○ブレークニー弁護人 法廷証3609号を朗読します。
〔朗読〕
私は1932年5月10日から1933年5月16日迄外務次官でありました。その間1933年私は外務次官として当時外務省欧米局長であつた東郷茂徳が外務大臣内田康哉に提出する為起草した「国際連盟脱退後に於ける帝国の対欧米外交政策」と題する報告書を検討し閲読したことがあります。私は弁護側文書第146号を示されましたが同文書が前記の文書であり、日本語で書かれ、96頁より成り、当時私が読んだ報告書原本に相違ないことを認めます。
1947年1月31日
東京に於て
有田 八郎(署名)
証人の確認した文書、すなわち弁護側文書146号を証拠として提出いたします。提出された翻訳には載つていませんが、原本には極秘と記されていることを申し上げます。
○キーナン検察官 検察側は東郷被告の外務省欧米局長であつた当時の、1933年4月の半ばごろつくられましたところの、このあまりにも厖大なる文書の提出に対して異議を申し立てます。そうしてこの文書は、日本、ヨーロッパ及びアメリカの関係に関しまして、常時東郷被告がもつておりましたころの見解を集めたものであります。さらに米国、フランスとの関係、さらにドイツ、オランダ、ソビエツト連邦、ソビエツト連邦と境を接する国、近東及びアフリカ、満州国及びソビエツト連邦間の紛争に関する彼自身の見解、これは起訴状の中にこの被告が発議されておりますところの違法行為、犯罪行為に関しましては何ら証明力なしと検察側は主張します。いずれにいたしましても、いかなる場合においてもそうでありますが、特に検察側は私が述べましたところの見解、ちよつと前にこの法廷で述べましたことに鑑みましてそうであります。検察側は1933年に東郷被告がいかなる心理状態にあつたかということに関してはまつたく関心を有しません。そうしてこの文書はただいまのこと以外に何ら証明力がないのであります。
○裁判長 それでは東郷が東條内閣に入閣する前には、全然共同謀議いは参画していなかつたというふうに検察側は了解している、ないしは主張しているというふうに了解していいのですか。
〔モニター ないしはそれを認めているのですか〕
○キーナン検察官 まさにその通りであります。と申しますのは、1939年彼東郷が駐ソ日本大使であつたときに関するわれわれが付帯しましたところお留保事項を除きましては…そうしてさらにわれわれといたしましては、1941年の10月に彼がこの共同謀議に参画すれば、法律的には有罪であると主張するのであります。そうしてわれわれといたしましては、こういうことを言うことがすなわち東郷の有罪であるか、有罪でないかということに関するわれわれの考えであるということを申し上げておいた方が、公正なものだと思うのであります。また特に時間を節約するという意味においても、こういうことを言いたいのであります。そうしていかなるものが関連性がないかということに関してのわれわれの見解を、明らかにしておくという点もあるのであります。
○ブレークニー弁護人 ただいま言われましたことに関しまして、裁判所がなし得るところの、またただいま私が提出いたしました証拠に関しまして、裁判所がなすであろうところの決定というものは、私がこれから皆さんとする証拠提出順序表にあります大半に関しまして、大きな影響があるのでありまして、この件に関しては十分協議をし尽したいと私は考えるのであります。
さてまず最初にこの文書が非常に部厚なものであるということに関する異議であります。これは異議としては妥当なものでないと思います。しかし私が申し上げたいのは、これを全部読む気はないということであります。この証明価値の問題でありますが、これはただいまからしばらく経ちましたらば、同時通訳によつてすでに準備したところの私の論点を申し述べるつもりであります。しかしそうする前に私は検察側主席の方が、この文書に対してなしましたところの性格づけ方の訂正をさせていただきたいと思います。彼主席検察官がその内容を要約したということは正しいのであります。しかし彼は同時にその一部を強調することによつて、裁判所をしてその全体に対しての注意を怠らしめるように仕向けました。それで私はただこの文書の表題だけを指摘して、裁判所の御注意を喚起することにいたします。この表題は日本のヨーロッパ及びアメリカに対する外交政策、そうしてこれは日本政府が採用するように考慮を払われたしとして、提案されたところの一つの政策の原案なのであります。これは1933年につくられたものであるということは事実であります。
この証拠の証拠能力については議論の余地はないと思います。この裁判もまた弁護も夢にも考えらなかつた14年前につくられ、その目的は公刊ないし宣伝の目的ではなく、政府の一省のための秘密の情報として、またあるいはその政策のために書かれたものであります。すなわちこの文書は欺瞞や飾辞の必要はまつたくなしに書かれたものであり、従つて書いた人のほんとうの意図と理想を隠すことなく述べたものと認めることができます。
