2015年2月21日土曜日

書庫(23):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:五月二日、文彦に

さればとて世に虚言(そらごと)の多いかな誤解と共に凶(まが)事つくる

そらごとを見破る機械出来もせば此世は余程住みよくならぬ

天下第一等の人ならばやと五十年余を行(ぎょう)じ来たりぬ

二とせを「ドッグ」に居ても天が下第一等を忘れかねたる

わだつみの水沫の如しもろもろの弱くはかなき人の力は

二とせの囚れの夕べ雨降りて空もとゞろに荒れてありにき

今日はしもさつきの光りみち足りて野の花さはに咲きて匂へり

書庫(22):牛村圭『「文明の裁き」をこえて』より

(…)すでに本章でとりあげた『昭和の精神史』は七年の思索の結晶と呼べるのに対し、 この「ローリング判事への手紙」に綴られた竹山の思いは、判決から半年少々しか 経っていないこともあってか、東京裁判が与えた衝撃の余燼が感じられる作品になっている。 たとえば、開戦を阻止することを自らに誓って東條内閣に入閣し、最後まで日米交渉成立、 開戦回避に努めつつも、結局は開戦内閣の一員になってしまった東郷茂徳についての 記述である。竹山は、日本人被告の名を誰一人として出さぬまま書きすすめているが、 前後の文脈から東郷のことであるのは明らかである。 次のような比喩を用いつつ、彼を評価しようとした。

 あの当時にあってのもっとも正しい男性的な態度は、むしろ相手の中にとびこんで、 その組織の中からはたらくということでした。―今われらの国は軌道を外れて盲目的に 驀進しつつある汽車のようなものだ。所詮停めることができない汽車ならば、 ただその後尾の客車に坐って不平をいったり蔭口をきいたりしているよりも、 むしろすすんで機関車に入って、無謀な運転手の手をおさえて、車を軌道にのせるべく努力すべきだ。 ―これが有効な結果を生みうる、残された唯一の道でした。邪悪なものと協力することによって 全体を救う、これがもっとも良心ある人のなすべきことでした。もしかりに戦争の勃発がふせがれえたとしたら、 それはただこうした人々によってのみなされえたので、手の清い人からそれをのぞむことはできませんでした。
 あの条件の下にあっては、もっとも罪なきものであることは、共に罪を犯すことでした! 共犯者となることでした![D・261]


これは「手紙」というより「訴状」という言葉を想起させる、実に熱のこもった訴えの文面である。 竹山道雄の、穏やかで、時に淡々とも言える文体に慣れ親しんでいる読み手ならば、 次々と岸辺に押し寄せてくる大波の如き激しいリズムの反復に、圧倒されよう。 東京帝大独文科出身の外交官東郷茂徳は、竹山道雄にとって同窓の「先輩」にあたる。 もちろん、それが理由で彼がかくも熱をこめて東郷論を展開したのではなかろうが、 この東郷の努力を何ら顧慮することなく禁固二十年の刑を下した公式判決への、 竹山のいまださめない憤りが伝わってくる。『昭和の精神史』の表現を借りるならば、 「多くの非合理な痴愚の絶頂」[C・123]への忿懣である。 旧敵国人である自分を信頼して、公判中にも裁判について意見をもとめてきた元判事に、 竹山道雄も正直に胸の内を、こう書き記した。そして、こういう竹山の胸のつかえを解消してくれるかのように、 レーリングが東郷の努力を認め、無罪と判定したのを「まことに感謝にたえぬこと」[D・262] とはっきり活字にした。当時、東郷茂徳は巣鴨プリズンで服役中、病魔と戦いつつ回想録 『時代の一面』執筆に取り組んでいた。所持品、差し入れ品等厳しい制限を受けていた虜囚の身の彼が、 レーリングの個別意見書に目を通したという記録はない。 まして、この竹山の一文が載った『新潮』を入手することもなかったろう。 しかし翌年、『時代の一面』の草稿完成直後病死する東郷に、 レーリングと竹山のこの「東郷論」を読ませてやりたかった、 とまで思わせるくらいに竹山の文章には熱がこもっている。
(…)

(「第5章 竹山道雄と東京裁判」より)

