東郷外相を訪ねて戦争回避への努力を希望したその足で、私は秩父宮、高松宮両殿下を
お訪ねして、ハル・ノートを中心にグルー大使の心情とこれに対する私見をも申し上げ、できるだけ
戦争回避にご努力願いたい旨を懇請した。秩父宮は「それは陛下に直接上奏した方が
よくないか」と申されたので私は「許されるならば殿下から申し上げて頂きたい」とお願いしたが、
何ともいわれなかった。高松宮は「君、もう遅いよ」と申されていた。これも無理はなかったわけで、
後から知ったことだが、軍部はすでに行動を開始していた。
連合艦隊は十一月二十二日千島列島沖で待機しており、二十九日の重臣会議を経て
十二月一日の御前会議で正式に一切の手続きがすんでおったのだという。私はこれらの
事態を迂闊にも知らなかったわけである。二日には米国大使館にグルー大使を訪ね、
「東郷外相は貴下との会見を承諾しない」と伝えた。大使はまことに沈痛な面持ちであったが、
「吉田さん、あなたの努力に感謝に堪えない」といった。終戦後発行になったグルー氏の著書に
「当時シゲル・ヨシダは我々のインフォーマントだった」という表現を使っている。内報者というか、
情報提供者というか。とにかくこれでは憲兵隊に狙われたはずである。ともあれ大使は十二月八日
開戦とともに米大使館に軟禁されるまでこの努力を続けていた。東郷外相もさることながら問題は
当時の重臣といわれる人達にもあったと思う。内心は戦争反対の者が多かったにかかわらず、
十一月二十九日の重臣会議で陛下の御下問に率直な意見をいう者が一人としていなかったようである。
無論軍部の強圧に押されたのであろうが、また或いは勝てるかも知れないという淡い希望などが
交錯していたのでもあろうか。それにしても最後の土壇場まで外国使臣と会談すべき立場にある
外務大臣が、開戦までなお日を残していたにかかわらず、グルー大使との会見を拒否したことは、
外務大臣たるもののとるべき態度にあらず、まことに痛恨事であったといわねばならぬ。二十六日の
ハル・ノートに対する回答は十二月八日早朝東郷外相からグルー大使に伝えられると同時に
枢密院本会議で対米、英、蘭三国に宣戦布告を決定した。この頃はすでに真珠湾攻撃が
敢行せられているにかかわらず、グルー大使は東郷外相より手交された日米交渉打切りの通告を
二十六日の回答として受け取り、開戦の事実を知らなかったということである。(…)
(「7 真珠湾は奇襲だったか―先方は事前に知っていた!?」)
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