2015年8月10日月曜日

2015年8月9日日曜日

書庫(58):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より

 蘇聯大使との会見
 その間九日に在東京「ソ」聯大使「マリク」から面会したい旨の申し出があったから、 自分は連絡会議で同日は面会出来ないから急用であったら次官に面会するように返事させたが、 十日でよろしいとのことであったので、同日にこれを引見した。 「ソ」聯大使は本日政府の命により宣戦通告を伝達するとのことであったから、 自分はこれを聴取した後、蘇聯と日本との間に中立条約がなお有効であることを指摘した上に、 日本から和平の斡旋を求められ、未だ確たる回答をしない間に宣戦する不都合を責め、 かつその理由とする日本が英米支三国共同宣言を拒否せりとの点につき、 日本政府に確かめる方法を採らなかったことの不当なるを述べ、 更に「ソ」聯の態度は後日歴史の批判を受くべきものだと云ったが、 彼は「ソ」聯の行動はなんら間違いないはずだとの趣旨を、抽象的の言葉で述べ立てるだけで更に要領を得なかった。 引続き自分は、日本政府の「ポツダム」宣言受諾に関する通告につき説明を加え、 「ソ」聯政府への伝達方を求めた。


「第三部 太平洋戦争勃発後」
「第六章 ポツダム宣言受諾と終戦直後」より

書庫(57):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より

 蘇聯の対日参戦
 然るに翌九日未明に外務省「ラジオ」室からの電話によって蘇聯が日本に宣戦し、満州に進撃したことを知った。 即ち八日午後十一時、佐藤大使が「モロトフ」委員に面会したときに宣戦の通報を受けたのであるが、 その会談、従って宣戦通告の電報は遂に東京には到着しなかったのである。 自分は早朝総理を訪ねて「ソ」聯参戦の次第を伝え、急速戦争終結を断行するの必要あることを述べたが、 総理もこれに同意したので、同席していた迫水書記官長から大至急戦争指導会議構成員を召集することに手筈を定めた。
 外務省への途次海軍省に米内海相を訪ねて、総理へ説いたのと同様のことを述べたが、 更に同省にて邂逅したる高松宮に対しても成行を説明して、直ちに「ポツダム」宣言を受諾することの必要を述べたが、 殿下は領土の点につきて何とかならぬだろうかとの御話があったから、 その点に就ても考慮して来たので方法があったらなお何とかしたいのですが、 今日となっては恐らく致し方ないと思いますと云って退下した。


「第三部 太平洋戦争勃発後」
「第六章 ポツダム宣言受諾と終戦直後」より

書庫(56):牛村圭「「文明の裁き」をこえて」より

(…)
 東郷は『時代の一面』を、二十年の禁固刑の判決を受けた虜囚として、憤懣やる方なき心境で綴った。 その草稿を、病室に見舞いに来た娘に手渡した五日後に世を去ったという事実をも考え合わせれば、 この書は彼の遺書であり、弁明でもある。従って読む者は、どれほど東郷の姿にひかれようとも、 心して読むべきであろう。幸い、この会見に同席した加瀬俊一の次の回想が傍証となってくれる。

 マリク大使が宣戦通告分を持参した時には、ソ連軍は既に満州に殺到していた。 東郷・マリク会談はひと目を避けて貴族院貴賓室で行われ、私が立ち会ったが、 東郷は厳粛な表情で大使を引見し中立条約違反を烈しく難詰した。 大使はボソボソと低声に弁解したが、あたかも検事が被告を叱責るようで小気味よかった。 崩壊寸前の日本なのに、東郷の態度は堂々として立派だった。後にマリクは国連において私の同僚大使になったが、 『あの時は寿命の縮む思いがした』と述懐したものである。

 読む者にさながらその会見が眼前で展開しているかの如く、情景を思い浮かばせる文章である。 「厳粛な表情で大使を引見し中立条約違反を烈しく難詰した」の一文は、如何にも東郷らしく、 彼の面目躍如たるものを感じさせるに十分である。傍らでこの様子を見ていた加藤の、 「小気味よかった」という感想も、条約無視の上対日宣戦したソ連への憤りを痛烈に感じていた、 当時の日本人の一人としての、偽らざる気持ちであろう。後日加瀬にマリクが漏らしたという 「あの時は寿命が縮む思いがした」の一言は、加瀬の脚色が加えられている気味もあるが、 それでも東郷の詰問の激しさを十分裏書きできるものである。
 このマリク大使に対する東郷外相の言動は、野村大使に対するハル国務長官の態度と比較して、 「強い精神」の発揮という点においては全く遜色がない。 東郷茂徳は、丸山が指摘するような「弱い精神」の持ち主では決してなく、「強さ」の発揮が必要とされる場合には、 遅れて宣戦通告を持参したマリクを叱りつけたように、丸山眞男の言う「強さ」を十分発揮できた人物である、 と主張して一向に差しつかえない。
(…)

(「第3章 「私人の間の気がね」と「腹藝」―東郷茂徳外相の論理」より

書庫(55):東郷和彦「北方領土交渉秘録」より

(…)
「こんちくしょうだったよ」―。
 外務省でロシアとかかわることになってすぐのことだったかと思うが、 母、いせに、私の祖父、東郷茂徳にとって、また終戦の頃の日本人にとって、 ソ連という国はどんなものだったかについて尋ねたことがあった。 その時、母は語気を荒げてそう答えた。
 母は、茂徳とドイツ人の妻エディの間に生まれた、一人娘だった。 ”外交官のお嬢さん”として祖父の赴任先の欧米各国を回っていたために、 日本での正規の教育はほとんど受けたことはなく、 勉強は外国人の家庭教師から教わっていた。 そのせいもあってか、言葉に関しては多少ハンディを抱えることになった。 英語とドイツ語は「ネイティブ・スピーカー」だったものの、 日本語に関しては生涯そのレベルには達しなかったのである。
 実際、母が自分の楽しみのために読む本は、英語かドイツ語のものばかりで、 日本語の本を読んでいる姿は見たことがなかった。
 私の父親の東郷文彦もアメリカ畑の外交官だったが、私が高校や大学時代に、 父の赴任先に同行した母から送られてくる手紙は、漢字はほとんどなくて、 丸い可愛らしい字で書かれた平仮名ばかりだったのをよく覚えている。
 母は日本語は基本的に祖父茂徳と、父文彦との会話の中で学んだために、 「こんちくしょう」という、女性には似つかわしくない男言葉が飛び出してきたのである。
 それでは、何が「こんちくしょう」だったのか。

