2015年3月8日日曜日

書庫(26):東郷茂徳『時代の一面』あとがき草稿(萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』所収)

 終戦と共に我終生の事業は成し遂げたので、更に欲求する所は無い気持であつたが、 東久邇宮に外相就任を辞退した際に申述べた戦争犯罪人の問題が間もなく起つて来たので、 更に一波瀾を見ることになつた。本問題に関する決定及び独逸の実例をも承知して居るので、 本件に連座することになると豫想して居たが、果して九月、 終戦前からの病気を養ふて居た軽井沢で令状の発布があつたとの通知に接して帰京した。 病気の為暫時自宅療養を許されたが、一九四六年四月末日起訴状の送達を受けて、 五月一日巣鴨拘置所に拘禁された。裁判は五月三日以来開始せられ、 一九四八年十一月十二日全被告に対する判決の言渡しがあつた。 裁判の結果は自分達の申立ての多くが認められないので、六人の被告は絞首刑の宣告を受け、 多くの者が終身禁錮の重刑を課せられた。自分は禁錮二十年と言ふので、 獄裡に春秋を送つて居る訳である。
 人生の浮沈誠に期し難きものがあるが、凡ての事は暗黒面があると同時に光明面を有する。 此裁判に対する自分の気持は平かならざるものが尠くないのは当然であるが、自分の半生の事業については、 回想し且つ其幾分かは法廷を通して天下に明かにする機会を得ることになつたのは、 自分にしては寧ろ望外の幸であつた。なぜかなれば、若しかかる境遇にならなければ、 自分は左程深く過去を想ひ出すことがなく、又左程公に表現することがなかつただろうと思ふからである。
 自分が少壮年時代に孔子の教で教育され、巧言令色仁鮮しと言ふ風に寡言質実を旨とし、 又西郷南州に私淑した結果、誠意は自ら神明に通ずるので、宣伝も弁明も不必要であり、 凡て事を行うに人を相手にするやうでは駄目で、天を相手にすべきであるといふ風に育てられたので、 自分の為た事を吹聴せぬは勿論、弁明するのも男らしくないことになつて居たのである。 然るに裁判(東京裁判)となれば、弁明も弁論もしなくてはならぬことになつた訳で、宣誓口述書も作成するし、 証人台にも立つたのである。そして又そう言ふことが機因となり、習慣となつて、 ここに回想した所を書き陳ねて見やうとの気持になつたのであるから、 裁判が自分に与へた好都合の一つと言つてもいいだろうと思ふ。
 扨て書き陳ねるとしても、前の吹聴、弁明したくない傾向は今にも残つて居るので、前書きにも述べたやうに、 自叙伝とか回想録とかせずに、 自分が躰験又は見聞した所を文明史的見地から叙述したい意図の下に発足したのであつた。 然るに筆を進めて見ると、やはり自己中心の描寫となり、又時としては自己弁明にもなることになつた、 これは執筆開始後、一、二日本人の著作及び雑誌記事を閲覧する機会が到来したが、 その内に自分の行動に関係する部分があり、且つ誤謬を包蔵して居るものが多いので、 之を是正しやうと考へたのが一因である。自分の趣味からすれば、このやうな論難は不愉快であるが、 裁判にも一つ同様の経験があつたが、賣られた喧嘩は買はずばなるまいとの気持になつたことも事実である。 しかし自分の現下の境遇上、何時になつたら本書が公刊せられ得るのかの予想は更に有し得ないのであるから、 前記の弁解やら議論やらは出来る丈け控え目にしたやうな訳である。

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