2015年1月18日日曜日

書庫(6):東郷いせ「色無花火」より

(…)
 裁判は五月に始まった。裁判の開廷中、毎日、麻布から市ヶ谷まで、母と私は都電を乗り継いで通った。極東国際軍事裁判(東京裁判)は、市ヶ谷の旧陸軍省大講堂を法廷にして開かれていたのだ。
 家ではあれほど弱っていた父が、いったん証言台に立つと、むしろ生気に満ち、生き生きとして見えるのに私は驚いた。父にとって、これは新たな戦いの始まりだったに違いない。
 母と私は傍聴席から目を凝らしてその姿を見つめ、信念をもった堂々とした受け答えに、私は父が誇らしくてならなかった。これだけの人物を、戦勝国のいいようにされてなるものかと唇を噛む思いだった。
 東京裁判はしかし、しょせん勝者が敗者を裁くものであった。
 父は禁錮二十年の判決を受けてそのまま獄中の人となり、いくつもの持病をかかえた身体で拘置所の冷たい床に寝起きしなければならなかった。病状が悪化すると病院に送られ、少しでも回復すればまた拘置所に戻される。その繰り返しの中で、父は自分の生涯をかけた仕事の総括ともいうべき『時代の一面』を執筆していたのだ。
 心血を注いだこの仕事は、ただでさえ弱っていた父の身体を一層蝕んだことだろう。だが執筆に没頭している間、父の精神は生き生きと躍動していたに違いない。私たち家族は父の健康が回復に向かっているのではないかとさえ感じていた。
 しかし死は、着実に父に迫っていた。『時代の一面』の草稿を渡してまもなく、父はたった一人で私たちの前から去って行った。
 父の命が絶えたその夜、隅田川は戦後復活した何回目かの川開きだったと記憶している。
 夜空を流れる赤や青の光が父の枕辺にも届いていたに違いない。
(「夏のおわり 父東郷茂徳の死・昭和二十五年」)

書庫(5):東郷和彦「北方領土交渉秘録」より

(…)
 祖父茂徳の一人娘である母いせは晩年に癌を患い、一九九七年夏、すでに死の床にあった。
 七月の末、たまたまベッドの脇にいた私に、母はふいに、祖父が外交の仕事で何が一番大切だと言っていたのか知っているかと問いかけてきた。
 一瞬、答えに窮していると、母は「交渉で一番大切なところに来た時、相手に『五一』を譲りこちらは『四九』で満足する気持ちを持つこと」と言った。
 その答えは私には意外に思えた。
 祖父は、交渉においては不屈の意志と徹底したがんばりを貫き通した人物だた。ノモンハン事件の事後処理に際してはソ連のモロトフ外務人民委員とぎりぎりの交渉を繰り広げ、太平洋戦争末期には「国体の護持」を唯一の条件として戦争終結を主張し、徹底抗戦を唱える主戦派をねばり強く説得し続けた。
(…)
 当惑した私に母は、「外交ではよく、勝ちすぎてはいけない、勝ちすぎるとしこりが残り、いずれ自国にマイナスとなる。だから、普通は五〇対五〇で引き分けることが良いとされているでしょう」と続けた。
「でも、おじいちゃまが言ったことは、もう少し、違うのよ。交渉では、自分の国の、眼の前の利益を唱える人はいっぱいいる。でも、誰かが相手のことも考えて、長い目で自分の国にとって何が一番よいかを考えなくてはいけない。最後のぎりぎりの時にそれができるのは、相手と直接交渉してきた人なのよ。その人たちが最後に相手に『五一』あげることを考えながらがんばり通すことによって、長い目で見て一番お国のためになる仕事ができるのよ。」
この会話から数日たって、母は他界した。

 それから折に触れ、私は、東郷茂徳にとって「五一を相手に譲り、四九をこちらに残す」ということが、何を意味していたのかを考えるようになった。
 明らかに、ここでいう「五一対四九」とは、足して二で割るとか、大体半々くらい譲歩するとか、そういうことを意味してはいなかった。私には、母が死の床から述べていたように、それは交渉がぎりぎりの時点に来たときに、自分の立場だけではなく、相手がどういう立場にたっているかを理解する意思と能力の問題であるように思われた。
(…)
(エピローグ 歴史への証言)

書庫(4):形影神・神釋(陶淵明)の末尾四句 昭和20年9月14日

(…)十四日、茂徳は、エディと文彦とともに、東京へ向かった。この日の朝、茂徳は、 次のような中国古典の詩に己れの心境を託し、墨書して家族に渡している。 (東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」, 406頁)

縱浪大化中
不喜亦不懼
應盡便須盡
無復獨多慮
 乙酉九月 青楓


*   *   *
<参考>

形影神・序


貴賤賢愚、莫不營營以惜生、斯甚惑焉。 故極陳形影之苦、言神辨自然以釋之。 好事君子、共取其心焉。

形贈影


天地長不沒
山川無改時
草木得常理
霜露榮悴之
謂人最靈智
獨復不如茲
適見在世中
奄去靡歸期
奚覺無一人
親識豈相思
但餘平生物
擧目情悽而
我無騰化術
必爾不復疑
願君取吾言
得酒莫苟辭