 祖父、東郷茂徳は、太平洋戦争の開戦時と終戦時に外務大臣を務めた。 開戦前には東条英機内閣の外務大臣として日米交渉にあたり、戦争の回避に全力を尽したのだが、 交渉は決裂。茂徳は開戦の詔勅に署名、一九四一年十二月八日真珠湾攻撃によって日米戦争が始まった。
 一方、四五年には再び鈴木貫太郎内閣の外務大臣に就任。総理の覚悟が終戦にあることを確認した上で、 それを実現するための決死の入閣であった。
 まず、総理、外相、陸相、海相、陸軍参謀総長、 海軍軍令部総長の六者からなる最高戦争指導会議を定期的に開催することとし、 補佐の人間を拝することにより、本音で話し合う関係をこの六者の間で作っていった。 当時は、世評においては「一億玉砕」などの勇ましい意見が風靡し、戦争終結工作には暗殺の危険すらある時代だった。 そのため、最高戦争指導者たちの本音の議論は、絶対に外に漏れてはならなかったのである。
 この会議で、六者共通の関心事項は、ソ連を仲介とした終戦の調停だった。 この時、ソ連は、連合国の中で日本と戦争状態に無い唯一の大国であり、 軍部も、交渉によりソ連の脅威を減殺することには、かなりの関心をもっていた。
 しかしながら、広田弘毅元総理を特使とする箱根におけるマリク駐日ソ連大使との会談、 モスクワにおける佐藤尚武大使とモロトフ外相との会談、 さらに近衛文麿特使の派遣も検討されたが、いずれも、はかばかしい効果をもたらさなかった。 ソ連はすでに、四五年二月ヤルタ会談の時点で対独戦終了後、二ヶ月から三ヶ月以内に対日参戦することを決めており、 スターリンには、日本からの仲介要請を真剣にとりあげる意図はまったくなかったのである。
 そして、八月八日未明、日ソ中立条約が未だ有効だったにもかかわらず、 ソ連軍は、当時の満州国国境へと殺到したのだった。
 八月六日に広島、九日には長崎に原子爆弾が投下されたことともあいまって、このソ連の対日参戦により、 日本の敗戦は、いよいよ決定的な状況になった。
 この時、それまで戦争終結工作を軸として行われてきた密室での議論によって、六人の最高戦争指導者の間には、 言葉で表現できない暗黙の心理的な基盤が出来上がっていた。 そして、そのことが、一部の陸軍将校が玉音放送の録音盤奪取事件を画策するなどの動揺があったにもかかわらず、 とにかく平穏裡に終戦にこぎ着けることが出来た、最大の要因となったのである。

 七月二十六日にポツダム宣言が発出された後、原爆の投下とソ連の参戦という悲劇を甘受しながらも、 ともかく八月十五日に戦火を収め得たことは、茂徳の人生にとって、「なすべき事を果たした」終生の事業となった。
 終戦を決めるプロセスにおいては軍部の考え方を代表し、和平をめぐる条件について茂徳と激論をかわし、 終戦の御聖断の後、粛然と自決され、自らの死をもってはやる軍部への重しとなった阿南惟幾陸軍大臣も、 おそらくは、同じ思いだったのではないだろうか。
 しかしながら、有効な中立条約を無視した参戦、約六十万の日本兵のシベリア抑留、 さらに、日ロ間の平和裡な国境画定によって日本領であることを何人も疑っていなかった北方領土の占領など、 四五年夏から秋にかけてとられたソ連の行動は、当時の日本指導部と日本人の中に、激しい怒りと心の傷を残した。
 開戦から終戦まで、母は、私邸にあってその多くの時間を祖父茂徳とともに過ごした。 当時の日本の指導者が、命をかけて終戦を実現しようとしていたのをその横で感じていただけに、 ソ連の背信行為に母は、おもわず「こんちくしょう」と述べたのだと思う。 それは、遺著『時代の一面』の中に、 「『ソ』聯の態度は後日歴史の批判を受くべきものだ」とその無念さを述べた茂徳の心情でもあったに違いない。
 「こんちくしょう」
 それはまた、ある意味で、私の原点にもなった。私は、できるだけ日本の国益が大きくなるような日ロ関係を構築すべく、 仕事人生の大半のエネルギーをかけた。そのためには、日ロの当局者の信頼関係の構築を不可欠と考えた。 しかしながら、心の中において、片時も、「こんちくしょう」との思いが消えたことはなかった。
(…)


「第二章 ロシアとの出会い―青年外交官時代」より

2015年8月2日日曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(13)

