その全体に対しての責任があるということになつてしまうかもしれません。私はそう申しません。ただそういうふうに法律が採用されたならば、法律であるというならば、訴追権を述べるものであります。しかしいずれにしても検察側はそれが法律であると主張しておるのであります。そうしてこの場合においては、そうであると言つておるのであります。しかしながらもしそれがそうであつたと仮定いたしたならば、そのときこそは初めて1933年にこの被告がどういう意見をもつていたか。どういう意図をもつていたかということは、明らかにそして直接にその後において行われましたこと、彼が行いましたところの行動に関連性があると私は考えます。すなわち彼が当時行いました行為、それに対して彼自身が責任をとることになるのでありますが、そのとき行われました行為、またその意図について明らかに関係があると思うのであります。
〔モニター 明らかに直接〕
 そうしてもし、それがそうでないといたしますならば、私は結局この被告東郷が東條内閣に入るにあたりましては、彼がそれ以前にまたその当時になしましたところの彼自身の見解の発表、その中に含まれておるような彼自身の信念に基きまして、主としてこれに基きまして罪を犯す意思をもつて、あるいはもたないで東條内閣に入閣したということを見出されるだろうと思います。いずれにせよこういうふうに行動が漠然としておる場合には一人の人間の思想、意思、意見の一貫性あるいは継続性というものは、明らかに証明力ありと主張いたします。これが私の意見であります。

2018年9月28日金曜日

極東国際軍事裁判速記録第334号 昭和22年12月15日(2)

○裁判長 主席検察官
○キーナン検察官 さて裁判所に対して、裁判所条例第十二条A項を試行せしめることにおいて援助をするために申上げますが、ただいま引用しました条項は次のごとくであります。第十二条審理の執行(イ)審理を起訴事実に付生じたる争点の迅速なる取調に厳格に限定すること、これに基づいて検察側は東郷被告の有罪なることを主張する上において、東條内閣に就任したる期間以後になした事実によつて、その有罪の判決をお願いする次第であります。しかし、こういうことを申したからといつて、その時期より、すなわち彼が入閣した時期より以前に始まつたところの共同謀議に、彼がそのときから参加したということに関するところの検察側の訴追事項を、放棄するという意味ではないのであります。
すなはちただいま述べたところの留保条項というのは、一九三九年に彼がソビエツト連邦に大使としてその使いをした期間、それからその期間においてノモンハン事件によつて彼の背負うべきところの犯罪的行為、もしありとせばそういうことに関するところの留保事項であります。それから第二にわれわれは、東郷氏が署名いたしましたところの満州国、蒙古人民共和国になされました国境確定に関するところのモロトフ、東郷協定に関する文書に署名したことについて、東郷に尋問をしたいのでありまして、この協定というのはとりもなおさずノモンハン事件に東郷及びモロトフによつて署名されましたところの国境確定地図であります。ただいまこれを申しますのは、法廷の時間の節約するためと、記録の煩雑を防止するためとでありまして、そのほか関連性のない文書ありましたならば、ただいま申上げましたことについての関係がない文書がありましたならば、容認すべき性質でないということを前もつて申上げておきます。こう申しますのは、特に最近、われわれの方に配布されました文書の性質を調べることによつて、われわれが考えたのでありますが、関連性のないものがその中に散見せられるのでありまして、前もつてこれを法廷に申上げておく方が、われわれとしては公正であると考えたからであります。
○ブレークニー弁護人 この件につきまして先週の金曜日より、主席検察官と私との間に協議を行つたのであります。と申しますより、この前の金曜日に最初に取上げられ、再び本日協議したといつた方がよいでしよう。しかしながら検察側とどういう条件をもち出すかということに関して、ただいま検察官が申した言葉を、初めてそのはつきりした条件の輪郭をここで知つたわけなのであります。しかしながらこれらのただいま言われましたことが、文書にどういう影響を与えるか、また文書の容認せらるべき性質にいかなる影響を与えるかということに関しましては、文書が提出されるたびに一々その価値、その関係及びその意味というものを取上げて、議論したらよいと思うのであります。従つて私は証拠提出順序表の一番より始めることにいたします。私は最初の証人としまして有田八郎を呼ぶものでありました。しかしながら発表するにはあまりに遅くになつてしまつたのでありますが、今日になつて初めて有田証人の健康診断書、病気証明書を入手したのでありまして、これを私はただいま証拠として提出いたしますが、後ほど作製して検察側に渡すことにいたします。―検察側の方ではただいまの私の申入れを容認して、病気であるということを認めるそうであります。
 従つて診断書の提出を撤回いたします。しかし、いずれにせよ私は弁護側文書1081号すなわち有田八郎氏の宣誓口供書を、証拠として提出させていただきたいと思います。
○裁判長 通例の条件付で受理します。
〔付記 弁護側文書1081号は法廷証3609号といたします〕