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裁判は五月に始まった。裁判の開廷中、毎日、麻布から市ヶ谷まで、母と私は都電を乗り継いで通った。極東国際軍事裁判(東京裁判)は、市ヶ谷の旧陸軍省大講堂を法廷にして開かれていたのだ。
家ではあれほど弱っていた父が、いったん証言台に立つと、むしろ生気に満ち、生き生きとして見えるのに私は驚いた。父にとって、これは新たな戦いの始まりだったに違いない。
母と私は傍聴席から目を凝らしてその姿を見つめ、信念をもった堂々とした受け答えに、私は父が誇らしくてならなかった。これだけの人物を、戦勝国のいいようにされてなるものかと唇を噛む思いだった。
東京裁判はしかし、しょせん勝者が敗者を裁くものであった。
父は禁錮二十年の判決を受けてそのまま獄中の人となり、いくつもの持病をかかえた身体で拘置所の冷たい床に寝起きしなければならなかった。病状が悪化すると病院に送られ、少しでも回復すればまた拘置所に戻される。その繰り返しの中で、父は自分の生涯をかけた仕事の総括ともいうべき『時代の一面』を執筆していたのだ。
心血を注いだこの仕事は、ただでさえ弱っていた父の身体を一層蝕んだことだろう。だが執筆に没頭している間、父の精神は生き生きと躍動していたに違いない。私たち家族は父の健康が回復に向かっているのではないかとさえ感じていた。
しかし死は、着実に父に迫っていた。『時代の一面』の草稿を渡してまもなく、父はたった一人で私たちの前から去って行った。
父の命が絶えたその夜、隅田川は戦後復活した何回目かの川開きだったと記憶している。
夜空を流れる赤や青の光が父の枕辺にも届いていたに違いない。
(「夏のおわり 父東郷茂徳の死・昭和二十五年」)
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