しからばこの文書に現れた意図や意見は、本裁判における問題と関連性があるでしようか。本被告は犯罪すなわち共同謀議の罪を問われていますが、その最も重要な構成要素は意図であります。意図は通常行動ないし表示から推断されるのであります。被告の犯罪というものは被告自身の言つたことによつて、たとえその言辞が事件よりもはるか以前に言われたものであつたとしても、犯意を立証されるということは疑いの余地のないところであります。また私の知る限り、逆の場合、すなわち被告の過去の言辞により、被告の犯意がないということが立証されるということにも、同じく確立されたところであります。もし被告が本文書より遥か以後のときになつて、犯意を抱くに至つたのであるとするなら、これに対しては被告の企図が重要であるという場合には、被告が過去において同じ目的の企図を有した場合、前の企図は現在の企図の証拠たるの性質を有すべく、また前に現在の企図と矛盾する企図を有した場合には、かかる企図は現在の企図の証拠たるものであります。すなわちあることをしないという計画の表示が前にあつた場合、そのことがなされたという訴追に関して、かかる表示はその弁護のために提出され得るものであります。単に時が経過したということは、かかる証拠の証拠力を破壊するものではありません。許容さるべき期間の長さは、著名なる権威者の述べているごとく、事件の諸事情のもとにおいて、条件の継続が中断された可能性が真にあつたか否かによるのであります。かかる真の可能性が存しないということは、1933年に表示された企図が、訴追の終了した1945年に至る間、引き続き存在したということを示す諸証拠により判明するでありましよう。私はこの点についてのはなは適当な類似例として、殺人ないし殴打をもつて訴追された被告が、その被害者に対して有した好悪の気持を、過去においてでも表示したことがあつた場合の例をあげたいと思います。かかる場合に被告の犯意の有無の決定について、被告の気持なり、意図なり、意見なりは通常考慮されるものと思います。私の言わんとする類推というのは、この裁判における共同謀議の訴追における根本の問題は、おそらく被告は被告を訴追している諸国に対して、敵意を有したか友情を有したかということではないかということであります。
さてただいま検察官の申し述べましたところの見解を通じてみましたところの共同謀議の疑念でありますが、これによりますと1941年において、共同謀議がさらに続けられており、かつ存在している。そのときに東郷被告がこの共同謀議に参加したところにおいても、存在していたということになつております。しかしソビエツト連邦に関しまして検察側のなしましたところの留保条項について考えますと、その共同謀議の時期より、東郷被告が連帯しているということを明らかにしております。
〔モニター 1939年〕
さてそこでただいまの日付はどうでありましたかにいたしましても、結局本審理が終結して裁判所の方において判決を下す場合において、被告のすべてのものがいかなる時期において、いかなる行為をしても、その共同謀議が法律的に成立した場合には、その全体に対しての責任があるということになつてしまうかもしれません。私はそう申しません。ただそういうふうに法律が採用されたならば、法律であるというならば、訴追権を述べるものであります。しかしいずれにしても検察側はそれが法律であると主張しておるのであります。そうしてこの場合においては、そうであると言つておるのであります。しかしながらもしそれがそうであつたと仮定いたしたならば、そのときこそは初めて1933年にこの被告がどういう意見をもつていたか。どういう意図をもつていたかということは、明らかにそして直接にその後において行われましたこと、彼が行いましたところの行動に関連性があると私は考えます。すなわち彼が当時行いました行為、それに対して彼自身が責任をとることになるのでありますが、そのとき行われました行為、またその意図について明らかに関係があると思うのであります。
〔モニター 明らかに直接〕
そうしてもし、それがそうでないといたしますならば、私は結局この被告東郷が東條内閣に入るにあたりましては、彼がそれ以前にまたその当時になしましたところの彼自身の見解の発表、その中に含まれておるような彼自身の信念に基きまして、主としてこれに基きまして罪を犯す意思をもつて、あるいはもたないで東條内閣に入閣したということを見出されるだろうと思います。いずれにせよこういうふうに行動が漠然としておる場合には一人の人間の思想、意思、意見の一貫性あるいは継続性というものは、明らかに証明力ありと主張いたします。これが私の意見であります。
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