2015年8月10日月曜日

巡礼(16):青山霊園 2015年8月10日

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2015年8月9日日曜日

書庫(58):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より

 蘇聯大使との会見
 その間九日に在東京「ソ」聯大使「マリク」から面会したい旨の申し出があったから、 自分は連絡会議で同日は面会出来ないから急用であったら次官に面会するように返事させたが、 十日でよろしいとのことであったので、同日にこれを引見した。 「ソ」聯大使は本日政府の命により宣戦通告を伝達するとのことであったから、 自分はこれを聴取した後、蘇聯と日本との間に中立条約がなお有効であることを指摘した上に、 日本から和平の斡旋を求められ、未だ確たる回答をしない間に宣戦する不都合を責め、 かつその理由とする日本が英米支三国共同宣言を拒否せりとの点につき、 日本政府に確かめる方法を採らなかったことの不当なるを述べ、 更に「ソ」聯の態度は後日歴史の批判を受くべきものだと云ったが、 彼は「ソ」聯の行動はなんら間違いないはずだとの趣旨を、抽象的の言葉で述べ立てるだけで更に要領を得なかった。 引続き自分は、日本政府の「ポツダム」宣言受諾に関する通告につき説明を加え、 「ソ」聯政府への伝達方を求めた。


「第三部 太平洋戦争勃発後」
「第六章 ポツダム宣言受諾と終戦直後」より

書庫(57):東郷茂徳「時代の一面 大戦外交の手記」より

 蘇聯の対日参戦
 然るに翌九日未明に外務省「ラジオ」室からの電話によって蘇聯が日本に宣戦し、満州に進撃したことを知った。 即ち八日午後十一時、佐藤大使が「モロトフ」委員に面会したときに宣戦の通報を受けたのであるが、 その会談、従って宣戦通告の電報は遂に東京には到着しなかったのである。 自分は早朝総理を訪ねて「ソ」聯参戦の次第を伝え、急速戦争終結を断行するの必要あることを述べたが、 総理もこれに同意したので、同席していた迫水書記官長から大至急戦争指導会議構成員を召集することに手筈を定めた。
 外務省への途次海軍省に米内海相を訪ねて、総理へ説いたのと同様のことを述べたが、 更に同省にて邂逅したる高松宮に対しても成行を説明して、直ちに「ポツダム」宣言を受諾することの必要を述べたが、 殿下は領土の点につきて何とかならぬだろうかとの御話があったから、 その点に就ても考慮して来たので方法があったらなお何とかしたいのですが、 今日となっては恐らく致し方ないと思いますと云って退下した。


「第三部 太平洋戦争勃発後」
「第六章 ポツダム宣言受諾と終戦直後」より

書庫(56):牛村圭「「文明の裁き」をこえて」より

(…)
 東郷は『時代の一面』を、二十年の禁固刑の判決を受けた虜囚として、憤懣やる方なき心境で綴った。 その草稿を、病室に見舞いに来た娘に手渡した五日後に世を去ったという事実をも考え合わせれば、 この書は彼の遺書であり、弁明でもある。従って読む者は、どれほど東郷の姿にひかれようとも、 心して読むべきであろう。幸い、この会見に同席した加瀬俊一の次の回想が傍証となってくれる。

 マリク大使が宣戦通告分を持参した時には、ソ連軍は既に満州に殺到していた。 東郷・マリク会談はひと目を避けて貴族院貴賓室で行われ、私が立ち会ったが、 東郷は厳粛な表情で大使を引見し中立条約違反を烈しく難詰した。 大使はボソボソと低声に弁解したが、あたかも検事が被告を叱責るようで小気味よかった。 崩壊寸前の日本なのに、東郷の態度は堂々として立派だった。後にマリクは国連において私の同僚大使になったが、 『あの時は寿命の縮む思いがした』と述懐したものである。

