陳述者 東郷茂徳
聴取者 大井 篤
日時 1950年1月30日
場所 東京巣鴨拘禁所
首題 終戦時の回想若干
(前略)
3.瑞典を通ずる和平工作
1945年4月9日私が鈴木内閣の外務大臣に就任すると、
その2日後(4月11日)昌谷君が私を訪問して次の趣旨の話をした。
「瑞典公使WIDAR(ママ)・BAGGE氏は自分は近く帰国するのであるが、ストツクホルムに着いてから、
瑞典政府に対し、日本の為米国政府の和平に関する肚を探るよう頼んで見ても宜しいと言つて居ます。
但し同氏は、これは日本政府から頼まれたのではなく、自分自身の発意でやろう、と言うのです」
私は直にそれは大いに賛成だ、それについて直接バツゲ氏に会つて見度いから、
その旨バツゲ氏に伝えてくれと昌谷君に頼んだ。
翌日(12日)昌谷君がその返事を持つて来て言うには「バツゲ氏にあなたの話されたことを伝えたら、
同氏は非常に喜んだけれども、日本を出発するのに、その飛行機が直ぐにも出るかも知れぬと言われて居るので、
お会いする暇はないから宜敷く伝えてくれとのことでした」との事であつた。
バツゲ氏は翌13日の飛行機で日本を出発した。
暫くして、ストツクホルムに居る日本公使岡田季正君から電報を受けた。
それに依ると、バツゲ氏が岡本君のところにやつて来て、
瑞典政府は日本政府から正式の依頼があれば米国政府に和平の探りを入れても宜しいと言つて居ると申越したとのことであつた。
私がこの電報を見たのは、正確な日附は忘れたが5月中旬最高戦争指導会議構成員の間に、
前に述べた様な相談をした後のことで、----あつたと記憶する。
その上「日本政府の正式依頼があれば」と云う点は、私がバツゲ氏から4月に聞いたのとは違つて居るので、
多少奇異の感を抱かされた。なお、バツゲ氏がこの問題を前外相重光君と話し合つて居たと云うことは、
私は重光君からも鈴木首相(重光氏より外相の職を引継いだ)からも、何もきかなかつた。
いずれにしても、このバツゲ氏の事件は歴史的に見て重大な価値ありとは思わない。
私が外相に就任した際には、和平の仲介を頼むとすれば、ソ連に頼む外はないと云うことに軍部も宮中方面も、
政界方面も、殆ど一致して居た。それは、米国をして、無条件降伏を日本に強いさせないように、
再考させるだけの説得力のある中立国は、ソ連しかないと云う観点に基いて居るものであつた。
私自身はソ連を仲介に頼むことは好まなかつたが、瑞典政府が自ら進んで仲介の労を執るだけの熱意がないことが解つたし、
又瑞典政府は、米国側に無条件降伏と云うことを撤回させるだけの力のないことは否めないし、
而も当時の日本の感情では、無条件降伏は到底受け容れられそうになかつたので、
ソ連利用に同意する外なかつた。
尚瑞典政府を仲介とすることには更に2つの障害があつた。
第一は、当時欧洲外交界で日本が瑞典政府に和平仲介を頼んだと云う噂が行われて居たこと、
第二は、岡本公使とその公使館附陸軍武官との間に、充分協調が期待し得られなかつたと云うことであつた。
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