(東郷)…それから十四日は第二回の御前会議があつたのです閣員全部及統帥部両総長を御召しになつての会議です。 最高戦争指導会議とは違ふのです。 それに平沼さんは特旨により二度列席せられた。 これはずつと前からの例です。 原議長の時から参列する例になつて居つた訳です。 十二、十三の両日に渉り自分等は議論を尽した訳であるから十四日の御前会議では総理が発言して、 先方回答について、外務大臣は不満足の点はあるけれども大体に於て日本側の主張を入れたものだと言ひ得る。 又此際交渉を継続するも今次回答以上に有利になるものを獲得し得る見込は立たない。 尚保障占領武装解除に関する新条件を提出するときには、 今の国際情勢から見ると皇室の安泰と言ふ問題もどうなるか分らない、 従て此際直にポツダム宣言を受諾した方がいゝと言ふ意見でありまして、 閣議の大多数はそれに賛成して居ります。 それに反対のものが閣員の一部並に統帥部の方にもあります、 それで反対の意見だけこゝでお聴きを願ひたいと奏上した。 反対意見者にだけ陳述せしめやうと言ふのです。 無論陛下の方は閣議及最高戦争指導会議で、どう言ふ筋道でどう言ふ議論があつたといふことは御承知です。 自分もその前に参内して成行きを申上げて置いた。 それで御前会議に於ては反対論者の意見だけを御前会議でもつて述べさした訳です。 右意見の開陳が了つた後陛下は自分のポツダム宣言を受諾すると言ふ決心は前の時とちつとも変はらない。 若し今日受諾しなかつたならば国体も破壊せらるゝし民族も絶滅せらるゝことになる仍而此際は難きを忍んで 受諾する必要がある、外務大臣の意見に賛成である、尚陸軍大臣の話しでは軍の内部に異論があるとの事であるが、 此等のものにもよく分らせるやうにせよ、又自分の志思のある所を明にする為に詔勅を準備せよと言ふお言葉でした。 其後に閣議になつて午後十一時詔勅が発布せられた。
(大井)もう時間も迫つて来ましたが、 その危かつたと言ふ時に阿南大将が辞職しはしないかと言ふ心配はなかつたですか。
(東郷)あつたんですよ。阿南大将は或は辞職するんぢやないか、 内閣倒壊に出るんではないかと言ふ予想がないではなかつた。 それでこれは総理と迫水君もはいつてそんな話が出て、 その場合のことを考へて置く必要があると言ふことを話したことがあるんです。
(大井)さうしますと阿南大将に強く戦争継続論を出されました時にも大した心配はありませんでしたか。
(東郷)私自身は阿南君とは前に言つた通り、屢々各問題に付意見を交換したのであの人の気持は相当分つてゐた。 其頃の阿南君の考へは結局この戦争は継続出来ない条件は相当苛酷なものになるだろうが、 結局容れなければ仕方ないぢやないかと言ふのでした。 併し一方軍の面目と言ふものも考へなくてはいけない地位にあるし、 下の方では強硬な意見を持出し、又劃策してゐるので阿南君は全然耳を貸さない訳にはいかない、 少しは強いことも言はなければならぬ。 併し事実肚の中は相当分つてゐたと私は解釈して居た。 殊に和平促進に就ての陛下の御思召もあつたので内閣倒壊も企てないし又クーデターにも結局賛成しなかつたのだと思ひます。
(大井)さうしますと東郷外相としては阿南さんと色んな話をして、阿南さんの肚の中は分つて居つた訳ですね。
(東郷)内閣倒壊と言ふところまでは行くまい、クーデターにも賛成することはあるまいと言ふことに大体僕は見て居つた訳です。
(大井)そこから自然に動揺したり危機を感じたりする点はあまりなかつた訳ですね。
(東郷)そこまで感じなかつた。危ないことはあつたけれども、何とか切抜け得ると言ふ自信を持つて居つた訳です。
(原)肚は分つて居つたと言ふのは、表面は強いことを言つてゐるけれども本心は弱いと言ふのですか、 それともあの人の終戦にもつて行こうと言ふ本当の気持が分つたと言ふのですか。
(東郷)大体終戦にもつて行かなければならぬと言ふ気持であつたと言ふことです。 さつきも言つた通り、本土上陸をしたら、結局は時の問題になるんだと言ふ僕の意見を卒直に容れた。 そんな話は外にいくらでもあるんで、阿南君は頑迷な考へ方の人ぢやなかつたと言ふことに私は考へる。
(原)自分の本当の気持以上に、部内から圧迫によつて強い意見を言つたと言ふことも若干あつたかも知れないが、 本質として、さう言ふ点がありましたでせうか、色々話をされて見て…。
(東郷)阿南陸相も原則としては和平に賛成して居つたんです。たゞ条件について四条件の提出を主張したのですが、 これも御裁断によつて国体問題に関する留保丈けにした。 最後の段階に於て右留保条件に対する先方回答が不十分だといふのは先づいゝとして、 先きに御前会議に於て提出せざることに決まつた条件迄も提出せよと言ふのは理くつに合はぬことである。 そこいらのところがどうも前の阿南君とは少し違ふと思つた。 即このところが下の方から押されてゐるんぢやないかと言ふ気持をその時僕はもつた。
(大井)それからポツダム宣言を受諾したならば、天皇が退位を要求されると言ふやうな心配はありませんでしたか。
(東郷)僕は寧ろ逆に考へてゐるんです。 当時各国の形勢より見れば日本がポツダム宣言を受諾しないで戦争が継続せられたなら、 退位の問題所か、皇室全般が危険に瀕することになつたのですが、 あのポツダム宣言に関する先方回答に書いてある所より見ても日本政府の形態は日本国民の自由に表明せる意思によりて決定せらるべきものとありますから天皇制を排斥したと言ふのではない。 日本人を知つてゐるものの気持では寧ろ天皇制の存続を認めたと言つても差支ない訳なんですね。 天皇制を認める以上は天皇の現在の地位を認められなくちやならん筈だ。 それでポツダム宣言から言へば今の陛下は其儘に承認せられたと言ふことが言へるんです。 さもなければポツダム宣言及びその後の回答に於ける書き方は変つてゐなければならない筈だと考へる。

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(12)