影答形


存生不可言
衞生毎苦拙
誠願遊崑華
獏然茲道絶
與子相遇來
未嘗異悲悦
憩蔭若暫乖
止日終不別
此同既難常
黯爾倶時滅
身沒名亦盡
念之五情熱
立善有遺愛
胡爲不自竭
酒云能消憂
方此何不劣

神釋


大鈞無私力
萬理自森著
人爲三才中
豈不以我故
與君雖異物
生而相依附
結托既喜同
安得不相語
三皇大聖人
今復在何處
彭祖愛永年
欲留不得住
老少同一死
賢愚無復數
日醉或能忘
將非促齡具
立善常所欣
誰當爲汝譽
甚念傷吾生
正宜委運去
縱浪大化中
不喜亦不懼
應盡便須盡
無復獨多慮

書庫(3):牛村圭「「文明の裁き」をこえて」より

(…)一方、東郷に対しては戦後、「『ハル・ノート』を受諾出来なかった筈はない」[256]という非難が向けられるようになった。批判者が実は戦前日独防共協定締結の熱心な賛成者だった、というような主義・主張の変節ぶりを指摘[257]した後、東郷は次のように他策がなかったことを書き遺した。

…「ハル」公文を受諾した後の日本の位地が、敗戦後の現在の地位と大差なきものとなるべきであることは又疑の余地はない。されば戦争による被害がなかつた丈け有利ではなかつたかとの考があるかも知れぬが、これは一国の名誉も権威も忘れた考へ方であるので論外である。[259]

また別の箇所では「誰れの内閣であらうと大陸から全面的に撤退しない限り戦争」[195]と書き、大陸からの日本軍隊・警察の全面撤退要求事項を含むハル・ノート接到以降は、開戦しか道がなかったことを力説した。(第9章 文明批評家 東郷茂徳 -『蹇蹇録』を併せ読む『時代の一面』)

*   *   *
(…)しかし東郷茂徳には終生、一つのささやかな満足感があった。それは多大の障害を乗り越えて、昭和二十年夏に、戦争を終結できたという思いに他ならない。昭和二十二(一九四七)年十二月、極東国際軍事裁判の証言台に立った彼は、長文の宣誓口供書を次のように締めくくった。

一九四一年に戦争を阻止し得なかったことは余の生涯に於ける大なる痛痕(ママ)事であったが、一九四五年之を終結に導き人類の苦悩を軽減することに寄与し得たことは以て聊か慰めと為す次第である。[337・19]

第二次世界大戦での敗戦で終わる帝国日本最後期の外務大臣をつとめた東郷茂徳、彼が宣誓口供書をこう結んでからまた半世紀の時が経った。(第9章 文明批評家 東郷茂徳 -『蹇蹇録』を併せ読む『時代の一面』)