書庫(21):竹山道雄「ローリング判事への手紙」より

(…)
 この際に、自分はそういう役割をつとめることはいやだ、といって逃げてしまうことは、 真に責任をもって考える人にはできませんでした。緊迫した対外関係を前にして 国を割ることはさけねばならず、また能力のない野心家が代ってその地位をしめたら 全体がどういうことになるか、というおそれもありました。 なにより秩序と平和維持のために努力しなければなりませんでした。 また軍閥の方でも、できるだけ有能で責任感があり対外的にも信用があり国民を 納得させることもできる人を自分の傀儡としたがりました。
(…)
 いな、そればかりではありません。 あの当時にあってのもっとも正しい男性的な態度は、むしろ相手の中にとびこんで、 その組織の中からはたらくということでした。―今われらの国は軌道を外れて盲目的に 驀進しつつある汽車のようなものだ。所詮停めることができない汽車ならば、 ただその後尾の客車に坐って不平をいったり蔭口をきいたりしているよりも、 むしろすすんで機関車に入って、無謀な運転手の手をおさえて、車を軌道にのせるべく努力すべきだ。 ―これが有効な結果を生みうる、残された唯一の道でした。邪悪なものと協力することによって 全体を救う、これがもっとも良心ある人のなすべきことでした。もしかりに戦争の勃発がふせがれえたとしたら、 それはただこうした人々によってのみなされえたので、手の清い人からそれをのぞむことはできませんでした。
 あの条件の下にあっては、もっとも罪なきものであることは、共に罪を犯すことでした! 共犯者となることでした!
 そういう人はけっして数は多くなかったが、いたことはたしかにいました。
 何とかして平和をつなぎとめるために、商議継続を条件として開戦のおそれのある内閣に入った。 一たんは辞意をいだいたが、「お前がやめれば即自開戦に同意するものが外相となる」 と忠告されて辞意をひるがえした。そして、この地位にとどまって自分の主張をつづけるためには、 「平和的方法が見込みがないことが分ったら開戦に同意する」という原則に譲歩をせざるをえなかった…。 また、はやく平和を結びために戦時内閣に入った…。このようなことは、国際的義務のための努力でこそあれ、 国際的義務に対する違反ではない―、こういうことを洞察してくださったことは、まことに感謝にたえぬことです。
(…)
 私はずっと、責任とか應報とかいうことは、ただ個人の良心にのみかかわるべきものだ、と思っていました。 個人は自分の良心にかえりみて咎がなければ、責任や應報を拒否しうべき筈だと思っていました。 しかるに、戦争の体験はそうではないことを教えました。―他人の罪過を贖う。 しかも他人はその人の苦難をしらない。このことは人間が大きな誠意をもってはたらくとき、 ときとしては避けがたいことと思われます。
(…)

2015年2月13日金曜日

書庫(20):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:五月十日、イセに

敷島の大和島根はとことわにしほひしほみちゆるぐことなし

(夢に)
み光は高千穂の嶺に降り立ちて大和島根をあかに照らしぬ

まな子たちわれ今行くもとことわに我は死にせず我れ活きてあり

梅の花咲きて散りなばさくら花つぎて咲くべし大和島根は

いざ児等よ戦ふ勿れ戦はば勝つべきものぞゆめな忘れそ

ゆとりある剣士は敵を誘ひて手出さしめたる后にこそ撃つ

手出さしむ術も自衛の為なりと現状維持の政治家は言ふ

春や来ぬ牢屋(ひとや)の庭の木の蔭に山吹の花咲きいでにけり

地に冩る影をのみ見て天の原大なる宇宙をふりさけ見ずや

地に充てる花も小鳥もいみじきや進化の跡をたどり探れば

天に星地には進化のすがた見て貴きものを感ぜずや君

いつもしも苦しみの果と思ふ時神の来りて救ひたまひぬ

軽薄な人間共がいやになりぬ生き物よりも石にも木にも

2015年2月11日水曜日

書庫(19):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:四月廿五日、イセに

二年を住み慣れし身にはあれど淋しみ襲ふ春の日永に

日毎日毎と會ひたるものを此のしばし會はねば淋し一とせ覚ゆ

百とせの永きにとに非ず一月の過ぎ行くことはあわたゞしくもあれ

人の世は束の間なるを世の人は永年の如くたのみたりける

我さとのつなぎをたちしくろがねの八重の門(と)高く立ち繞らせば

くろがねの八重の門如何に固くとも魂の通ひ路などか絶ゑなむ

軒ばなる雀にもがな麻布なる児等と遊びて後歸りこむ

書庫(18):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:五月三日、文彦に

われはしもあまたの戦さに逢へるかな中にも第一第二世界戦争

科学のみ進歩せし為人類は釣合とれず狂行(たわわざ)ぞする

あなかしこ戦に勝てり其国は機械力あり組織力あり

あな愚か機械力もて天が下しろしめさんと思ひ上れる

形而下の智慧のみ人に先き走り思い上りて狂行(たわわざ)ぞする

書庫(17):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:鹿児島を偲びて

わだつみの底よりたぎつ大浪の薩摩の瀉に遠鳴りのする

地を巻きて荒れたるものがはたと止みぬ颶風の中心今過ぐるらし

颱風のゆける朝あけ静かにて児等は来りて柿の実拾ふ

昔思ふ故郷思ふまし子の父母の許にありし其頃

あまそゝる高千穂の峯は雄々しくも遠つ昔の姿なりけり

2015年2月7日土曜日

書庫(16):東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」より

幼年時代を過ごした東京麻布の洋館。見上げるように高い天井の、二階へ通ずる階段を上がった奥の部屋。 ずっしりと重い木の扉の向こうに、その人はいる。濃い緑かえび茶色の和服を着て、髪は随分と白くなっている。 背はそれほど高くない。眼差しがじっとこちらに注がれている。なにか、暖かいものに包まれているような気がする。

両親に連れられて行った、どこか厳めしい建物。くすんだ色のシャツとズボンのその人の膝の上に乗っている自分。 そばには、丸く白いヘルメットに制服の外国の兵隊さんたちがいる。ある日「おじいちゃまがお家に帰ってくると、 兵隊さんたち、さびしくならないの」と母に言った時の、まわりの大人たちの間に起きた小波のような笑い。

「おじいちゃま」と、子供の頃より呼んでいたその人の直接の記憶は朧である。自らの体験、後になって聞かされた話、 あるいは、当時の写真などを見ているうちに定着したイメージ。そうしたいくつかが、混然とした思い出となって 心の底に残っているだけである。

私が五歳の時に世を去った祖父の記憶がとくに限られているのは、一歳と五ヵ月の時に獄中の人となったからだと思う。

今回、はからずも祖父の伝記を書くことになり、獄中での遺品を整理していた時、祖父が日頃つけていた手帳日記に 五枚の写真が挟みこまれているのを見つけた。いずれも、麻布の家の庭などで遊んでいる幼い私や、双子の弟の写真だった。 当時の私たちが描いたキリンや馬、鉛筆、おもちゃの電話、バスケットなどの絵も雑然とした書類の中に挟まれてあった。

