2015年7月18日土曜日

書庫(49):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(II)より

 昭和二十三年四月二十二日
二とせは戦ひのせとに押して来ぬさばきの趣旨はこれいかならむ

 鈴木貫太郎大将数日前逝き、米内大将亦昨日遠逝の由、終戦の際を偲ぶ
民族の亡びぬ為ぞとのたまひしみ声は今に著しかも

 本日は天長節也。起訴状の発せられたるより二年目也
太平洋潮ひ潮満ち時来べし力落すな大和民族

邦家再健の曙光を認め我れ死なむ道遠くとも健やかにして

 六月二日
出来る丈おのが自由の欲しきかなせめて読書に且つは思索に

 十月三十一日
冬は来ぬ麻布の児等はいかならん巣鴨の住居寒けきものを

 廿三年十一月判決以降
たわいなき判決はありぬ二十年いつの時にか此年期明けむ

年の瀬を幾度こゝに過すべきか家なる児等をかけて忍びつ

いざ神のさばきに身をば委ねなん彼等の裁きたよりなければ

現し身はたわいなき身なり従容と死に就にしこそいともめでたし

黙々と死に就きたるぞいともよし物言ふことのしるしなければ

判決のありたる後も敵人に頭を下げて乞はむとは思はじ

 母上五年祭に
四年間移り変りのはげしきも母見まさぬにやゝ安らけし

年の瀬に年内のこと皆浮び来ぬ試練の年よよくぞ過ぎ行く

年の瀬に為すこともなし巣鴨にて只諦めの心哀しく

来む年に為すべきことの目途無きも唯世の為に生くべしと思ふ

冬の朝巣鴨の庭の片隅に椿三輪紅に咲く

現し世の毀誉褒貶はたよりなしわれ一筋に我道行かむ

 昭和廿四年一月四日
読み話しいねてし居ればいつしかに日一日と過ぎて行くなり

 一月七日
行く先に望みの光り見ればこそ囚屋の闇はわびしかるとも
 一月十日
我心痛みて止まず世の人のなべて憂に生きてしあれば

 一月十二日
十年余り火水の中を渉り来ぬ妥協の港に憩(やす)らいもせで

 一月十二日
世の中のかゝらはしさに飽き果てぬ心靜かに死にて行かなむ

 一月十四日
此人等国を指導せしかと思ふ時型の小きに驚き果てぬ

 一月十四日
唯一つ妥協したるがくやしくも其後のまがつみ凡てはこれに

 一月十四日
此人等妥協を旨と心得て風を避けつゝ波に押されつ

 一月十四日
此人等信念もなく理想なし唯熱に附するの徒輩なるのみ

 一月十五日
病ひへの抵抗力の失せぬるか嵐来らばひたと仆れむ

 一月十五日
これよりはせんすべをなみ唯真理探究者として世を終へむのみ

 一月二十四日
冬の日を病める独房の窓に鳴く雀の声は嬉しかりけり

 三月十九日
常なくもうれしかりけり山離かる空の浮雲朝日に匂ふ

 三月下旬
巣鴨なる樫の小枝に新芽立ち降りし小雨に心和めり

 四月十三日
人の世は奇しくもあるか幾度も生死に境し遂に死せず

 四月十三日、軽井沢庭の桜を偲びて
高原の樅に混らふ桜花月靄に浮び常春の里

 四月十五日
春の風獄の狭庭に立つ我れの白き鬚先撫でて吹き行く

 四月十五日
書(ふみ)を読み道を守りて独り居の楽しき心三年経にけり

 四月十五日
日一日なべて佳き日と暮しなば楽土と思ゆ囚屋なりとも

 五月七日
偽りのなき世なりせばいか計り人の言の葉嬉しからまし

 五月七日
かく計り憂きすおもひし人が世に何か我身に生れきにけむ

 六月二十一日、本城氏への返歌として
降りよどみはてしもしらぬと思ほえし五月雨晴れて大空光る

 五月雨に続く暑さの其後の涼しき秋の光りをぞ待つ

 七月三十一日
夏雲の立ちたる彼方麻布なる我家のほとり夕焼けにして

 九月四日
放しやらぬ人のつらさを情にて朝な夕なに書(ふみ)に読み入る

冬されば青桐銀杏落葉して囚屋の庭に霜柱五寸

病院によろずの病ひ見てしより病なき身を有難しとぞ思ふ

 昭和二十五年一月二十八日
君の為め世の為めの業(こと)は成し遂げぬ今は死してもさらに惜まじ

 一月二十八日
死を賭して三つ仕遂げし仕事あり我も死してよきかと思ふ

 一月二十八日
むらむらと望郷の念ぞ湧く日なり天の白雲見ればかなしも

 一月三十一日、終戦后唯紺碧の空なつかし
宮城は見しこともあらず墟(あと)空し唯祥光のさわに立つ見ゆ

 三月十五日
今一つ仕遂げたきことなり出でぬ我が世の欲の重なるものか

 三月十六日
わびし世を誰れに語らんよしもなし波に浮べる水鳥のごと

 三月十六日
国力を消耗せしが惜しかりき未曾有の働きせしにはあれど

 三月十七日
真面目なる動きに我は冠たりきそれのみにて今もよしと思へり

 四月四日
この夜またあまたの所刑あるといふ雲たれこめて春寒き夕

 四月二十七日
こどもらのよきたより聞きてセメントの冷き室にも熟睡(うまい)せるかも

0 件のコメント:

コメントを投稿