 読む者にさながらその会見が眼前で展開しているかの如く、情景を思い浮かばせる文章である。 「厳粛な表情で大使を引見し中立条約違反を烈しく難詰した」の一文は、如何にも東郷らしく、 彼の面目躍如たるものを感じさせるに十分である。傍らでこの様子を見ていた加藤の、 「小気味よかった」という感想も、条約無視の上対日宣戦したソ連への憤りを痛烈に感じていた、 当時の日本人の一人としての、偽らざる気持ちであろう。後日加瀬にマリクが漏らしたという 「あの時は寿命が縮む思いがした」の一言は、加瀬の脚色が加えられている気味もあるが、 それでも東郷の詰問の激しさを十分裏書きできるものである。
 このマリク大使に対する東郷外相の言動は、野村大使に対するハル国務長官の態度と比較して、 「強い精神」の発揮という点においては全く遜色がない。 東郷茂徳は、丸山が指摘するような「弱い精神」の持ち主では決してなく、「強さ」の発揮が必要とされる場合には、 遅れて宣戦通告を持参したマリクを叱りつけたように、丸山眞男の言う「強さ」を十分発揮できた人物である、 と主張して一向に差しつかえない。
(…)

(「第3章 「私人の間の気がね」と「腹藝」―東郷茂徳外相の論理」より

書庫(55):東郷和彦「北方領土交渉秘録」より

(…)
「こんちくしょうだったよ」―。
 外務省でロシアとかかわることになってすぐのことだったかと思うが、 母、いせに、私の祖父、東郷茂徳にとって、また終戦の頃の日本人にとって、 ソ連という国はどんなものだったかについて尋ねたことがあった。 その時、母は語気を荒げてそう答えた。
 母は、茂徳とドイツ人の妻エディの間に生まれた、一人娘だった。 ”外交官のお嬢さん”として祖父の赴任先の欧米各国を回っていたために、 日本での正規の教育はほとんど受けたことはなく、 勉強は外国人の家庭教師から教わっていた。 そのせいもあってか、言葉に関しては多少ハンディを抱えることになった。 英語とドイツ語は「ネイティブ・スピーカー」だったものの、 日本語に関しては生涯そのレベルには達しなかったのである。
 実際、母が自分の楽しみのために読む本は、英語かドイツ語のものばかりで、 日本語の本を読んでいる姿は見たことがなかった。
 私の父親の東郷文彦もアメリカ畑の外交官だったが、私が高校や大学時代に、 父の赴任先に同行した母から送られてくる手紙は、漢字はほとんどなくて、 丸い可愛らしい字で書かれた平仮名ばかりだったのをよく覚えている。
 母は日本語は基本的に祖父茂徳と、父文彦との会話の中で学んだために、 「こんちくしょう」という、女性には似つかわしくない男言葉が飛び出してきたのである。
 それでは、何が「こんちくしょう」だったのか。

 祖父、東郷茂徳は、太平洋戦争の開戦時と終戦時に外務大臣を務めた。 開戦前には東条英機内閣の外務大臣として日米交渉にあたり、戦争の回避に全力を尽したのだが、 交渉は決裂。茂徳は開戦の詔勅に署名、一九四一年十二月八日真珠湾攻撃によって日米戦争が始まった。
 一方、四五年には再び鈴木貫太郎内閣の外務大臣に就任。総理の覚悟が終戦にあることを確認した上で、 それを実現するための決死の入閣であった。
 まず、総理、外相、陸相、海相、陸軍参謀総長、 海軍軍令部総長の六者からなる最高戦争指導会議を定期的に開催することとし、 補佐の人間を拝することにより、本音で話し合う関係をこの六者の間で作っていった。 当時は、世評においては「一億玉砕」などの勇ましい意見が風靡し、戦争終結工作には暗殺の危険すらある時代だった。 そのため、最高戦争指導者たちの本音の議論は、絶対に外に漏れてはならなかったのである。
 この会議で、六者共通の関心事項は、ソ連を仲介とした終戦の調停だった。 この時、ソ連は、連合国の中で日本と戦争状態に無い唯一の大国であり、 軍部も、交渉によりソ連の脅威を減殺することには、かなりの関心をもっていた。
 しかしながら、広田弘毅元総理を特使とする箱根におけるマリク駐日ソ連大使との会談、 モスクワにおける佐藤尚武大使とモロトフ外相との会談、 さらに近衛文麿特使の派遣も検討されたが、いずれも、はかばかしい効果をもたらさなかった。 ソ連はすでに、四五年二月ヤルタ会談の時点で対独戦終了後、二ヶ月から三ヶ月以内に対日参戦することを決めており、 スターリンには、日本からの仲介要請を真剣にとりあげる意図はまったくなかったのである。
 そして、八月八日未明、日ソ中立条約が未だ有効だったにもかかわらず、 ソ連軍は、当時の満州国国境へと殺到したのだった。
 八月六日に広島、九日には長崎に原子爆弾が投下されたことともあいまって、このソ連の対日参戦により、 日本の敗戦は、いよいよ決定的な状況になった。
 この時、それまで戦争終結工作を軸として行われてきた密室での議論によって、六人の最高戦争指導者の間には、 言葉で表現できない暗黙の心理的な基盤が出来上がっていた。 そして、そのことが、一部の陸軍将校が玉音放送の録音盤奪取事件を画策するなどの動揺があったにもかかわらず、 とにかく平穏裡に終戦にこぎ着けることが出来た、最大の要因となったのである。