(東郷)…十二日になつて向ふの返事が、分つた。 正式なものは十三日の朝着いたが十二日はラヂオで聞いた。 それで午前中に参内して陛下に申上げて午後に臨時閣議を開いた、 その際又議論が出た。 先方の回答では不十分である。 依而国体擁護に付いて更に申入るると同時に、 先日ドロツプした武装解除及、保証占領の問題を条件として更に持出す必要があると言ふことを軍部の方から申出た。 軍部と言つてもその時は臨時閣議だつたから阿南から申出て来た訳です。 一部の閣員のものにも賛成するものがあつた。 自分は之に対し、先日聯合側に対する留保として皇室の御安泰と言ふ問題のみを出して置きながら、 今日更に別箇の条件を追加するのは甚だ不穏当で聯合側よりすれば日本側に於て話を打壊す底意があるとしか考へられない。 而も九日議論を重ねた挙句、 御聖断によつてさう言ふ問題は出さないことに決つたに係らず此際更に提出せんとすることは御前会議の決定をも無視すると言ふことになる。 又戦争継続は不可なりとの御聖断により処理して来たに係らず、此際多数事項の申入れを為して交渉決裂、 戦争継続に導かんとするは事理に反するもので自分は断固反対だと言ふことでもつて論駁した訳です。 ところが昨日あなた方に木戸が話したと言ふのでつけ加へて申上げますが、 其日閣議で総理がどうした訳か知らんけれども、どうも向ふの返事は十分ではない、と思ふ、 又武装解除を全然向ふの手でやらなければならぬと言ふのは軍人としてはとても承諾は出来ぬ、 こう言ふ事では、戦争を継続してやると言ふことにするより外はありません、と強硬な意見を述べられた。 どうも困つたことを言ひ出されたと思つて、自分は、その問題は余程考へる必要があります。 たゞ戦争を継続して、後はどうにでもなれと言ふ無責任な態度はとりたくない、 戦争を継続して戦争に勝つと言ふ見込がなければ、 交渉成立の方面に進めなければなりません。 と言ふと同時に、正式の返事が来てゐないことを指摘し、 閣議は正式の返事が来てから続けることにした方が適当ではないかと言つて散会に導いたことがあります。
(大井)戦争継続論は閣議の席上ですか。
(東郷)さうです。それで之に対し自分は今述べたことを言つたのですが、閣議終了後自分は直に別室で総理に対し、 あなたの今のお話は納得し兼ねる、この武装解除の問題だつて前に決つた問題だ、 それを今から持ち出すと言ふのは筋違ひだ、ぶつこわしと言ふことにしかならん訳だ。 又其他の問題にしても、戦争に勝つ見込がついてゐなければ強くは出られない。 又陛下の方でも戦争の継続は不可能と考へて居られるに係らずあなたが戦争継続を言はれたことは自分には納得出来ない、 依而私は単独上奏することになるかも知れませぬから左様承知を願ひたいと言つて私はそこを出た。 但し陛下に直接申上げては閣内不統一と言ふことで事態は重大になるそれで木戸にその話をして、 困つたことが出来たんだと言つた。木戸君はその話を昨日した訳でせう。
(大井)武装解除と言はんで国体護持と言つたやうな。
(東郷)その時の閣議の話は、国体護持に関する先方回答も不十分だと言ふことであつたが、 その他武装解除は先方きりでやるのは軍人として承知出来ませんと言ふことを言つてゐた。 二つの問題があつたんですね。それで困つた、と木戸に話した。 陛下にぢかに申上げると角が立つと思ふので…。すると木戸君は陛下のお考は最早はつきり決まつて居るのだから、 鈴木さんに話すことにしようと言ふ訳でした。 その後すぐ木戸君から聞いたんですが、鈴木さんはよく話は分つた、先方の回答通りでいゝと言ふことで、 進むことに話はついた。 陛下の思召と言ふことならば話しの分る人なんだからと言ふことだつた。 その時の僕の進むべき途は、陸海軍の首脳部を説きつけることで、それは大部分成功するが、 ぎりぎりのところに行くと或る点喰違が出来る、これは初めから予想してゐた訳です。 それにしても閣員の大多数は自分の方の味方につける、而も総理が自分の方に賛成する、 それでもつて推して行けると言ふのが僕の大体の作戦なんですね。 ところが総理がグラついては此案は停頓する訳です。 而も僕はどんなことがあつても戦争継続に反対するつもりだつたから、 戦争継続論が強くなつたら閣内の不統一で内閣は辞めなければならぬことになるのだから、 此危急の際に内閣が辞めては時機を失する許りでなく、戦争終結反対の運動も盛んとなり、 国内が大混乱に陥り和平の成立は覚束ないことになる懸念があつた訳です。 従て、その十二日には、危機至れりと感じた訳ですが、その時鈴木さんがどう言ふ気持であゝ言ふ事を言つたのか、 今でも分らんのです。 それから十二日から陸軍の若い方で動いてゐる、陛下を擁してクーデターを行ふと言ふ計画があることをうすうす聞いた。 これより先、七月始めに米内君に和平問題が動き出すと色んな騒ぎが起ると言ふことを予想して置かなくてはならぬ、 お互に生命は初めから投げ出してかゝらなければならぬが、騒ぎが大きくならんやうに手筈をして置く必要がある、 海軍で手筈が出来るかと言つたら、それは横須賀から持つて来ることも出来ると言つた。 又海軍部内にも反対が予想せらるゝが之はどうするかと言つたら反対する者は必要次第陸軍大臣の力で罷免すると言つたことがある。 それで、十二日は形勢が不穏になつた模様があるから米内海軍大臣に対し万一の場合を考慮して貰ふ必要があると申入れた。 それから内務大臣は強硬論者だからあまりあてにならん訳だが町村警視総監は騒ぎがないやうに早く和平を成立せしむるやうにして貰ひたいと松本外務次官に言つて来たので同君の方に連絡をとつて、手筈を整へて置く必要があると言ふことを注意さした。 軍の一部では十二日から十三日の晩あたりに動き出す模様があつた。十四日までが険悪だつたでせう。 しかし幸に大したことはなく治まつた。 私の処にも警察からうんと護衛を増した。そして十四日の晩は宮城で一部の兵隊が騒いだ訳ですが、 大きな騒ぎになり得ない、 不平をもつてゐる分子が動くので僕等に対する危険は続いたが十四日過ぎには全般的に動くクーデターとか大規模の騒擾とか言ふことには時期を逸した感があつた。 後から聞いて見ると、結局の処阿南君もさう言ふ騒ぎには賛成しないで、板挟みになつた訳ですね。 それで本当にクーデターでもあれば、和平問題は飛んでしまふと言ふことになる訳なんだけれども、 今見たいな成行きによつて危機は脱し得た。

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(11)

