戦争に就て
戦争に就ては論ずべきことが極めて多く、戦争の原因を社会的諸条件のみに帰せしむるものか、
また個人的原因がその要件なりとせば、意思の自由との関係はどうか。
自由意思とは正義の観念と同じく人類の発育せしめたもの、正確に云えば発育の途上にあるものではないか、
などの社会学的以上哲学的範囲に入りての検討が必要となる。
また従来国際法の一原則であった内政不干渉と思想戦との関係も考察に値する。
殊に全体主義と民主主義、共産主義と資本主義の戦いと云うが如き、充分の考究を要するものである。
しかし本書でも後にこれら一般問題に論究することになるかも知れないから、
ここではなるべく簡単に戦争に関する、二、三の事項に限定して述べたいと思う。
第一に戦争の起因は各時代により異なることであるが、近世期に於ては個人的欲望によることは甚だ稀で、
そのほとんど全部が国家主権の確立および資本主義経済の発達に伴うものであった。
植民地獲得およびこれに伴生した各国間の戦争が主なるもので、
原料の獲得および市場の確保を目的とするものが多かった。
いずれも経済的原因を主とするもので、最近に於ける高度資本主義発達の必然的結果とも云うべきものであり、
各国の経済的競争によるものであった。かくの如き戦争が絶えず発生し、かつ科学の進歩と共に
戦争が大規模となる傾向にあるため、これが発生を阻止せんとする企てが一方には台頭した。
紛争がある場合、仲裁裁判によりてこれを解決し、戦争の発生を防止する方法も企てられたが、
総括的仲裁裁判を受諾する国が少ないので余り効果は挙らなかった。
また不戦条約の如き条約を以てするの方法であるが、成立当初から自衛の場合は除外すると云う抜け穴があった。
国際連盟その他の集団的保障によって相手国に制裁を加え、また攻守同盟によって相手国に対する戦争に参加するなどの方法により、
戦争を防止するに資せんとしたが、或いは有効ならざるかまたはかえって戦争を激成することになった。
勢力の均衡による戦争防止もまた同様であって、実際的にこれを防止するの方法がなかった。
これに反し現代に於ても戦争防止の効果を阻止するものが少なくない。
各国自己に都合よき主張の下に軍備縮小に反対せるものその一つであり、各国間に猜忌を逞しくし、
ただ武力を以て自己を防衛せんとする思想が、最近ますます盛んとなったことも挙げなくてはならぬ。
なお世界の領域が確定したるに伴い、持てる国々が自己の利益を擁護するに急にして、
持たざるものの立場を顧慮せず、従って不平等或いは不当となりたる条約の改訂もなんら事実上は行われざりしことも、
戦争勃発の止むなき原因となった一つである。
更に近代国家の成立と共に国家主権が高調せられた結果、自国主権の制限を好まず、自衛権の範囲の如きも、
各国凡て自らこれを決定するの権能あることが国際法の一原則であった。
なおまた最近、一国の自衛は防衛が最有効なる土地および時に及ぶとの思想が、
米国の如き最も強大なる国により唱道せらるることとなったために、
一国の凡ての行動を自衛の範囲内にありと説明し得る範を示すことになって、
戦争防止を阻害する大原因となった。
他方最近戦争が全体的形態となったため、所謂戦略物資の範囲が無限に拡大したことが、
「ヒトラー」の電撃作戦の実施と相俟ちて、国際法の遵守を困難ならしめたのも注目すべきである。
従って、第一次世界大戦に於ては、「戦争を終熄せしむるための戦争」との標語を以て戦ったに拘らず、
忽ちにして第二次大戦となり、この戦争に於ては各国共によりよき世界の出現を望んだが、
未だ講和条約さえ成立せぬ間に冷たき戦争に入り、第三次世界戦争の勃発が呼号せらるる世の中である。
されば戦争の絶滅には、戦争の起因につき更に熱心に更に良心的検討を加え、
各国が今以上に自利心を放棄して真に独立和衷の途に進まざる限り、
平和の維持は不可能であると云わなくてはならない実状である。
これ釈迦、耶蘇、孔子等の如き人類の先覚者が平和の念に目覚めて以来漸く二千年を以て数えるのであり、
人類の起源に較べても余りに短き期間であるから、人類の協力、各国の和衷というが如き境涯に到達するには、
なお若干の歳月を要するのも無理からぬことではあるが、原子爆弾の如き最も非人道的武器が、
単に戦争の終期を早からしむると云う理由により既に使用せられ、更にまた水素爆弾の如き更に威力あるものも
使用せられんとするのであるから、世界の人士は単に戦争防止の形式的方面にのみ囚われず、
その真因につき速かに方法を講ずる必要が認めらるるのである。
なおこの点につき一言すべきは、真に平和を欲求する場合には身を以ても戦わなくてはならぬことである。
一事件につき傍観者の地位に立ちて、事件経過後自分が平和を冀求したことを述べても無意義である。
また自分を危害のない地位に置きながら、演説または電報を以て平和的意向を表示するのは安易に過ぎる。
真に平和を欲するものは凡ての機会を利用して輿論の喚起に、または平和攪乱者との戦いに危害を冒しても進むの慨がなくてはならぬ。
殊に時勢の流れが凄じき奔りを見せている際に、左右枝悟または前後矛盾する行動に出るが如きは以ての外のことであるが、
東西とも所謂政治家と称するものには類が少なくない。
なおまたこの点は国際間の交渉にも適用を見るのである。
一国がある交渉に於て平和的意図を高調しても、具体的交渉条件につき徹頭徹尾自己の主張を固守し、
いささかの譲歩すら為さずとせば、相手方に全面的屈服を求むることは、
案件の性質如何を問わず真に平和を希求する態度とは云えない。蓋し交渉は普通の場合「ギヴ・アンド・テイク」であるからである。
「第二部 太平洋戦争勃発まで」
「第三章 日米交渉の歴史的背景」より
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