 七月二十六日にポツダム宣言が発出された後、原爆の投下とソ連の参戦という悲劇を甘受しながらも、 ともかく八月十五日に戦火を収め得たことは、茂徳の人生にとって、「なすべき事を果たした」終生の事業となった。
 終戦を決めるプロセスにおいては軍部の考え方を代表し、和平をめぐる条件について茂徳と激論をかわし、 終戦の御聖断の後、粛然と自決され、自らの死をもってはやる軍部への重しとなった阿南惟幾陸軍大臣も、 おそらくは、同じ思いだったのではないだろうか。
 しかしながら、有効な中立条約を無視した参戦、約六十万の日本兵のシベリア抑留、 さらに、日ロ間の平和裡な国境画定によって日本領であることを何人も疑っていなかった北方領土の占領など、 四五年夏から秋にかけてとられたソ連の行動は、当時の日本指導部と日本人の中に、激しい怒りと心の傷を残した。
 開戦から終戦まで、母は、私邸にあってその多くの時間を祖父茂徳とともに過ごした。 当時の日本の指導者が、命をかけて終戦を実現しようとしていたのをその横で感じていただけに、 ソ連の背信行為に母は、おもわず「こんちくしょう」と述べたのだと思う。 それは、遺著『時代の一面』の中に、 「『ソ』聯の態度は後日歴史の批判を受くべきものだ」とその無念さを述べた茂徳の心情でもあったに違いない。
 「こんちくしょう」
 それはまた、ある意味で、私の原点にもなった。私は、できるだけ日本の国益が大きくなるような日ロ関係を構築すべく、 仕事人生の大半のエネルギーをかけた。そのためには、日ロの当局者の信頼関係の構築を不可欠と考えた。 しかしながら、心の中において、片時も、「こんちくしょう」との思いが消えたことはなかった。
(…)


「第二章 ロシアとの出会い―青年外交官時代」より

2015年8月2日日曜日

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(13)