(東郷)…それで十一時から最高戦争指導会議の構成員の集まりが始まつた。 そこで自分から最近の成行を報告して、事態切迫せる今日、 勝利の成算立ち難き状況に在りては直ちに和平に応ずる必要がある、 速にポツダム宣言を受諾するを適当と認める。 たゞ日本にとつて最も必要なものは皇室の安泰と言ふことで、 これは絶対的のものであるから、 これのみは是非留保する必要がある。 併し多数の条件を出すならば、 最近米英ソ支其他の状勢よりして拒絶せらるゝ懸念が甚大であり話が根本的にこはれる覚悟を要するから、 条件は絶対必要なものだけに限る必要があると言ふことを詳細に渉つて話した。 それに対して軍部の方からは、軍部と言つても海軍大臣は僕の意見に賛成ですから、 陸軍大臣及両総長ですが、この三人は他の条件を付加する必要がある、 皇室の安泰、国体擁護に付留保を附することは当然のことで異存はないが、 その外に保証占領に付て日本の本土は占領しないことにする必要がある。 若し本土を占領する場合には東京等を除外し、地点をなるだけ少く、 而も兵数をなるだけ少くすると言ふことにさせる必要がある、 第三には武装解除は日本の手によつてすることにしたい。 第四には戦争犯罪人の問題、これも日本側で処分することにしたい、 斯う言ふ四つの条件を出したいとの主張です。 それに対して自分は成程さう言ふ条件は自分としてもそれが貫徹し得らるゝならば希望する訳であるが、 今米英其他の情勢を見るのに此等多数の条件ともこれを容れさせる見込はつきかねる。 さう言ふ問題を持ち出すと交渉は決裂すると言ふ覚悟が必要だ、 交渉が決裂した後で戦争に勝つ見込があるのかと質問したら、 軍部の人も、究極的に勝つと言ふ確算は立ち得ない、 併しまだ一戦は交へられると言ふ訳だつた。 尚自分から日本の本土に上陸させないだけの成算があるかと聞いたのに対し、 参謀総長はうまく行けば向ふから上陸軍を撃退することが出来る。 併し戦争であるからうまく行くとばかりは考へる訳にはいかない。 要するに上陸軍の大部分を撃滅することは出来る、 言ひかえて見ると、向ふに非常なる損害を与へ得ると言ふ自信はあると言ふ訳です。 それで僕は又言つた。上陸部隊に大損害を与へても或は一部は上陸して来ると言ふことになる訳だ、 尚又或る時期を経た後に第二次の上陸作戦が予想せらるゝ訳だ。 而も第一の上陸に際しての戦闘に於て、 日本の方は飛行機その他の重要兵器を失つて其後短期間に補充する見込は立たないことになる。 それでは原子爆弾の問題は別とするも第一次上陸戦終了の後に於ける日本の地位は全く弱いものになつてしまふではないか。 さうすればその戦闘によつて相手に損害を与へ得ると言ふことは別問題として、 上陸戦後に於て相手国の地位と日本の地位と比較して、 我方は上陸戦前よりも甚しく不利なる状況に陥るものと言ふべきである。 斯う言ふ事態に於ては早い時期に於て戦争を終結する以外に方策なしと言ふことになる、 従つて日本としては絶対に必要なもののみを条件として提示し、 以て和平の成立を計ることがこの際とるべき方法だ、 と随分激しい議論を交へた訳です。
そのうちに昼の一時近くになつて来たし、午後は閣議も開くことになつて居つたものだから、 総理は、此の問題は閣議にも諮る必要があるから閣議の又後に集まつてやることにしようと述べ、 決まらないままに別れて閣議に行つた。 閣議になつてからも最高戦争指導会議の議論と同じやうな議論が蒸し返された訳です。 阿南陸相も自分も午前と同じやうなことを言つて、結局議論は対立です。 そのうちに総理の方で、外務大臣の意見に賛成するものと反対するものと言ふことで閣僚の意見を尋ねた。 過半数が僕の意見に賛成した。 反対のものもある、はつきりとした意見のないものもあつた。 それで閣僚の意見は一致しない。 そこで総理は自分と共同謁見して、これ迄の討議の状況を上奏したいと言ふので、 閣議は其儘として参内した。 そして自分から説明をしてくれと言ふ総理の話だから、 自分は今迄の議事の成行を詳細陛下に申上げた。 総理は更に斯う言ふ情勢ですから最高戦争指導会議の御前会議を開くやうにお許を願ひたいことを陛下に申上げ、其御許しがあつたので、直に最高戦争指導会議が開催せられた訳です。
最高戦争指導会議に於ても先づ自分から、 さつき述べた午前の最高戦争指導会議の構成員会同に於けると同じやうなことを言つた。 阿南、梅津、豊田の三人は外務大臣の意見に賛成出来ませんと言つて反対意見を述べた。 海軍大臣と当日特に列席した平沼枢府議長は自分に賛成を表明せられた。 しかし全部の意見が一致しないから、鈴木総理は、 かやうな状況ですから陛下の御聖断を仰ぎたいのです、と言ふことを申上げた。 ところが陛下は、 自分は外務大臣の意見に賛成であると言はれて従来軍の述べた所と事実とが相違せることが尠くない、 完成したと報告を受けたもので出来てゐないものがある。今後成算ありと言つても信頼し難いものがある、 仍而難きを忍んで直に戦争を終結し国体の安全を図る必要があると仰せられた。 これにより戦争指導会議は国体擁護に関する留保のみを附してポツダム宣言と受諾することに決した。 それで又閣議を開いて御聖断を体し、 最高戦争指導会議と同一趣旨でもつてポツダム宣言を受諾するが決定せられた。 皇室の御安泰と言ふことのみを条件とすると言ふことが閣議で決つて、 斯くしてスイス、スエーデンを経て米英其他に申入れをなした訳です。

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(10)