祖父は、獄中から家族にたくさんの手紙を書いている。そのなかには、双子の孫の教育に関し、様々な意見や注意が記述され、 時には率直な愛情が吐露されていた。

「茂坊及和坊のにこにこしたすがたがいつも眼の前に浮かんで来るが、身体も精神も健全に発育するやうに祈って居る」 「兎に角全体としては、正直な、よく働く人間に育て上げる方針が安全である」(二十三年七月七日付)。 「幼年の頃には成人の後には偉い人になるとの奮発心と、他方如何なる場合にも正直に、且つ真直の途を履み進むやうにすることが根本と思ふ」 (同年九月十二日付)。

男の子は、弱虫にならないよう、困難に耐え、精神的にも肉体的にも鍛錬すること、生涯の基礎となるような良い習慣を身につけさせる。 贅沢は最も害をなす―といった原則論から、日本語や日本史、漢字の習得に小さいうちから力を入れておくと良いなど、私の受けた教育を今振り返ると、 「あれは祖父の指示に基づくものだったのか」と思い当たる節が多かった。

 軒ばなる雀にもがな麻布なる
   児等と遊びて後帰りこむ(二十三年四月)

 こどもらのよきたより聞きてセメントの
   冷たき室にも熟睡せるかも(二十五年四月)

などの和歌を詠んだ祖父の肉筆を見、獄中の心境を想う時、心中に、熱いものがこみ上げてくるのを押さえることが出来ない。

東郷茂徳。太平洋戦争の開戦と終戦時の外務大臣をつとめ、東京裁判に於て禁固二十年の刑を受け、獄中で死んだ祖父は、 我が家では「絶対」の存在であった。日本を戦争に導かぬよう心血を注ぎ、一旦戦いが始まると、その終結のために身命を捧げ、 本土が戦場となる前に大戦を終わらせ、国と世界を救った―その業績と人に対する畏敬。常に家族を大きな愛情で包んでくれていながら、 身内の誰一人にも看取られることなく、獄中で世を去らねばならなかったことへの無念と怒り。「おじいちゃま」について語られる時、 家族の心の底にはそれらの混じりあった強い感情がいつもあったのではないかと思う。

(「プロローグ」より)

2015年2月5日木曜日

書庫(15):萩原延壽「東郷茂徳 伝記と解説」より

東郷茂徳は独特の癖のある字を書く。やや右肩上がりの、肘をつよく張ったかたちをしていて、いかにも癇のつよそうな、 容易なことでは自分を取り下げそうもない気性の一端が、そこにもすでに見てとれる。あのひとは我がつよいという、 その我がどの点画にもにらみを利かせているような字体である。

昭和二十五年(一九五〇)一月五日、東郷は鉛筆をにぎり、そうした文字に託して、「最後の戦い」を開始した。 回想録『時代の一面』の執筆である。このとき東郷は「A級戦犯」のひとりとして、東京裁判(極東国際軍事裁判)の 下した禁錮二十年の判決を受け、東京巣鴨の拘置所で服役中の身であった。


まず東郷は、「予は茲に予の公的生涯を通ずる期間、即ち恰も第一次世界戦争勃発の頃より第二次世界戦争終末に渉る間に於て、 予が直接見聞せる所並びに関与した事件に就て率直なる叙述を為さんとするのである」と述べ、つづいて「本書の目的は予の自伝にあらず、 又自分の行動を瓣解せんとするのでもなければ、日本政府のとつた政策を瓣解せんとするのでもなく」と、 その立場をあきらかにし、「自分が見た時代の動きを記述するを本旨とし、自己が見聞し且つ活動せる所に就き、外交史的」 と書いたところで、この「外交史的」を「文明史的」とあらため、「主として文明史的考察を行はんとするのである」とことばをすすめた。

それから本題に移り、最初の在外勤務である大正初年の奉天総領事館から叙述をおこし、昭和十六年(一九四一)六月の独ソ戦争勃発の砲をきくところまで、 字数にして約十二万字を大学ノート二冊の両面にぎっしり埋めて、第一部の稿をおえた。起稿後三週間の一月二十七日のことである。

つづいて二月九日、自らも外相として政策決定にふかく関与した日米開戦にいたる経緯に主題を移し、 今度は厚手の罫紙五十一葉の両面に約十二万字をつらねて、これを第二部とした。稿をおえたのは、やはり三週間後の二月二十八日である。

三月一日、東郷はただちに第三部にすすみ、開戦直後の戦時外交から説きおこし、翌昭和十七年(一九四二)九月の外相辞任、昭和二十年(一九四五)四月の外相復帰、 そして、終戦工作に従事して八月十五日を迎えるところまで、第二部とおなじ罫紙三十六葉の両面を使い、これに約七万字をあてて、二週間後の三月十四日に擱筆した。

「(八月)十七日午後、東久邇宮内閣が成立したので、翌十八日午前、外務省及び大東亜省で重光(葵)新任大臣と事務引継ぎを為した上、 両省省員に対し戦争終末の経緯を説明すると共に、両省省員の覚悟に付き希望を述べた」というのが、その最後のくだりである。

この日の日記は簡潔にこうしるしている。


「三月十四日 『時代の一面』、終戦迄一応完了。今ノ処二百五十頁ナルベシ。一月五日着手。」


総計約三十一万字、厳冬の季節に耐え、衰弱した肉体を懸命に支えながら、東郷は約二ヵ月で『時代の一面』を書き切った。(…)

