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注目すべきは、シルレルが史実を増減して此作をなせど、歴史上の人物の性格を変更することなきにあり。
是れ史劇作者の一考に値するものとなす。
凡そ史実を資料として戯曲を作る所以は如何にと云ふに、当時の世界を明かにせんが為にあらず、
史的発展の隠微を披かんとする為にもあらず、只歴史を依信する力は吾人をして史実より取れる劇中の事件が実らしきと考へしむるに都合よければなり。
是れ事実をそのままに写さんとする歴史家と、史劇家の任務を異にする所以なり。
是れ已にレッシングが『ハンブルギッシュ・ドラマツルギー』に於て明解に論ぜし所なり。
然して歴史中の人物の性格を変更することは、此実らしき念を起すに大なる阻礙となり、史劇に於ける史実採用の目的に背く。
されば如此事は宜しく作劇者の避く可き処とす。之に反して、史上に於ける各個の出来事は、必ずしも詩的要求に従ひて発展するものにあらず。
左れば此等の事実を劇中の所作として用ゐる場合には、其人物の性格を変ぜざる限りに於て、幾分の攝捨を加ふるは必要のことにして、
又正当の事とす。シルレルが此用意は、レッシングに得たることを疑ふ可らず。
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注意すべきは、主人公マリア(メリー・スチュアート)がダーンレー(先夫)を殺せしやう仕組みしことなり。
若き血潮に満ちて、夫の暴虐に快からず、他に心を迷はす情人あり、然かも幼時より軽薄なる生活に慣れて、
貞操の観念に乏しき女王が悪くき夫を殺すに至りしことは、詩人ならでも考へ及ぶ所なるが、此処にて研究すべきは、
此罪悪が戯曲全般に及ぼす影響なり。マリアの此罪悪に対する悔悟が如何に痛切にして、如何に自然らしく、
其心理的経路を残りなく描き出したるかは、後に詳述すべけれど、吾人はここに良心に苦しむマリアの心情が荘重なる悲壮美を表はし、
又此れを懺悔し光風霽月の別天地に遊ぶが如き心情は最高の壮美を表はすことを言ひ、
此等の動機となるべきマリアの罪悪を執り来りたるシルレルの霊腕を賛美せんとす。
かくシルレルはマリアのダーンレーに対する罪悪を以て、悲壮の美を構成せしが、
一面にはエリザベット(エリザベス一世)に対する陰謀を心底より否定せしめ、ここにエリザベットの不正を悪くむと共に、
マリアに対する同情の念を盛んならしめたり。此れ亦史上に判明せざる事実を断定して用ひたるものにして、
不正の呵責に苦しみ、正義の憤怒に充てる女王の境遇は、吾人の感情を動かすこと大なりとす。
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マリアが自己の頭上に落ち来るあらゆる苦病を以て罪悪に対する呵責と見做したる道義的態度と、
自己の死が冤罪に出づるとの自覚は、現世を軽くし、死を歓迎せしむるに至り、苦悶霧散、風月従容として死につかしめしなり。
マリアはかくして苦悶を折伏し、エリザベットを折伏し、現世をも折伏して、永へに無限の自由を得たり。
実に悲壮の真面目を発揮せるものと言ふべし。マリア自白して曰く、『最終の運命は敗壊せる人間をも高尚ならしむ』と。
シルレルが史実を離れ、臨終のマリアをして喪服の代りに純潔の白衣を纏ひ、勝利の王冠を戴かしめしことは、甚だ興味あることなり。
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