(大井)それでは十二を…。
(東郷)原子爆弾の問題ですね。これはこの質問の書きぶりを見ると一寸斯う言ふ気持を持つんです。
原子爆弾が投下されたら外務大臣は直に天皇或は閣議に何か提案すべき筋道のものではないか、 と言ふことがこの質問の裏にあるやうな気持がするんです。 書いた人は必ずしもさうではなかつたかも知れないけれども、これについて一寸良い機会だから話して置きたいことは、 第一に原子爆弾投下は軍事々項だからあれについて報告するのは外務大臣ではなくして軍部の大臣、 又内地の事項だから内務大臣、斯う言ふものから報告がなくてはならぬ。 それから最高戦争指導会議についても、これも軍部大臣統帥部の方から戦闘事項の報告があるのが適当である。 それからもう少し掘り下げて行くならば、ついでに申上げるならば、全体戦争について、 戦争をするとか止めるとか言ふことはアメリカあたりの関係とは違ふので、日本では外務大臣単独の主幹事務ではありません。 これは無論陛下の宣戦講和の大権によるが、本質は外務大臣のみの輔弼事項ではなくつて、内閣に於ては各閣僚殊に総理大臣、 それから統帥部に於ては両参謀総長の問題になる訳なんだ。 即ちさう言つたものゝ意見が合致すれば、陛下はその合致したところによつて行動なさる。 併しこの統帥部が、あなた方もよく知つて居られるでせうが、なかなか日本ではえらい勢力を持つてゐたから、 統帥部と政府との間の意見は何時でも別途に之を上奏するのであつた。 そして陛下の手許で両者を統合せらるゝ訳です。 日本では何時も統帥部と政府の御前会議なしに戦争を始めたこともなく終結したこともない。これが大きな建前です。
外務大臣が戦争の開始及終結に関する主管大臣だと言ふことは観念的に非常な問題であるといふことが、 この問題を掘り下げたところの根本の点なんだ。 あなた方はさう言ふ誤解はないだらうと思ひますが、世間ではよくさう言ふこともあるので一寸申上げて置きます。
それでこの原子爆弾になると、私が初めて知つたのは外務省が受けたアメリカあたりの放送だつたと思ひます。 それで直ぐ陸軍の方に聞いたら、米国では、原子爆弾とか言つてゐるけれども非常に力の強い普通の爆弾とも思はれる。 これについてはもう少し調べて見る必要があるといふことを言つて居つたのです。 併しどうも外国では非常に之に重きを置いて言ってゐるから、調査をするならば早くする必要があるぞと言ふことを僕は言つて置いた。 その翌日即七日なつて関係閣僚だけの閣議が開かれた。 陸海軍大臣、内務大臣、運輸大臣も居つたと思ひますが、自分はアメリカでは原子爆弾は戦争に革命的な変化を与へるものだ、 それで日本が和平に応じなければ重ねて他の場所にも投下すると放送して居ることを報告した訳です。 陸軍の方では、さつきお話したやうなことを言つて、あれはまだ本当の原子爆弾と言ふことは分らん、 人を出してゐるからその報告を待つ必要があると言つて、あの効果を非常に小さく見ると言ふことに努めて居つたんです。 併しアメリカの宣伝放送が非常に強いから、自分はその翌日の午前でしたらうと思ひますが陛下に拝謁して、 外国の方では斯う言ふことを言つて居ります。戦争の革命であるのみならず社会に対して生活にも大なる革命を来すものだ。 日本に対しては降伏するのでなければ重ねて又原子爆弾を落す、斯う言ふことを言つて居りますと、 米英よりの放送に出て居つた材料によつて説明し、事態の急迫について申上げた。 陛下は、あゝ言ふ新しい兵器が現はれた以上戦争を継続することは不可能だと言ふことをはつきり言はれました。 僕もそこで愈々講和を急ぐ必要がありますと申上げたところが、無論さうだ、速に戦争の終末を見るやうに努力せよ、 尚総理にも其旨を伝へよとの御言葉があつたので自分は直ぐ総理に話をして最高戦争指導会議構成員会議を開催して欲しいと申入れた。 然るに当日は何か都合の悪い人があつて翌日即九日の朝に其集まりを開くといふことになつた。 ところがその九日の日はロシアの参戦と言ふことが現はれて来た訳です。
(大井)迫水氏からステートメントが出て居りましたが七日の閣議では外務大臣から言葉は婉曲であつたが意味は明確に、 このポツダム宣言を速かに受諾すべきであると言ふことを提案して居られた、斯う言ふことを言つて居りました。
(東郷)それは新しい武器が出来たと言ふことでもつて総て戦争の様相は一変した、 軍隊の方としても戦争を止めるについては割合楽に其理由を説明し得るぢやないか。 又ポツダム宣言と言ふものが提出せられたのであるから之を基礎にして考慮したらよからうと言ふことを言つた訳です。 しかし皆はなかなかそこまでいかんし、それから陸軍の方はさつきも言つた通り、 原子爆弾といふ向うでも言つてゐるけれども自分達は疑ひをもつてゐると云ふことで私の話に賛成しなかつた。 従て調べる方はやめてすぐ戦争終結に決意したらいいと言ふ訳にもいかなかつた。