(東郷)…それから十四日は第二回の御前会議があつたのです閣員全部及統帥部両総長を御召しになつての会議です。 最高戦争指導会議とは違ふのです。 それに平沼さんは特旨により二度列席せられた。 これはずつと前からの例です。 原議長の時から参列する例になつて居つた訳です。 十二、十三の両日に渉り自分等は議論を尽した訳であるから十四日の御前会議では総理が発言して、 先方回答について、外務大臣は不満足の点はあるけれども大体に於て日本側の主張を入れたものだと言ひ得る。 又此際交渉を継続するも今次回答以上に有利になるものを獲得し得る見込は立たない。 尚保障占領武装解除に関する新条件を提出するときには、 今の国際情勢から見ると皇室の安泰と言ふ問題もどうなるか分らない、 従て此際直にポツダム宣言を受諾した方がいゝと言ふ意見でありまして、 閣議の大多数はそれに賛成して居ります。 それに反対のものが閣員の一部並に統帥部の方にもあります、 それで反対の意見だけこゝでお聴きを願ひたいと奏上した。 反対意見者にだけ陳述せしめやうと言ふのです。 無論陛下の方は閣議及最高戦争指導会議で、どう言ふ筋道でどう言ふ議論があつたといふことは御承知です。 自分もその前に参内して成行きを申上げて置いた。 それで御前会議に於ては反対論者の意見だけを御前会議でもつて述べさした訳です。 右意見の開陳が了つた後陛下は自分のポツダム宣言を受諾すると言ふ決心は前の時とちつとも変はらない。 若し今日受諾しなかつたならば国体も破壊せらるゝし民族も絶滅せらるゝことになる仍而此際は難きを忍んで 受諾する必要がある、外務大臣の意見に賛成である、尚陸軍大臣の話しでは軍の内部に異論があるとの事であるが、 此等のものにもよく分らせるやうにせよ、又自分の志思のある所を明にする為に詔勅を準備せよと言ふお言葉でした。 其後に閣議になつて午後十一時詔勅が発布せられた。
(大井)もう時間も迫つて来ましたが、 その危かつたと言ふ時に阿南大将が辞職しはしないかと言ふ心配はなかつたですか。
(東郷)あつたんですよ。阿南大将は或は辞職するんぢやないか、 内閣倒壊に出るんではないかと言ふ予想がないではなかつた。 それでこれは総理と迫水君もはいつてそんな話が出て、 その場合のことを考へて置く必要があると言ふことを話したことがあるんです。
(大井)さうしますと阿南大将に強く戦争継続論を出されました時にも大した心配はありませんでしたか。
(東郷)私自身は阿南君とは前に言つた通り、屢々各問題に付意見を交換したのであの人の気持は相当分つてゐた。 其頃の阿南君の考へは結局この戦争は継続出来ない条件は相当苛酷なものになるだろうが、 結局容れなければ仕方ないぢやないかと言ふのでした。 併し一方軍の面目と言ふものも考へなくてはいけない地位にあるし、 下の方では強硬な意見を持出し、又劃策してゐるので阿南君は全然耳を貸さない訳にはいかない、 少しは強いことも言はなければならぬ。 併し事実肚の中は相当分つてゐたと私は解釈して居た。 殊に和平促進に就ての陛下の御思召もあつたので内閣倒壊も企てないし又クーデターにも結局賛成しなかつたのだと思ひます。
(大井)さうしますと東郷外相としては阿南さんと色んな話をして、阿南さんの肚の中は分つて居つた訳ですね。
(東郷)内閣倒壊と言ふところまでは行くまい、クーデターにも賛成することはあるまいと言ふことに大体僕は見て居つた訳です。
(大井)そこから自然に動揺したり危機を感じたりする点はあまりなかつた訳ですね。
(東郷)そこまで感じなかつた。危ないことはあつたけれども、何とか切抜け得ると言ふ自信を持つて居つた訳です。
(原)肚は分つて居つたと言ふのは、表面は強いことを言つてゐるけれども本心は弱いと言ふのですか、 それともあの人の終戦にもつて行こうと言ふ本当の気持が分つたと言ふのですか。
(東郷)大体終戦にもつて行かなければならぬと言ふ気持であつたと言ふことです。 さつきも言つた通り、本土上陸をしたら、結局は時の問題になるんだと言ふ僕の意見を卒直に容れた。 そんな話は外にいくらでもあるんで、阿南君は頑迷な考へ方の人ぢやなかつたと言ふことに私は考へる。
(原)自分の本当の気持以上に、部内から圧迫によつて強い意見を言つたと言ふことも若干あつたかも知れないが、 本質として、さう言ふ点がありましたでせうか、色々話をされて見て…。
(東郷)阿南陸相も原則としては和平に賛成して居つたんです。たゞ条件について四条件の提出を主張したのですが、 これも御裁断によつて国体問題に関する留保丈けにした。 最後の段階に於て右留保条件に対する先方回答が不十分だといふのは先づいゝとして、 先きに御前会議に於て提出せざることに決まつた条件迄も提出せよと言ふのは理くつに合はぬことである。 そこいらのところがどうも前の阿南君とは少し違ふと思つた。 即このところが下の方から押されてゐるんぢやないかと言ふ気持をその時僕はもつた。
(大井)それからポツダム宣言を受諾したならば、天皇が退位を要求されると言ふやうな心配はありませんでしたか。
(東郷)僕は寧ろ逆に考へてゐるんです。 当時各国の形勢より見れば日本がポツダム宣言を受諾しないで戦争が継続せられたなら、 退位の問題所か、皇室全般が危険に瀕することになつたのですが、 あのポツダム宣言に関する先方回答に書いてある所より見ても日本政府の形態は日本国民の自由に表明せる意思によりて決定せらるべきものとありますから天皇制を排斥したと言ふのではない。 日本人を知つてゐるものの気持では寧ろ天皇制の存続を認めたと言つても差支ない訳なんですね。 天皇制を認める以上は天皇の現在の地位を認められなくちやならん筈だ。 それでポツダム宣言から言へば今の陛下は其儘に承認せられたと言ふことが言へるんです。 さもなければポツダム宣言及びその後の回答に於ける書き方は変つてゐなければならない筈だと考へる。

