鹿児島県出身 67歳
駐独大使(昭和12年10月)
駐ソ大使(昭和13年10月)
東條内閣外務大臣兼拓務大臣(昭和16年10月~同17年3月)
鈴木内閣外務大臣兼大東亜大臣(昭和20年)
"開戦外相"東郷被告が自身一生の信念をかけたという口供書(日本文130ページ)が朗読されたのは12月17、18両日であった。
東郷被告は彼の立場を「戦争を好まぬ平和主義者」という主張の上におき、軍部の抑圧下に外務省本来の機能が満洲事変以来極度に失われていった過程を描き出したのであったが、それは木戸被告が「私の一生は軍国主義者と闘うことに捧げられてきた」と終始軍部の罪禍を強調したのと著しい相似点をなしていた。
口供書は6つの部分にわけられ第1章一般問題、第2章ソ連関係、第3章ドイツ関係、第4章英米関係及び太平洋戦争、第5章戦時外交及び大東亜関係、第6章鈴木内閣及び終戦となっている。
対ソ協調論者であり三国同盟反対論者であり英米との持続的平和論者であったとする東郷被告が何故東條内閣の外相として真珠湾攻撃をもって開始された太平洋戦争に同意したのであったか、検察側の主たる訴追が疑いもなくこの1点にかゝっていたと同じように東郷被告の自己弁論の中核もまたこゝにあった。東郷口供書には大要次の如く述べられている。
『昭和16年10月17日余は東條大将より外相として入閣を求められた。余はもし陸軍が支那駐兵問題で強硬態度をとるならば交渉継続は無意味であり外相就任は拒絶するほかないと述べたが東條は駐兵問題を含め日米交渉の諸問題は再検討すると保証を与えたのえ就任を受諾した。勿論軍部が日米交渉に就いて強硬態度をとるであろうことは当初より明らかであったが余はなお両国のために事態を解決し平和を維持する幾分かの余地があると信じたからである。10月23日の最初の連絡会議で杉山参謀総長は急速解決の要を強調し、9月6日の御前会議決定は9月中は外交を主とし戦争準備を従とするも10月上旬よりは戦争準備を主とし外交を従とするにあったと主張した。塚田参謀次長はさらに悲感的非妥協的で日米交渉の妥結は全く見込みなく英米がすでに経済断交をし日本の包囲を強化しているから直ちに自衛の手段をとるべきあると主張した。余はかゝる統帥部の態度に反対し意見の対立を解決するため連日連夜連絡会議を続け議論を交えた。交渉に関する重要点は三国同盟問題、中国における通商無差別問題及び駐兵問題の三であった。野村大使の報告によれば最初の二点は大体了解が成立したとのことであった。よって余は連絡会議で未解決の最重要問題と認められた中国の駐兵問題につき米国と合意に達するために出来うる限りの譲歩をすべく努力を集中した。しかし連絡会議の多数は中国の特定地域よりの撤兵の原則には反対特に陸軍側は特定地域における無期限駐兵の必要を強調した。余はこれに反対し期限付駐兵の同意を得たが余が豊田案の五年を提案したのに対し強く反対され結局大体二十五年とすることに決定した。これに関連して仏印問題につき余は協定成立の場合直ちに南部仏印より撤兵する件につき陸軍の同意を得た。余は十月下旬の連絡会議の動きから予想した陸軍の強硬態度と同様に海軍の態度が強硬なのに驚いた。余は海軍の長老たる岡田大将に使を派し海軍の態度緩和を申入れた。かくて甲案、乙案の基礎の上に交渉を進めるよう決定したがその後の連絡会議の大勢は交渉決裂の場合戦争また止むを得ずとの見解に達し陸軍側は必勝を確認、海軍は緒戦の成功を確信していた。東條は戦争全般についても勝算確実とのべ嶋田海相は悲観の要なしと言明永野軍令部総長は即時決定の要を力説海軍はさらに迎撃作戦にも自信ありと述べた。余はかゝる軍の保証を信じ得なかったが余の手許には軍事力判定の資料がないので軍部に反駁することが出来なかった。たゞその際残された唯一の点は余が辞職することにより事態をへんかさせうるか否かであったが従来重要問題につき助言を得ていた元首相廣田氏の意見では余が辞職すれば直ちに戦争を支持する人が外相に任命されるだろうから現職に止って平和維持のため全力を尽すべきだとあり、周囲の事態から余は東條に同意の旨をのべた。こゝに至って我々は再び対米交渉をいつまで持続するかの交渉期間の問題にぶつかった。十一月初め統帥部側は戦争不可避の場合は十二月初旬戦争開始の前提の下に作戦準備を行う必要ありとした。余は交渉に期限を付することは交渉成立を防げるとの理由で反対したが容れられず交渉を一段と困難にした。戦争準備は九月六日決定以来進められていたが軍の極秘事項として連絡会議にも知らされず、艦隊が単冠(ヒトカップ)湾に集結出港したことも第一次作戦目標が真珠湾であったことも余は全く知らなかった。甲案に対し米側は予期に反し興味を示さなかったので十一月二十日乙案を提出せしめたが十一月二十六日ハル国務長官は十項にわたる案を野村、来栖両大使に手交した。右提案を報ずる電報は二十七日に届いた。同日連絡会議が開かれハル・ノートを論議したがこれに対する我々の感じは一緒だった。米国は明らかに平和的解決のための合意に達する望みも意思も持っていないと感じた。日本は長年の犠牲の結果をすべて放棄するのみならず極東における大国の一つたる国際的地位をも捨てることを求められたのである。自衛上残された唯一の途は戦争であった。二十八日午前十時開会の閣議十五分前東條首相嶋田海相と野村来栖両大使よりの具申案及びハル・ノート全文につき協議した。二人とも具申案については時局を収拾するのは到底不可能であるとの意見だった。閣議の途中午前十一時半参内拝謁に先立ち木戸内大臣と会見しハル・ノートを説示し両大使具申案につき協議した。木戸はハル・ノートに失望の意を示し両大使の意見については「これでは仕方がない、かゝる提案で纏めようとするならば内乱になるだろう」といったかくの如く政府首脳部にも実現の自信なく内大臣も賛同せず何れの方面も責任をとりえないような提案だったので陛下には上奏されなかった。我々はこれを連絡会議で検討し米国もまた戦争を予期していると認めた。余は再び辞職を考えた。しかし余の辞職により軍部を抑制し得る強力内閣の更迭をみても米側にはもはや妥協の意思を全然なく事態の解決に何ら役立たぬと考えた。この上はあえて職に止まり最後の瞬間まで戦争回避に努力し不幸戦争となった場合はその早期終結に全力を尽すことに決心した。そのため十二月一日の開戦決定に先だち余は野村大使に交渉を打切ることのないよう訓示した。これは平和的解決のため最後の希望も捨てずに努力したために外ならず、検事側は作戦準備のための時を稼ぐ目的で見せかけの外交々渉を行い詐欺と不信をあえてしたという主張は当らない。』
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