「伝記 東郷茂徳 -その前半生」「序章 戦いの記録―『時代の一面』―」より

2015年2月1日日曜日

書庫(14):東郷茂徳「時代の一面」に附された長詩

憂きことを 二とせ餘り 牢屋にて 過し来りぬ 朝夕に 心を紊す 束縛の とみに多ければ 内わなる 魂こそは 大鳥の 大空の邉に 羽搏きて のぼり行くごと 勢ひの たけけくあれど 旅人の 高き山根に 故郷を かへり見するごと 過ぎ行きし くさぐさのこと 且又は 来るべき世の すがたをも 思ひ浮べつ 春雨の 大地に入りて 諸草を 霑ほすがごと 我胸に 思ひの花を とりどりに 育て上げたり

夜な夜なに 眠れぬ時し ありとても 書きしるすべき 鉛筆も 物見るめがねも 夕な夕なに 持ち去られ 我辺になくに 夜の明けて後 そこはかに しるしたるぞこれ

殊にわれ 稚き時ゆ 東西の 文明のすがた 較べ見て そが調整の すべもがと 心ひろめつ これこそは わが生涯の 業なりと 思い来ぬれば とりわけて 此の方面に つき多く 思ひを馳せぬ

人の子の 育てる時と 所とは いみじくもまた 運命を さししめすかな わが育ちしは 黒潮の  めぐる薩摩潟 朝夕に 煙りたへざる 高千穂に 神代を思ひぬ 秋去れば 遠鳴る海ゆ 台風の 天地を動かし 春来れば 霞棚引く 海門に 南国を按ず 風物の 雄々しき中に 大目球 天を敬ひ 人を愛す てふ世の道を 示したる 大南洲の 遺風こそ 身にはしみたり

天地の なりにし始め 人類の 起源に付て くさぐさの 議論はあるも とことわに 空に輝く 月や星 いみじくも 花や草木に さやかなる 進化の跡 誰とてか 自然の奥に いと貴き ものを感ぜぬ 人とてやある

さればこそ 有史以来の 四千年 人類の 進歩のいとど 早くして 絢爛として 輝ける 機械文明 飛行機は 火星に迄も 飛びぬべく 原子弾こそ 人類を 地獄に迄も 苦しめむ 科学の進みは 人類の 心の進歩を 上へ走り 世に禍ひを 齎せし 基とはなれるも いまははや 止むなきやこれ 

などか世の 人の運命の 奇しくして 其為す業の はかなしや 戦に勝てる 為ならで 戦をなくする  為の公事 なりと声高く のらせしに 暇もあらせず 第三次 世界戦争 不可避とぞ 叫びちらして  御互に 相手の罪を 数へあげ 今度の戦こそ ボタン一つ 押してたゞちに 始まること と公言しつ 且つは又 原子爆弾 黴きんと 使用禁止の 約束に かゝはることなく 公然と 使用すべしと 説き立てゝ 戦さの瀬戸に 押て来し ものとぞ見ゆる

これもよし 時の動きと 且つは又 諸大国の 不可避的 状勢と 見るべきなれど 裁判の 目あてと呼びし 戦さの廃棄は これはそも 如何なりたる 又かゝる 動きのさまに 司直者は 耳を掩ひてか 判決に いそしみ居るや たわごとの さても空しき 業なれや 時に折に不図 われはなど こゝにありやと いぶかしみ 世のしれごとを あざ笑ふ ことのあればこそ ああこれ 勝ちし国の 己れらに 都合よかれの 業にして 神の目よりせる 正義のしるし 今はまた 何処にぞありや 思へ人々

世の人の 尊敬と信頼を 裏切りて 本務にいそしまず 敵国の 能力(ちから)を無視し 古びたる 日露戦争の 隋性にて 進歩せる 戦術を 考ふる愚かさ 政治上の 欲望のみ 強く働き 民衆を 眩惑するに 巧みなり 戦さに敗けはせずと 公言せし 其無知と無責任は いみじくも 緒戦に酔ふて 自己の権勢を 固めんと 反抗する者は 府中宮中団結して 排除す すめらぎも 遂には軍の云ふ所信じ難し とさへ仰せらる かゝる軍部の 空疎な頭 自衛的権勢欲に 国の運命を 託せしことの 如何に不幸なりしよ  

書庫(13):東郷和彦「歴史と外交」より

祖父、父、そして私
(…)祖父東郷茂徳が、一九五〇年七月二十三日、A級戦犯として 巣鴨の拘置所で息をひきとったとき、私は、五歳だった。

私のなかにある茂徳の記憶は、おぼろげなものでしかない。 茂徳は、寝間着のうえに、えんじ色のガウンのようなものをまとって、 どこかの病院の廊下をこちらに向かって歩いてきた。ほんとうに 私がそういう茂徳を見たのか、それとも、あとになって、いろいろな物語を 聴くなかから、そういう記憶が結晶していったのか、いまとなってはそれも 定かではない。(…)

あの晩―ハル・ノート
(…)母から聞いたいくつかの話は、私の記憶に、鮮明に残っている。

「おじいちゃまはね、それまでは元気だった。でも、あの晩、家に帰ってきたとき、 ほんとに疲れきっていた」

私が何歳のときだったかは、はっきり覚えていない。しかし、そういったときの母は、 まだ相当に若かったから、中学か、高校か、学生時代のころだったと思う。

一九四一年十一月二十七日早朝(ワシントン時間二十六日午後)、 国務長官コーデル・ハルは、野村吉三郎、来栖三郎の両駐米大使に、 十一月に始まった日米交渉の帰結として、いわゆるハル・ノートを提示、 茂徳を含む日本政府は、これを事実上の最後通牒と受けとめ、戦争開始 やむなしとの結論に至った。

