2015年10月9日金曜日

巡礼(18):青山霊園 2015年10月9日

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書庫(60):東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より

陳述者 東郷茂徳
聴取者 大井 篤
日時  1950年1月30日
場所  東京巣鴨拘禁所
首題  終戦時の回想若干

 (前略)
3.瑞典を通ずる和平工作
 1945年4月9日私が鈴木内閣の外務大臣に就任すると、 その2日後(4月11日)昌谷君が私を訪問して次の趣旨の話をした。
「瑞典公使WIDAR(ママ)・BAGGE氏は自分は近く帰国するのであるが、ストツクホルムに着いてから、 瑞典政府に対し、日本の為米国政府の和平に関する肚を探るよう頼んで見ても宜しいと言つて居ます。 但し同氏は、これは日本政府から頼まれたのではなく、自分自身の発意でやろう、と言うのです」 私は直にそれは大いに賛成だ、それについて直接バツゲ氏に会つて見度いから、 その旨バツゲ氏に伝えてくれと昌谷君に頼んだ。
 翌日(12日)昌谷君がその返事を持つて来て言うには「バツゲ氏にあなたの話されたことを伝えたら、 同氏は非常に喜んだけれども、日本を出発するのに、その飛行機が直ぐにも出るかも知れぬと言われて居るので、 お会いする暇はないから宜敷く伝えてくれとのことでした」との事であつた。 バツゲ氏は翌13日の飛行機で日本を出発した。
 暫くして、ストツクホルムに居る日本公使岡田季正君から電報を受けた。 それに依ると、バツゲ氏が岡本君のところにやつて来て、 瑞典政府は日本政府から正式の依頼があれば米国政府に和平の探りを入れても宜しいと言つて居ると申越したとのことであつた。 私がこの電報を見たのは、正確な日附は忘れたが5月中旬最高戦争指導会議構成員の間に、 前に述べた様な相談をした後のことで、----あつたと記憶する。 その上「日本政府の正式依頼があれば」と云う点は、私がバツゲ氏から4月に聞いたのとは違つて居るので、 多少奇異の感を抱かされた。なお、バツゲ氏がこの問題を前外相重光君と話し合つて居たと云うことは、 私は重光君からも鈴木首相(重光氏より外相の職を引継いだ)からも、何もきかなかつた。
 いずれにしても、このバツゲ氏の事件は歴史的に見て重大な価値ありとは思わない。 私が外相に就任した際には、和平の仲介を頼むとすれば、ソ連に頼む外はないと云うことに軍部も宮中方面も、 政界方面も、殆ど一致して居た。それは、米国をして、無条件降伏を日本に強いさせないように、 再考させるだけの説得力のある中立国は、ソ連しかないと云う観点に基いて居るものであつた。 私自身はソ連を仲介に頼むことは好まなかつたが、瑞典政府が自ら進んで仲介の労を執るだけの熱意がないことが解つたし、 又瑞典政府は、米国側に無条件降伏と云うことを撤回させるだけの力のないことは否めないし、 而も当時の日本の感情では、無条件降伏は到底受け容れられそうになかつたので、 ソ連利用に同意する外なかつた。
 尚瑞典政府を仲介とすることには更に2つの障害があつた。 第一は、当時欧洲外交界で日本が瑞典政府に和平仲介を頼んだと云う噂が行われて居たこと、 第二は、岡本公使とその公使館附陸軍武官との間に、充分協調が期待し得られなかつたと云うことであつた。

2015年9月29日火曜日

巡礼(17):青山霊園 2015年9月29日

2015/9/29
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2015年9月17日木曜日

書庫(59):東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」より

(…)
 日米交渉という、対内対外ともに難航を極める交渉に取り組む茂徳は、 ハル・ノートが到着するまでは、生き生きとして、戦う意欲が体内から滲み出ていた。 それが、この日を境に、暗く、重苦しいものと変わっていったというのが、 毎日、父を傍らで見ていたいせの印象である。
 ―「ハル」公文に接した際の気持ちは今に忘れない。それまでは全力を尽くして闘いかつ活動したが、 …戦争を避けるために眼をつむって鵜呑にしようとしてみたが喉につかえて迚も通らなかった(『時代の一面』)。
 ―我が力の足らざるを謝すよりも、我が誠意の認められざるを恨む気持ちの方が強かった。 其後は働く熱がなくなった。此が幾分の過失とも言ふべきか(草稿「時代と外交」Ⅲ-6)
 ここに、茂徳は、再び辞職を考える。佐藤尚武顧問をはじめ相談にのった人々の意見は、任に留まり、 最後まで努力すべしというものだった。佐藤は、たとえハル・ノートのようなものが来たからといって、 絶望せずになんとか危機を脱する方法を見つけなければならぬと考え、前後三回にわたり、茂徳と、 息詰まるような議論を交わしたという(佐藤のメモワールより)。

「第五章 開戦内閣の外相 V.ハル・ノートへの怒り」より

2015年8月10日月曜日

巡礼(16):青山霊園 2015年8月10日

2015/8/10
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2015年8月9日日曜日

書庫(58):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より

 蘇聯大使との会見
 その間九日に在東京「ソ」聯大使「マリク」から面会したい旨の申し出があったから、 自分は連絡会議で同日は面会出来ないから急用であったら次官に面会するように返事させたが、 十日でよろしいとのことであったので、同日にこれを引見した。 「ソ」聯大使は本日政府の命により宣戦通告を伝達するとのことであったから、 自分はこれを聴取した後、蘇聯と日本との間に中立条約がなお有効であることを指摘した上に、 日本から和平の斡旋を求められ、未だ確たる回答をしない間に宣戦する不都合を責め、 かつその理由とする日本が英米支三国共同宣言を拒否せりとの点につき、 日本政府に確かめる方法を採らなかったことの不当なるを述べ、 更に「ソ」聯の態度は後日歴史の批判を受くべきものだと云ったが、 彼は「ソ」聯の行動はなんら間違いないはずだとの趣旨を、抽象的の言葉で述べ立てるだけで更に要領を得なかった。 引続き自分は、日本政府の「ポツダム」宣言受諾に関する通告につき説明を加え、 「ソ」聯政府への伝達方を求めた。


「第三部 太平洋戦争勃発後」
「第六章 ポツダム宣言受諾と終戦直後」より

書庫(57):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より

 蘇聯の対日参戦
 然るに翌九日未明に外務省「ラジオ」室からの電話によって蘇聯が日本に宣戦し、満州に進撃したことを知った。 即ち八日午後十一時、佐藤大使が「モロトフ」委員に面会したときに宣戦の通報を受けたのであるが、 その会談、従って宣戦通告の電報は遂に東京には到着しなかったのである。 自分は早朝総理を訪ねて「ソ」聯参戦の次第を伝え、急速戦争終結を断行するの必要あることを述べたが、 総理もこれに同意したので、同席していた迫水書記官長から大至急戦争指導会議構成員を召集することに手筈を定めた。
 外務省への途次海軍省に米内海相を訪ねて、総理へ説いたのと同様のことを述べたが、 更に同省にて邂逅したる高松宮に対しても成行を説明して、直ちに「ポツダム」宣言を受諾することの必要を述べたが、 殿下は領土の点につきて何とかならぬだろうかとの御話があったから、 その点に就ても考慮して来たので方法があったらなお何とかしたいのですが、 今日となっては恐らく致し方ないと思いますと云って退下した。


「第三部 太平洋戦争勃発後」
「第六章 ポツダム宣言受諾と終戦直後」より