(大井)The United States Strategic Bombing Survey.には七日の朝総理と外務大臣は相談して天皇にニュースを報告したと書いてあります。 八日の間違かも知れませんが。
(東郷)八日は僕と総理とで拝謁したことはありません。
(大井)On the morning of 7 August Suzuki and Togo conferred and then reported the news to the emperor, stating that this was the time to accept the Potsdam Declaration. The military side still however could not make up their minds to accept it.
となつてゐます。
(東郷)前に述べた八日拝謁前に総理と話しました。それは僕が陛下に申上げたやうなことを鈴木総理にも話した。 陸軍では原子爆弾ではないやうなことを言つてゐるが、外国では盛に斯う言ふことを言つてゐるんだ、 それで事態を速に収拾する必要があると言ふことを総理にも話したんです。その後に宮中に行つた。
(大井)ポツダム・デクラレーシヨンをアクセプトする時期であると言ふことを天皇に申上げた…
(東郷)前から其趣旨のことは申上げた訳ですが、八日にははつきり其れを言上した。 又陛下の方からも如斯新兵器が出て来た以上戦争継続は出来んと言ふことを言はれた。 戦争継続の問題は政戦の方面からの見解の外に大元帥としての陛下は別の見地から御思召があり得る訳であるからかゝる新兵器が出て来た以上戦争の継続が出来んと言はれたことは戦術上から観ても戦争が出来んと言ふ意味だらうと思つて居つた。
(大井)ソヴエートを通じてポツダム・デクラレーシヨンの本当の厳密なる意味をはつきり知りたいと言ふ気持も前にはあつたが、事態は今となつてはそれ所でないと…。
(東郷)それ所ぢやない。だんだん事態は切迫して居つて、斯うやりたいと思つて居つてもそれが出来なくなつてしまつた訳です。 さつきのはソヴエートを通じて明確にすると言ふ意味ばかりではないですよ。 ソヴエートは仲介してゐるんだから、日本が言ふことを一々取次いでくれるのか、或はソヴエートが仲介して日本と米英の代表者が会ふと言ふことになるのか、 その時の成行きなんですから、ソヴエートを通じて明らかにすると言ふ意味とは少し違ふのですね。
(大井)何れにしてもポツダム宣言を受け入れる時期がある訳ですが、ソヴエートが真中にはいつてしまふか、 或はデイレクトにするやうになるか知らんけれども、ポツダム宣言をはつきり基礎に置いて戦争を終ると言ふ訳ですね。
(東郷)さうです。
(大井)それから十三を。
(東郷)十三のソ聯の参戦ですが、九日の夜の明けないうちに外務省の方でラヂオをとつてゐるものゝ方から知らして来たんです。 それはソ聯の宣戦及満洲への侵入に関する報道であつた。 だから自分はすぐ総理を訪ねた。総理は焼け出されて小石川の自分の私邸に居つた訳ですが、 向ふを訪ねて行つた。その時迫水君も来てゐました。 総理に昨日広島の原子爆弾のことから直ぐ最高戦争指導会議の構成員の会議を開いて貰ひたいと言ふことを言つて置いたが、 斯うなつて来るといよいよもつて直に戦争を終結する決定をする必要がある、と言つたところが、私もさう思ふ、直ぐさう言ふことに計らいませうと、 総理は私の言つたことに賛成した訳です。
私は海軍大臣とも打合せして置いた方がいゝと思ふので、外務省に行く途中海軍省によつた。 米内海軍大臣に対し、いよいよはつきり決めなければいかんと言ふことを言つたら、それはさうだと言ふので、すぐ賛成した。 それから高松宮の部屋に行つたが、どうだと言ふお尋に対し自分は事態急変せる今日、国体問題を留保する以外ポツダム宣言をそのまゝ受諾する外ありませんと申上げた。 すると高松宮は、さうだと思ふが、領土の問題について何とかもう少し出来ないだらうかと言ふお話。 私は昨日こゝで説明したやうに、大西洋憲章の関係からするも問題があると思ふ、その辺の話をする目的で連合側と交渉に入りたい為め今まで努力して来たんですが、 もう斯うなつては交渉の余地はないと見るより外ありません。それで領土の問題でも甚だ遺憾ですけれども、今日に於てはこれは持出すことは甚だ困難と思ひます。 しかし機会があれば更に努力することにしませうと言つてお別れした。