ハル・ノートンの内容は、二十七日連絡会議などの場で検討された。 母の記憶は、その晩、茂徳が自宅に帰ったときのものだと思う。

「あの晩まで、おじいちゃまは、ものすごくはりきっていた。絶対に、アメリカとの 交渉を成功させて、戦争を回避するって、とても忙しかったし、軍との議論は たいへんだった。けれども、それこそ、やりがいのある仕事だった。だから、毎日 生き生きとしていた。でもね、ハル・ノートを受けとった後、広尾の自宅に 帰ってきたとき、あんまり暗いムードになっていたので、びっくりした。 ほんとうにがっかりしていたのね。」

『時代の一面』も、まったく同じ記述をしている。

しかし茲に自分の個人的心境を顧れば、「ハル」公文に接した際の 失望した気持は今に忘れない。「ハル」公文接到迄は全力を尽して 闘ひ且活動したが、同公文接到後は働く熱を失つた。其直後賀屋大宮の 葬儀に於て「グルー」大使に邂逅したから、自分は全く失望したと 話したことを記憶する。戦争を避ける為めに眼をつむつて鵜飲みにしようとして 見たが喉につかへて迚も通らなかつた。自分ががっかりして来たと反対に軍の 多数は米の非妥協性を高潮し、それ見たかと云ふ気持で意気益々加はる状況にあつて、 之に対抗するのは容易なことではなかつた。

ハル・ノート発出にいたる日米交渉の経緯については、じつに多くの記述が残されている。 ハル・ノート発出の米国側の意図がどこにあったか、これを事実上の最後通牒と受けとめた 日本政府の判断は適切だったのか、などについて、必ずしもすべての議論が終息したわけではない。

しかし、日本では、私の知るかぎり、当時の日本政府がこれを事実上の最後通牒とうけとめたことは 定説となっており、また、圧倒的多数の歴史家、オピニオン・リーダーは、日本政府としては そう解釈せざるをえない十分の理由があったと判断していると思う。

(「第6章 私のなかの東京裁判」「1.祖父の戦い」)

書庫(12):東郷和彦「戦後日本が失ったもの 風景・人間・国家」

(…)私自身も、戦前の全否定とは、無縁の世界で育った。 極東裁判は、東郷茂徳を祖父に持つ私の家では、 戦いの場であった。

開戦を阻止せんとして東條内閣の外務大臣として全力を つくして果たせず、鈴木内閣の外務大臣として終戦を なしとげた祖父東郷茂徳は、A級戦犯として極東裁判で 禁固二十年の刑をうけ、一九五〇年巣鴨の獄中で死去した。

占領米軍にとって、真珠湾攻撃の時の外務大臣は、もっとも悪質な戦争犯罪人であった。 茂徳の弁護に当たった家族にとって、極東裁判は、茂徳の命を守るための戦いの場であるとともに、 太平洋戦争がいかなる曲折に基づいて行われたかを歴史に向かって証言する場でもあった。

太平洋戦争が侵略戦争であり、その首謀者は「平和に対する罪」として断罪されねばならないという、 極東裁判検察と多数判決の論理を、我が家では、一秒たりとも肯定したことはなかった。

六〇年代から八〇年代、冷戦の中で、戦前の日本にあった正当なる栄光をとりもどそうとしてきた 動きは、私は、時代の要請に応える必然的なものだったと認識している。(…)

(「第七章 ナショナリズム」より)

書庫(11):岡崎久彦「重光・東郷とその時代」より

(…)東郷茂徳外相は、開戦当初日本国民全体が緒戦の勝利に酔いしれているときから、 早期和平を追求してきた。それは重光葵にも引き継がれたが、その交渉の過程を辿ることは虚しい。 振り返ってみて、現実の可能性がまったくなかったからである。

東郷は、戦争が第一次世界大戦のようにドイツが孤立して英米仏露と戦うことになるのを想定して、 「この戦争における外交戦はソ連の争奪にあり、これを外交の関ヶ原と目し」たが、独ソがすでに 戦っていてはソ連を日本側に引き込むことは困難なので、まず独ソ和平を策した。

時期としては、ドイツがまだ優勢なあいだのチャンスを捉えようとして、一九四二年のドイツの 夏季攻勢の前に何とかしようとしたが、ドイツは、逆に日本の対ソ戦争参加を要求してきた。 こうしてこの計画が進まないうちに、東郷は東条英機内閣を去ってしまった。

重光もこの方針を受け継いだが、結果としてソ連から明白な拒否の意思表示があった。

ソ連は一九四三年十一月のテヘラン会談ですでにドイツ打倒後の対日戦参加の意向を漏らし、 四五年二月のヤルタ密約では、南樺太、千島の引き渡しなどを条件にして、対独戦終了の 二、三ヵ月後の参戦を約している。ヤルタ密約はトルーマン大統領さえ、ローズヴェルトの死後 金庫の中に発見して愕然としたという極秘文書である。これを知る由もない日本はその後も ソ連の仲介による和平工作に期待したが、ソ連が日本からの働きかけにいささかでも心を 動かした形跡は皆無であり、日本側の努力はまったく徒労に帰している。