東郷茂徳陳述録(江藤淳監修『終戦工作の記録』所収)より(12)

(東郷)…十二日になつて向ふの返事が、分つた。 正式なものは十三日の朝着いたが十二日はラヂオで聞いた。 それで午前中に参内して陛下に申上げて午後に臨時閣議を開いた、 その際又議論が出た。 先方の回答では不十分である。 依而国体擁護に付いて更に申入るると同時に、 先日ドロツプした武装解除及、保証占領の問題を条件として更に持出す必要があると言ふことを軍部の方から申出た。 軍部と言つてもその時は臨時閣議だつたから阿南から申出て来た訳です。 一部の閣員のものにも賛成するものがあつた。 自分は之に対し、先日聯合側に対する留保として皇室の御安泰と言ふ問題のみを出して置きながら、 今日更に別箇の条件を追加するのは甚だ不穏当で聯合側よりすれば日本側に於て話を打壊す底意があるとしか考へられない。 而も九日議論を重ねた挙句、 御聖断によつてさう言ふ問題は出さないことに決つたに係らず此際更に提出せんとすることは御前会議の決定をも無視すると言ふことになる。 又戦争継続は不可なりとの御聖断により処理して来たに係らず、此際多数事項の申入れを為して交渉決裂、 戦争継続に導かんとするは事理に反するもので自分は断固反対だと言ふことでもつて論駁した訳です。 ところが昨日あなた方に木戸が話したと言ふのでつけ加へて申上げますが、 其日閣議で総理がどうした訳か知らんけれども、どうも向ふの返事は十分ではない、と思ふ、 又武装解除を全然向ふの手でやらなければならぬと言ふのは軍人としてはとても承諾は出来ぬ、 こう言ふ事では、戦争を継続してやると言ふことにするより外はありません、と強硬な意見を述べられた。 どうも困つたことを言ひ出されたと思つて、自分は、その問題は余程考へる必要があります。 たゞ戦争を継続して、後はどうにでもなれと言ふ無責任な態度はとりたくない、 戦争を継続して戦争に勝つと言ふ見込がなければ、 交渉成立の方面に進めなければなりません。 と言ふと同時に、正式の返事が来てゐないことを指摘し、 閣議は正式の返事が来てから続けることにした方が適当ではないかと言つて散会に導いたことがあります。
(大井)戦争継続論は閣議の席上ですか。
(東郷)さうです。それで之に対し自分は今述べたことを言つたのですが、閣議終了後自分は直に別室で総理に対し、 あなたの今のお話は納得し兼ねる、この武装解除の問題だつて前に決つた問題だ、 それを今から持ち出すと言ふのは筋違ひだ、ぶつこわしと言ふことにしかならん訳だ。 又其他の問題にしても、戦争に勝つ見込がついてゐなければ強くは出られない。 又陛下の方でも戦争の継続は不可能と考へて居られるに係らずあなたが戦争継続を言はれたことは自分には納得出来ない、 依而私は単独上奏することになるかも知れませぬから左様承知を願ひたいと言つて私はそこを出た。 但し陛下に直接申上げては閣内不統一と言ふことで事態は重大になるそれで木戸にその話をして、 困つたことが出来たんだと言つた。木戸君はその話を昨日した訳でせう。
(大井)武装解除と言はんで国体護持と言つたやうな。
