(…)東郷茂徳外相は、開戦当初日本国民全体が緒戦の勝利に酔いしれているときから、
早期和平を追求してきた。それは重光葵にも引き継がれたが、その交渉の過程を辿ることは虚しい。
振り返ってみて、現実の可能性がまったくなかったからである。
東郷は、戦争が第一次世界大戦のようにドイツが孤立して英米仏露と戦うことになるのを想定して、
「この戦争における外交戦はソ連の争奪にあり、これを外交の関ヶ原と目し」たが、独ソがすでに
戦っていてはソ連を日本側に引き込むことは困難なので、まず独ソ和平を策した。
時期としては、ドイツがまだ優勢なあいだのチャンスを捉えようとして、一九四二年のドイツの
夏季攻勢の前に何とかしようとしたが、ドイツは、逆に日本の対ソ戦争参加を要求してきた。
こうしてこの計画が進まないうちに、東郷は東条英機内閣を去ってしまった。
重光もこの方針を受け継いだが、結果としてソ連から明白な拒否の意思表示があった。
ソ連は一九四三年十一月のテヘラン会談ですでにドイツ打倒後の対日戦参加の意向を漏らし、
四五年二月のヤルタ密約では、南樺太、千島の引き渡しなどを条件にして、対独戦終了の
二、三ヵ月後の参戦を約している。ヤルタ密約はトルーマン大統領さえ、ローズヴェルトの死後
金庫の中に発見して愕然としたという極秘文書である。これを知る由もない日本はその後も
ソ連の仲介による和平工作に期待したが、ソ連が日本からの働きかけにいささかでも心を
動かした形跡は皆無であり、日本側の努力はまったく徒労に帰している。
ただその間、一貫してソ連の仲介を期待することは困難という正確な情勢判断を守った
佐藤尚武駐ソ大使と、それでもどこかに一縷の望みはないかと探求した重光そして東郷外相との
長文電報のやりとりは、ここでは紹介する紙幅もないが、当時の国家戦略論として滋味掬すべきものがある。
(…)
陸海軍の若者たちの特攻も、ソ連を通じる外交工作も、すべて虚しかった。日本が力尽きて
降伏する大勢に影響するところは何もなかった。
そのなかでただ一つだけ、人間の努力が日本の将来を変ええたものは、それは終戦の決断だけであった。
それはまた恐るべき人間の努力を必要とした。振り返ってみれば、昭和の初年以来、戦争と破滅に至る
節目節目で、国内の強硬論を抑える人たちの努力さえ成功していれば危局を避けるチャンスはいくらでもあった。
しかし、結果としてそれは一度も成功していないのである。
降伏の受諾は、いままでのすべての節目に比べても難事業であった。
国民は必勝を信じ、お国のためと思って、すべてをなげうって戦争に協力してきた。そして戦場では、
将兵たちは、あとに続く者あるを信じて、数知れない自己犠牲の英雄的行動を示してきた。
日本人はけっして降伏しない、最後まで戦うのだと教えられてきた。
その価値観を百八十度逆転して、敵に降伏するのである。終戦時、少年だった筆者の経験でも、
敗戦直後私が会った青年たちの半ば以上は、「どうせ負けるにしても、どうしてもっと徹底的に
戦ってくれなかったか?」といっていた。
そして、あらゆる権力も治安も軍の統制下にあった。軍は、もちろん主戦論者である。戦局の不利を
口にするだけで憲兵を恐れなければならない状況だった。
降伏をいう者は、ただちに部下の反乱と死を覚悟していわなければならない雰囲気だった。
そうした雰囲気のなかで、死生を見ること昼夜を見るごとく一身の危険を恐れず降伏を実現したのは、
大局的な洞察力と誠忠の人、鈴木貫太郎、情勢判断の客観性と論理の一貫性をけっして譲らない
理性と信念の人、東郷茂徳、そして終始一貫大勢を見誤らず、いかなる危険にも動じない士、米内光政と、
そして最後に断を下された昭和天皇であった。
真に大事なことはすぐれた人にしかできない。そしてまた、それは一人ではできない。すぐれた人が何人か
要所要所にいて、お互いに信頼と意思の疎通があった場合にしかできない。もしこの四人の誰か一人が
欠けても―たとえ、政策論としては和平派であっても、近衛文麿とか、広田弘毅とか少しでも大勢に迎合する
性格の人がそれに代わっていたならば、あれだけの決断ができたかどうかわからない。あるいは陸軍と妥協して、
余計な条件を追加して、戦争はもう数週間、または数ヶ月、一年やめられず、そのあいだ、北海道など
日本の北部はソ連等の侵攻を許し、国民は空爆と飢餓、あるいは本土決戦の地上戦の惨苦を嘗めなければ
ならなかった可能性が大きい。
(…)鈴木は外相を東郷茂徳とした。「よく知らないが、東条に辞表を出して外相の地位を去った事実に
鑑み、意思の強い人と思って頼んだ」という。
東郷は、まず見通しが大事だと頑張った。東郷は「戦争は今後一年続けることも不可能と判断するが、
総理があとニ、三年もつといっている以上は一致協力は困難だ」といって固辞したのである。
客観的情勢判断がまず真っ先で、政策はそこから出てくるという外交の鉄則を一歩も譲らなかった
東郷は立派である。
東郷が受けないので、心配した総理府は鈴木総理の真の胸中を察して受けてほしい、と東郷に
懇願し、鈴木も「戦争の見通しはあなたの考えどおりで結構であるし、外交はすべてあなたの考えで
動かしてほしい」と言質を与えて、ついに東郷は外相就任を受けた。
これで降伏への足固めはもう終わったのである。鈴木が考えたとおり、東郷の不退転の「意思の固さ」が
やがて本領を発揮することになる。(…)
(「第十六章 もう、やめねばならない」)
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