ただその間、一貫してソ連の仲介を期待することは困難という正確な情勢判断を守った 佐藤尚武駐ソ大使と、それでもどこかに一縷の望みはないかと探求した重光そして東郷外相との 長文電報のやりとりは、ここでは紹介する紙幅もないが、当時の国家戦略論として滋味掬すべきものがある。

(…) 陸海軍の若者たちの特攻も、ソ連を通じる外交工作も、すべて虚しかった。日本が力尽きて 降伏する大勢に影響するところは何もなかった。

そのなかでただ一つだけ、人間の努力が日本の将来を変ええたものは、それは終戦の決断だけであった。

それはまた恐るべき人間の努力を必要とした。振り返ってみれば、昭和の初年以来、戦争と破滅に至る 節目節目で、国内の強硬論を抑える人たちの努力さえ成功していれば危局を避けるチャンスはいくらでもあった。 しかし、結果としてそれは一度も成功していないのである。

降伏の受諾は、いままでのすべての節目に比べても難事業であった。

国民は必勝を信じ、お国のためと思って、すべてをなげうって戦争に協力してきた。そして戦場では、 将兵たちは、あとに続く者あるを信じて、数知れない自己犠牲の英雄的行動を示してきた。 日本人はけっして降伏しない、最後まで戦うのだと教えられてきた。

その価値観を百八十度逆転して、敵に降伏するのである。終戦時、少年だった筆者の経験でも、 敗戦直後私が会った青年たちの半ば以上は、「どうせ負けるにしても、どうしてもっと徹底的に 戦ってくれなかったか?」といっていた。

そして、あらゆる権力も治安も軍の統制下にあった。軍は、もちろん主戦論者である。戦局の不利を 口にするだけで憲兵を恐れなければならない状況だった。

降伏をいう者は、ただちに部下の反乱と死を覚悟していわなければならない雰囲気だった。

そうした雰囲気のなかで、死生を見ること昼夜を見るごとく一身の危険を恐れず降伏を実現したのは、 大局的な洞察力と誠忠の人、鈴木貫太郎、情勢判断の客観性と論理の一貫性をけっして譲らない 理性と信念の人、東郷茂徳、そして終始一貫大勢を見誤らず、いかなる危険にも動じない士、米内光政と、 そして最後に断を下された昭和天皇であった。

真に大事なことはすぐれた人にしかできない。そしてまた、それは一人ではできない。すぐれた人が何人か 要所要所にいて、お互いに信頼と意思の疎通があった場合にしかできない。もしこの四人の誰か一人が 欠けても―たとえ、政策論としては和平派であっても、近衛文麿とか、広田弘毅とか少しでも大勢に迎合する 性格の人がそれに代わっていたならば、あれだけの決断ができたかどうかわからない。あるいは陸軍と妥協して、 余計な条件を追加して、戦争はもう数週間、または数ヶ月、一年やめられず、そのあいだ、北海道など 日本の北部はソ連等の侵攻を許し、国民は空爆と飢餓、あるいは本土決戦の地上戦の惨苦を嘗めなければ ならなかった可能性が大きい。

(…)鈴木は外相を東郷茂徳とした。「よく知らないが、東条に辞表を出して外相の地位を去った事実に 鑑み、意思の強い人と思って頼んだ」という。

東郷は、まず見通しが大事だと頑張った。東郷は「戦争は今後一年続けることも不可能と判断するが、 総理があとニ、三年もつといっている以上は一致協力は困難だ」といって固辞したのである。

客観的情勢判断がまず真っ先で、政策はそこから出てくるという外交の鉄則を一歩も譲らなかった 東郷は立派である。

東郷が受けないので、心配した総理府は鈴木総理の真の胸中を察して受けてほしい、と東郷に 懇願し、鈴木も「戦争の見通しはあなたの考えどおりで結構であるし、外交はすべてあなたの考えで 動かしてほしい」と言質を与えて、ついに東郷は外相就任を受けた。

これで降伏への足固めはもう終わったのである。鈴木が考えたとおり、東郷の不退転の「意思の固さ」が やがて本領を発揮することになる。(…)

(「第十六章 もう、やめねばならない」)

書庫(10):岡崎久彦「重光・東郷とその時代」より

(…)ハル・ノートは、公式には十項目提案と呼ばれる。もともとは英国などに回覧して 意見を求めた暫定案の付属文書であり、暫定案が受諾されたあとで本交渉に入る際の 米国側の基本的立場、それも最大限の要求を記したものである。

それを本文の暫定案から切り離して、それだけを日本側にぶつけたのであるから、 当面の交渉の答えになっているはずもなく、従来の日米間の交渉の経緯をまったく 無視して一方的に米国の最大限の要求だけを突きつけた最後通牒と解されても 仕方ない文書となった。

もちろん公式の宣戦文書ではないが、日本側が交渉打ち切りの通告と 受け取って当然の内容であった。東京裁判でインドのパル判事は当時の歴史家の 文章を引用して、「真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと 同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも 合衆国に対して戈をとって立ち上がったであろう」といっている。

東郷茂徳外相でさえも、「戦争を避けるために眼をつむって鵜呑みにしようとしてみたが 喉につかえてとても通らなかった」と記しているような内容であった。

東郷は、当時の日本の指導者のなかでは例外的に大勢に順応しようとしなかった人物である。 自らの分析と戦略に信念をもち、それに反する妥協には応じない強靭な精神力をもった外務官僚であった。

戦争責任を問われて獄中にあったときの短歌に、

十年あまり火水の中を渉り来ぬ妥協の港に憩らいもせで

唯一つ妥協したるがくやしくも其後のまがつみ凡てはこれに

とある。その「妥協」とは開戦のことであり、また開戦に際しては辞職すべきだったところを 慰留を受けて外相を辞任しなかったことにあると解されている。

(「第十一章 真珠湾へ」)