書庫(2):竹山道雄「昭和の精神史」より

(…)東郷外相の『時代の一面』を読むと、このころ(引用者注:対米開戦決定の時期)の事情がいかに錯綜し、その間に責任者がいかに苦心したかが分るが、このことについては本人の記述よりも、ローリング判事の研究を紹介しようと思う。(13.開戦)
*   *   *
(…)その次に会ったとき、氏(引用者注:ローリング判事)は握手もすむかすまないかのうちに、いきなり私にこうたずねた。
「東郷をどう思うか?」
東郷外相が活躍した開戦のころには、詳しいことは何も報道されなかったのだから、私は「何もわからない」と答えた。
このときの話はそれきりになったが、あのときの氏の特別な身ごなしがまだ私の目に残っている。それは、困難な問題の解決の端緒をつかんだという意気込みだった、と思われる。(14.ローリング判事の少数意見)
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(…)帰国の前に、氏はその少数意見書を私にも一部くれた。この意見書の中には、私が氏にむかっていった言葉が二つ入っている。それは「彼は魔法使いの弟子であった。自分が呼びだした霊共の力を抑えることができなくなったのである」また「もし外交官が戦時内閣に入ればそれは戦犯の連累であるという原則がうちたてられるなら、今後おこりうる戦争の際に、戦争終結のためにはたらく外交官はいなくなるだろう」というのである。(14.ローリング判事の少数意見)
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(…)ローリング判事は、畑、広田、木戸、重光、東郷の五人の被告は無罪であると主張している。
判事の意見書は、その大部分がこの主張のための論証である。(14.ローリング判事の少数意見)
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(…)ローリング判事は五人の無罪を主張して、それぞれの場合を検討しているが、いずれも複雑をきわめ機微をきわめて、あの困難の際に健闘した人々の姿は興味本位でいうのではないが小説よりも面白い。私にはこれが真実だったろうと思われ、この人々の窮状と苦心は真になみなみならぬものであり、心から感謝さるべきだと感じる。
その中で、もっともむつかしいのは東郷被告の場合である。これはぬきさしならぬ危機にあたっての、より小さき悪の二者択一の連続だった。その要旨を次に紹介する。
(以下の判事の判定は、これとは別に成立した東郷氏の『時代の一面』と符節を合せている。この本は、おそらく垂死の病床で書かれたからなのであろう、筆致に光彩を欠くところがあり、あまり読まれずにしまったが、当時の日本の状況と自分の立場を精細に記したものである。まことに、東郷氏は彼がなしうる一切をなしつくした)。(15.東郷被告の場合)
*   *   *
(…)東郷の場合に決定的な問題は、彼が東条内閣に参加し、しかも開戦決定の際にこの内閣にとどまっていたということである。
東郷の申し分によれば、彼が東条内閣に入ったのは、全力をつくして太平洋戦争を防止するためであり、そのためには自分が最適任者であると考えたからだった。入閣の際にも、あるいはこの努力が失敗するかもしれないことを知っていたし、しかももし失敗した場合に辞任すれば国に大損害をあたえるであろうことも知っていた。何となれば、辞任は、かくてはじまった戦争が不可避であったことについて、意見の不一致があったことを示すことになるからである。もともと、入閣するためには東条の条件にしたがわなくてはならなかった。対米交渉には時間が区切られていた。すなわち、彼に課せられた選択は、閣外にとどまってより無能無気力な者に交渉をつづけさせるか、又はみずから入閣して失敗の場合にもとどまるか、であった。そして、とどまっていれば、さらに後になっても平和を探求する機会があった。
この申し立てが事実であると仮定したとき、問題は、酌量せらるべき罪が行われたか、それともいかなる罪も行われなかったか、ということになる。普通は前者を考えたくなる。しかし、国際関係の中における「平和に対する罪」という特別な観点からいえば、問題なく後者である。このような場合に入閣することは、(あるいはもっと一般的に平和の機会をとらえるためにはたらくことは)、もしその人がそれをなす資格があるときには国際的な義務である。もし開戦的傾向の内閣に入ること自体が法によって罪であるということであるならば、その法は非現実的な非実際的なものである。この法(引用者注:原文は「方」であるのを「法」と改める)は、平和の保持と促進という自分の目的をこわしてしまう。平和を探求することは、平和に対する罪ではない。もし平和探求のために入閣をし、その避けがたき結果として開戦決定にしたがったのなら、その人は攻撃的意図をもった者として糾弾されることはできない。
東郷の場合はまことにデリケートである。検事は、被告が日本の立場を弁護し、過去に侵略があったことを否定し、軍の行為を是認した証拠を示している。また、東郷は、開戦後に議会でこの戦争の正当性を説いている。しかし、政治家の公開の発言を判断するには注意しなくてはならない。平和を意図しながら戦争を口にするかもしれないし、戦争を意図しながら平和をいいたてるかもしれない。
(…)
しかし、東郷の申し立てを信ぜしむるに足る、十分の証拠がある。被告東郷は攻撃戦争を主動し行ったという訴因から免ぜられるべきである。
(15.東郷被告の場合)

*   *   *
(…)その後、東郷はふたたび鈴木戦時内閣に入った。鈴木の証言によれば、彼は東郷が最初から戦争反対であったのを感じていたから、それで入閣を懇請したのだった。
(…)
重光の場合に論じたのと同じく、戦争終結の意図をもって戦時内閣に入った故をもって、戦争責任を課することはできない。この人は酌量せらるべき罪を犯したのではなく、むしろ反対に、国際的義務を果たしたのである。
以上の理由により、東郷茂徳は一切の訴因を免ぜらるべきである。
(15.東郷被告の場合)

書庫(1):東郷茂徳「時代の一面  大戦外交の手記」前書きより

 悠久の宇宙と比較しなくても地球の生命と対比しなくても、ほぼ人類の発生せしと覚しき年代に比べても、一世紀や二世紀の長さは重要視するに及ばぬことは明らかである。しかし現代人より見れば、一世紀は重大の意義があり、殊に第一次世界戦争は人生初めての大動乱期に際会せるのであるから、文明史上から見ても相当の重要性を付与するは当然と云わなくてはなるまい。予はここに予の公的生涯を通ずる期間、即ちあたかも第一次世界戦争勃発の頃より第二次世界戦争終末に渉る間に於て、予が直接見聞せるところ並びに関与した事件に就て率直なる叙述を為さんとするのである。
 従って本書の目的は予の自伝に非ず、また自分の行動を弁解せんとするのでもなければ、日本政府のとった政策を弁解せんとするのでもなくして、自分が見た時代の動きを記述することを本旨とし、自己が見聞しかつ活動せるところに就き、主として文明史的考察を行わんとするのである。しかし時代の進みも自分の働いていたところから見ることになるので、章節の分け方はこれに従いたるところがあり、一方自伝的色彩を帯ぶるところが少なくないかもしれない。また時代の推移並びに予の直接関与せる程度よりして、記述の重点が太平洋戦争に存することは当然である。
(…)

2015年1月13日火曜日