2015年8月1日土曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(9)

(大井)それでは十一の方を。
(東郷)こちらで色んなことをやつてゐるうちに聯合国三巨頭がポツダムに集まつた。 その集まる前にこちらに講和の意図があることを米英側に知らしめるさうして聯合国側をして無条件降伏ぢやなく、 或る条件の下に講和をすることの話合を進める意向があることを先方に通じたい気持をもつて動いた訳です。 それが十分に進まない間に二十六日にポツダム宣言が出た訳です。 あれを見た私の感想は、日本の今の戦局からして講和条件は結局あゝ言ふ程度のものだらうと言ふことが第一印象でした。 併し昨日一寸お話したやうにカイロ宣言その他の関係もあるんですが、大西洋憲章との関係に矛盾がある。 又日清戦争を侵略戦争と見たところに歴史上の誤謬がある。 又若しソ聯がポツダム宣言に参加する場合には南樺太とか言ふものが問題になる。 そうすると、日露戦争が問題になるんだ。 日露戦争はロシアの侵略政策が大なる原因を為したことはソヴエトの共産党小史の中にも、明かにせられて居る。 即ちソ聯側でも日露戦争と言ふものは元の帝政ロシア政府と日本側の両方の資本主義的活動によつて 満州に於ての闘争から日露戦争になつたと言ふことに解釈して居る訳なんだ。 それを単に日本だけの侵略だと言ふのは甚だおかしなことになるので、 その点について矛盾があるといふことだつた。 第二に自分が受けた印象は、ポツダム宣言の内容と範囲と言ふものが非常に広い訳で、 あれを受諾するにしても其の内容に付て我方の有利に明確にする必要があると言ふことだつた。 だからポツダム宣言を拒絶することは甚だ不得策であるし不利である。 併し一方これをすぐそのまゝ受諾すると言ふのは、今言つた各点をもう少し明確にする為め交渉に入ることを必要とした。 尚ほソ聯の方にも今まで話をしてゐるんだから、その話の成行きも今少し押す必要があると言ふことで、 その趣旨でもつて取扱つた訳です。それで二十七日午前戦争指導会議構成員に今の趣旨でもつて話をして、 之を拒絶すると言ふことは日本として極めて不得策だ、もう少し〔回答を廷し〕得るならば〔延〕した方が得策である。 尚ロシアとの関係もあるから少しこの方を見て処置することが適当だと言ふことに話はついた訳です。 しかしそれで戦争指導会議構成員の中には、 あんなものは駄目だと言ふことをはつきり言つたらいゝと言ふ意見を持ち出した人もありますがさう言ふことは今の日本としてやるべきことではないからして日本の方では何にもこれに意思表示しないでしばらく成行を見ることにしようと決めた。 それから午後に閣議があつたから、その閣議でも同様の話をして結局同様の決定に落着けた訳です。 ところがどう言ふ関連か翌日の新聞に日本政府は黙殺すると言ふ記事が出た。 それで自分は閣議の決定、戦争指導会議の話と言ふのはしばらく意思表示をしないと言ふのだ、 これは黙殺するとは非常に違ふ、とやかましく抗議した。 恰もその日は宮中で閣員と統帥部との情報交換の集まりがある日だつたが、自分は他に急ぎの用があつて、 その会議に行かなかつた。然るにその会議の別室か何かに統帥部と政府の首脳者が集まつて、 軍の方から、総理からこれを黙殺すると言ふことを新聞を通してはつきり言つて欲しいと言ふ注文が又々軍部から出て、 総理はこれを引受けたと言ふことで、新聞記者の共同会見に於て念の入つたことに、 政府はあゝ言ふものは受諾する訳にはいかんこれは黙殺するんだと言つたと言ふことが又大きく出た。 それで僕は、それは閣議の決定を無視する訳だ、総理と雖も閣議の決定を無視し、 又は之に反する訳にはいかないのだと言つて、やかましく言つた訳です。 だから総理も甚だ困つた訳だけれども、今から取消すのは甚だ工合が悪くなると言ふので、 暫くそのまゝにして置くと言ふことに、とうとうしまひになつてしまつたと言ふことを釈明してたことがある。 さう言ふ事情で取扱い方に手違が出来たので、日本としては非常に不利な結果になつた訳です。 日本がポツダム宣言を拒絶した為に広島に原子爆弾を落すと、トルーマンの声明は述べて居るし、 又ロシアの参戦する時に、 ポツダム宣言を日本は拒絶したから自分達は聯合国に加はつて参戦するの已むを得ざるに至つたと言ふことを言つてゐる訳です。 ところが日本政府の方では、 拒絶するとか黙殺するとか言ふ決定をしたことは尠くとも自分の承知する範囲に於てはないことです。 その点は鈴木総理の書いたものにも、 甚だ自分としてまづいことをやつたと言ふことを書いてあるとか言ふことを聞いた。
(大井)「終戦の表情」ですかに、読売の記者が書いたんですが、それは軍部から言はれて自分は已む得ず言つた、 斯う言ふ言ひ方をしてゐる。
(東郷)軍の方で強く言つて、それを承諾したといふ成行らしいのです。 それは特に迫水君からさう言ふ報告が来て居つた。 僕があまりやかましく追及したので仕方なくやつたんだと言ふ釈明があつた訳です。 さうしてゐるうちに広島に、原子爆弾が落ちて来た訳ですね。六日です。
(大井)こゝで一寸先程のカイロ宣言に戻るんですが迫水が言つたと思ひますが、 カイロ宣言といふものはアンコンデイシヨナル サレンダ オブ ジヤパンといふことが書いてある。 今後のポツダム宣言にはアンコンデイシヨナル サレンダ オブ ジヤパニーズ アームド フオーセスと書いてある。 外務大臣はこの点を相当強調されて、今後のポツダム宣言はカイロ宣言の中から、 領土の件はカイロ宣言をとつてゐるけれどもアンコンデイシヨナル サレンダの点についてはあまりとつてゐない。 アンコンデイシヨナル サレンダ オブ ジヤパニーズ アームド フオーセスと言ふことになつてゐると言ふ点を特にピツクアツプして、ポツダム宣言の拒否と言ふことに不賛成を唱へられたと言ふやうな話がありましたが。
(東郷)自分でもさう思つてゐる。カイロ宣言には日本の無条件降伏と言ふ字を使つてあるけれども、 ポツダム宣言には日本軍隊の無条件降伏と言ふ字を使つて、日本の無条件降伏と言ふ字は一つもない訳ですね。 それからその後の八月十四日の向ふの返事にも十三日の公文にも、日本のサレンダーと言ふ字は使つてあるが、 無条件と言ふ字は使つてない。だから日本の降伏といふものは有条件のものであつた。 軍隊ぢやないですよ、日本全体の降伏と言ふものは条件があつた、その条件なるものはポツダム宣言の内容である。 即同宣言に吾人の条件は左の如しと書いてある点から見ても、 日本の講和は無条件降伏に非ずと言ふことになると今でも思つてゐるんです。
(大井)それでやはりその当時もその点は強調されたんですね。
(東郷)さうです。たゞその内容について言へば先程言つたやうに幅の広い文句が多いので随分解釈の余地がある。 従つてポツダム宣言の内容を我方に有利に、もう少し明確にしたいと言ふことが僕の希望であつた。
(大井)その明確にすると言ふことは、どう言ふ外交的な方法でやられたかと言ふ、 どう言ふ手をこれから打たうと言ふことでしたか。
(東郷)それはロシアなんかを通じてニゴーシエイトしなければ出来ない訳です。
(大井)その研究をこれからして見よう、ロシアを通してやるか或はロシアを通してやるにしてもどう言ふ風に、 それらをどう言ふことを聞いてやるかと言つたことを研究しようと言ふことで直ちに受諾も出来ないと言ふ、 斯う言ふ意味ですか。
(東郷)それは無論ロシアを通してやる場合にはさう言ふことも題目になる訳なんだが、 ロシアの方に仲介を頼んであるんでせう、ロシアの方からはつきりいけないと言つては来てない、 こちらの方もモロトフに会つて話をせよと訓電を出してゐる。それでもう少し模様を見る、 その返事が来るまで少くとも待つと言ふやうなことだつた。研究とか何とか言ふ意味ではないのです。
(大井)ロシアの返事の模様を見ると云ふのですか。
(東郷)どうしてこれをやらうとか何とか言ふ内輪の研究ぢやないのですよ。
(大井)内輪の研究ではなく、ロシアとの交渉を続けて、ロシアとの交渉によつてはつきりしようと言ふ。 (東郷)ロシアが仲介を進めるならば、それによつて連合国に対し今言つたやうな問題を持ち出し得る訳です。