(東郷)その時の閣議の話は、国体護持に関する先方回答も不十分だと言ふことであつたが、 その他武装解除は先方きりでやるのは軍人として承知出来ませんと言ふことを言つてゐた。 二つの問題があつたんですね。それで困つた、と木戸に話した。 陛下にぢかに申上げると角が立つと思ふので…。すると木戸君は陛下のお考は最早はつきり決まつて居るのだから、 鈴木さんに話すことにしようと言ふ訳でした。 その後すぐ木戸君から聞いたんですが、鈴木さんはよく話は分つた、先方の回答通りでいゝと言ふことで、 進むことに話はついた。 陛下の思召と言ふことならば話しの分る人なんだからと言ふことだつた。 その時の僕の進むべき途は、陸海軍の首脳部を説きつけることで、それは大部分成功するが、 ぎりぎりのところに行くと或る点喰違が出来る、これは初めから予想してゐた訳です。 それにしても閣員の大多数は自分の方の味方につける、而も総理が自分の方に賛成する、 それでもつて推して行けると言ふのが僕の大体の作戦なんですね。 ところが総理がグラついては此案は停頓する訳です。 而も僕はどんなことがあつても戦争継続に反対するつもりだつたから、 戦争継続論が強くなつたら閣内の不統一で内閣は辞めなければならぬことになるのだから、 此危急の際に内閣が辞めては時機を失する許りでなく、戦争終結反対の運動も盛んとなり、 国内が大混乱に陥り和平の成立は覚束ないことになる懸念があつた訳です。 従て、その十二日には、危機至れりと感じた訳ですが、その時鈴木さんがどう言ふ気持であゝ言ふ事を言つたのか、 今でも分らんのです。 それから十二日から陸軍の若い方で動いてゐる、陛下を擁してクーデターを行ふと言ふ計画があることをうすうす聞いた。 これより先、七月始めに米内君に和平問題が動き出すと色んな騒ぎが起ると言ふことを予想して置かなくてはならぬ、 お互に生命は初めから投げ出してかゝらなければならぬが、騒ぎが大きくならんやうに手筈をして置く必要がある、 海軍で手筈が出来るかと言つたら、それは横須賀から持つて来ることも出来ると言つた。 又海軍部内にも反対が予想せらるゝが之はどうするかと言つたら反対する者は必要次第陸軍大臣の力で罷免すると言つたことがある。 それで、十二日は形勢が不穏になつた模様があるから米内海軍大臣に対し万一の場合を考慮して貰ふ必要があると申入れた。 それから内務大臣は強硬論者だからあまりあてにならん訳だが町村警視総監は騒ぎがないやうに早く和平を成立せしむるやうにして貰ひたいと松本外務次官に言つて来たので同君の方に連絡をとつて、手筈を整へて置く必要があると言ふことを注意さした。 軍の一部では十二日から十三日の晩あたりに動き出す模様があつた。十四日までが険悪だつたでせう。 しかし幸に大したことはなく治まつた。 私の処にも警察からうんと護衛を増した。そして十四日の晩は宮城で一部の兵隊が騒いだ訳ですが、 大きな騒ぎになり得ない、 不平をもつてゐる分子が動くので僕等に対する危険は続いたが十四日過ぎには全般的に動くクーデターとか大規模の騒擾とか言ふことには時期を逸した感があつた。 後から聞いて見ると、結局の処阿南君もさう言ふ騒ぎには賛成しないで、板挟みになつた訳ですね。 それで本当にクーデターでもあれば、和平問題は飛んでしまふと言ふことになる訳なんだけれども、 今見たいな成行きによつて危機は脱し得た。