書庫(9):吉田茂「思出す侭」より

この最後の一文は第六回分(186ページ)と重複する部分もあるが、前回の補完拾遺の意味で 最後に掲げる
ハル・ノートと米英大使
(…)かくて十一月二十三日と思うが、チャーチル首相が議会において、日本政府の態度に 対して強い不満を表示して米国政府の参戦を求めるに至った。そのためクレーギー大使も 戦争必至と考え、日英間の斡旋から手を引き、その後はグルー大使のみが、日米関係について 独り斡旋奔走を続けていた。ところが十一月二十六日付のハル国務長官の覚書が到着するに 至り、グルー大使の奔走は一層目覚しく、平生最も懇意な日本の友人を通し東郷外相に対し、 日本政府の誤解を生ぜざるようにとて、注意を促し、ハル・ノートは決して最後通牒ではなく、 日米両国政府の協議の基礎として認められたることを特に指示し、場合によっては東郷大臣より 会見を求めらるるにおいては、直接その主旨を説明すべしとまで申入れられたのである。
東郷外相への牧野伯の伝言
当時わが政府は日米関係の救うべからざるを観念してか、ハル・ノートを接受したのを機会に、 その訳文に多少手を加え、国民の感情を刺激するようなニュアンスをもったものにして、枢密院に 回付したようである。ノートの原文は日米両政府の主張を対照列配し、さらに特に冒頭に、 これは最後通牒にあらず、両国政府交渉の基礎たらしめんとする試案であるとの意味を 附け加えてあった。勿論これは開戦の場合公表されても差支えないように意を用いて書かれた ものだから、米国政府の主張を明記し、米国側に有利に書き上げた嫌いはあるが、わが政府が 直ちに開戦を決意せず、交渉に応ずる考えがあれば、無論その余地はあったのである。
当時牧野伸顕伯は東郷外相に対して「明治維新の大業は西郷、大久保など薩摩の先輩が 非常な苦心を以て明治大帝を補佐し成就したものである。今日、日米開戦するに至り、 一朝にして明治維新の大業を荒廃せしむるが如きことあらば、その後進たる外相の責任、 先輩に対しても軽からず、これは郷党としてであるが、更に閣僚の一員として和戦の決は 最も慎重なる考慮を要す。この重大なる時に当り外相として出所進退を誤まらざるよう希望してやまず」 という主旨を伝言せしめられた。

後にして思えば、十二月一日の閣議において政府の態度は既に開戦と決定し、それぞれの処置を 了せるため、牧野伯の伝言が十二月一日以前に外相の耳に入りたりとしても時機既に 遅かりしことと思われる。また外相に会いたいとするグルー米国大使の申入れも、仮りに直接面会が 得られたとしても、その時機は既におそかったものの如く、外相は遂に米大使と会談するに至らなかった。 しかしこれを今日より見れば、たとえ政府の態度が決定しおりたりとするも、開戦のその日まで 外国使臣との会談折衝は外相としては避くべきにあらずと思う。第一次世界大戦において、 英国外相グレー氏は独仏両大使との交渉会談や開戦の間際まで続けたという事実がある。 斯かる事実は外務当局者の常に念頭におくべきことであると思う。

牧野伯の意見には、東郷外相も当時強く印象づけられたものと思わるるが、後に終戦内閣の外相として 同じ東郷氏が鈴木首相を助け、事態を収拾して終戦に導き、そのため非常な努力を払われたそうである。 これは東郷外相が開戦に対する責任観念より終戦の外相として時局収拾に死力を尽されたのであると信ずる。
終戦決断へ多大の功績
ポツダム宣言を受諾すべきや否やについては、鈴木首相のほか米内海相、東郷外相は受諾を 主張し、陸相その他は本土決戦をも敢て辞せずとして受諾拒否を主張し、閣議は容易に一致を見る 能わざりしため、最後の閣議は御前において開かれ、鈴木首相は閣議一致せざる故を以て遂に 聖断を仰ぎ、聖断一下、ここに終戦をみるに至ったのである。

東郷氏は寡黙、無表情、無愛想な人である。最終閣議にのぞんだ時の外相の風貌今にして 思いやらるるものがある。終戦促進によって戦禍の拡大を防ぎ得たるは今日においては明かであるが、 終戦にまでこぎつけるためには、鈴木総理の決断が土台になったことは勿論で、その上東郷外相及び 米内海相が総理を補佐してここに至らしめた功績は決して没すべきでない。(…)

(「32 開戦と終戦の頃―東郷外相の苦心を憶う」)

書庫(8):吉田茂「思出す侭」より

東郷外相を訪ねて戦争回避への努力を希望したその足で、私は秩父宮、高松宮両殿下を お訪ねして、ハル・ノートを中心にグルー大使の心情とこれに対する私見をも申し上げ、できるだけ 戦争回避にご努力願いたい旨を懇請した。秩父宮は「それは陛下に直接上奏した方が よくないか」と申されたので私は「許されるならば殿下から申し上げて頂きたい」とお願いしたが、 何ともいわれなかった。高松宮は「君、もう遅いよ」と申されていた。これも無理はなかったわけで、 後から知ったことだが、軍部はすでに行動を開始していた。

連合艦隊は十一月二十二日千島列島沖で待機しており、二十九日の重臣会議を経て 十二月一日の御前会議で正式に一切の手続きがすんでおったのだという。私はこれらの 事態を迂闊にも知らなかったわけである。二日には米国大使館にグルー大使を訪ね、 「東郷外相は貴下との会見を承諾しない」と伝えた。大使はまことに沈痛な面持ちであったが、 「吉田さん、あなたの努力に感謝に堪えない」といった。終戦後発行になったグルー氏の著書に 「当時シゲル・ヨシダは我々のインフォーマントだった」という表現を使っている。内報者というか、 情報提供者というか。とにかくこれでは憲兵隊に狙われたはずである。ともあれ大使は十二月八日 開戦とともに米大使館に軟禁されるまでこの努力を続けていた。東郷外相もさることながら問題は 当時の重臣といわれる人達にもあったと思う。内心は戦争反対の者が多かったにかかわらず、 十一月二十九日の重臣会議で陛下の御下問に率直な意見をいう者が一人としていなかったようである。

無論軍部の強圧に押されたのであろうが、また或いは勝てるかも知れないという淡い希望などが 交錯していたのでもあろうか。それにしても最後の土壇場まで外国使臣と会談すべき立場にある 外務大臣が、開戦までなお日を残していたにかかわらず、グルー大使との会見を拒否したことは、 外務大臣たるもののとるべき態度にあらず、まことに痛恨事であったといわねばならぬ。二十六日の ハル・ノートに対する回答は十二月八日早朝東郷外相からグルー大使に伝えられると同時に 枢密院本会議で対米、英、蘭三国に宣戦布告を決定した。この頃はすでに真珠湾攻撃が 敢行せられているにかかわらず、グルー大使は東郷外相より手交された日米交渉打切りの通告を 二十六日の回答として受け取り、開戦の事実を知らなかったということである。(…)

(「7 真珠湾は奇襲だったか―先方は事前に知っていた!?」)

書庫(7):吉田茂「思出す侭」より

(…)確か十一月二十七日であったと思うが、東郷外相の代理として 現参議院議員の佐藤尚武氏が平河町の私の家を訪ねて来た。 佐藤氏は当時外務省顧問という役目だったと記憶する。 佐藤氏は一通の英文の文書を示し、これはアメリカから来たものだが、 重大なものだと思われるので、お前から牧野に見せてくれという意味の 外相の口上を伝えた。それがいわゆる「ハル・ノート」であった。 内容は日本の主張言分と、それに対するアメリカの主張言分とを詳しく書き (このアメリカ側の主張だけが当時公表された)特に左の上の方に テンタティヴ(試案)と明記し、また「ベイシス・オブ・ネゴシエーション(交渉の基礎) であり、ディフィニティヴ(決定的)なものでない」と記されていた。実際の腹の中は ともかく外交文書の上では決して最後通牒ではなかったはずである。

それだけではなく、グルー米国大使が私のところへ使いを寄越して至急会いたいと いうので、十二月一日虎ノ門の東京クラブで大使に会った。大使は私の顔を見るなり 別室に案内し「ハル・ノートを読んだか」と聞く。私は浪人でもあったし読んだことは読んだが、 当事者ではなかったから「承知している」と答えた。大使は椅子から身体を乗出すようにして 「あのノートを君は何と心得るか」というので、私は「あれはテンタティヴであると聞き及んでいる」 と返答したら、大使は卓を叩いて語調も荒く「まさにその通りだ。日本政府はあれを最後通牒 なりと解釈し、日米間外交の決裂の如く吹聴しているが、大きな間違いである。日本側の言分も あるだろうが、ハル長官は日米交渉の基礎をなす一試案であることを強調しているのだ。 この意味を充分理解して欲しい。ついては東郷外相に会いたい。吉田君から斡旋してもらえないか」という。 せっぱつまった大使の気持ちを察して私はその日、電話で外相に連絡するとともに外務省に 出向いて大使の言葉を伝えた。外相は言葉を濁して会う気配はなかった。会ったらどうなっていたか。 今から思えば結果は同じだっただろう。当時既に奇襲開戦の方針が決定していて艦隊は 早くも行動を起こしていたらしい。外相としては会うのが辛かったのであろうが、外交官としては 最後まで交渉をするのが定跡だと信ずる私としては誠に痛恨に堪えなかった。

東郷外相の依頼を受けて私は通牒の写しを当時渋谷に住んでいた牧野に見せた。 手にとって読んでゆく牧野の顔は次第に険しく「随分ひどいことが書いてあるな」と いいながら黙っている。そこで私は「外務大臣があなたに見せる以上は何か意見を聴きたいという 意味でしょう」というと、暫く考えて「明治維新の大業は鹿児島の先輩西郷や大久保の苦心によって 成就した。この際先輩たちの偉業を想起し慎重に考慮すべきであると伝えよ」という。 戦争すべきではない。先輩の大きな夢を崩すことになるという意味である。私はこの牧野の言葉を そのまま佐藤氏に伝えたところ、氏は眼に涙して「必ず外相に伝達します。私は戦争になれば いまの地位(外務省顧問)をやめるつもりです」といっていた。私はこの写しを当時やはり浪人していた 幣原喜重郎氏にも見せた。私はさらに東郷外相を訪ね執拗にノートの趣旨を説明し注意を喚起した。 東郷は「お説の通り、なお米国側と折衝するつもりでいる」ということであったので、私は少々乱暴だと 思ったが「君はこのことが聞き入れられなかったら外務大臣を辞めろ。君が辞めれば閣議が停頓するばかりか 軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか」とまでいったものである。

(「6 ハル・ノートの秘密―果たして「最後通牒」だったか」)