2015年2月1日日曜日

書庫(13):東郷和彦「歴史と外交」より

祖父、父、そして私
(…)祖父東郷茂徳が、一九五〇年七月二十三日、A級戦犯として 巣鴨の拘置所で息をひきとったとき、私は、五歳だった。

私のなかにある茂徳の記憶は、おぼろげなものでしかない。 茂徳は、寝間着のうえに、えんじ色のガウンのようなものをまとって、 どこかの病院の廊下をこちらに向かって歩いてきた。ほんとうに 私がそういう茂徳を見たのか、それとも、あとになって、いろいろな物語を 聴くなかから、そういう記憶が結晶していったのか、いまとなってはそれも 定かではない。(…)

あの晩―ハル・ノート
(…)母から聞いたいくつかの話は、私の記憶に、鮮明に残っている。

「おじいちゃまはね、それまでは元気だった。でも、あの晩、家に帰ってきたとき、 ほんとに疲れきっていた」

私が何歳のときだったかは、はっきり覚えていない。しかし、そういったときの母は、 まだ相当に若かったから、中学か、高校か、学生時代のころだったと思う。

一九四一年十一月二十七日早朝(ワシントン時間二十六日午後)、 国務長官コーデル・ハルは、野村吉三郎、来栖三郎の両駐米大使に、 十一月に始まった日米交渉の帰結として、いわゆるハル・ノートを提示、 茂徳を含む日本政府は、これを事実上の最後通牒と受けとめ、戦争開始 やむなしとの結論に至った。

ハル・ノートンの内容は、二十七日連絡会議などの場で検討された。 母の記憶は、その晩、茂徳が自宅に帰ったときのものだと思う。

「あの晩まで、おじいちゃまは、ものすごくはりきっていた。絶対に、アメリカとの 交渉を成功させて、戦争を回避するって、とても忙しかったし、軍との議論は たいへんだった。けれども、それこそ、やりがいのある仕事だった。だから、毎日 生き生きとしていた。でもね、ハル・ノートを受けとった後、広尾の自宅に 帰ってきたとき、あんまり暗いムードになっていたので、びっくりした。 ほんとうにがっかりしていたのね。」

『時代の一面』も、まったく同じ記述をしている。

しかし茲に自分の個人的心境を顧れば、「ハル」公文に接した際の 失望した気持は今に忘れない。「ハル」公文接到迄は全力を尽して 闘ひ且活動したが、同公文接到後は働く熱を失つた。其直後賀屋大宮の 葬儀に於て「グルー」大使に邂逅したから、自分は全く失望したと 話したことを記憶する。戦争を避ける為めに眼をつむつて鵜飲みにしようとして 見たが喉につかへて迚も通らなかつた。自分ががっかりして来たと反対に軍の 多数は米の非妥協性を高潮し、それ見たかと云ふ気持で意気益々加はる状況にあつて、 之に対抗するのは容易なことではなかつた。

ハル・ノート発出にいたる日米交渉の経緯については、じつに多くの記述が残されている。 ハル・ノート発出の米国側の意図がどこにあったか、これを事実上の最後通牒と受けとめた 日本政府の判断は適切だったのか、などについて、必ずしもすべての議論が終息したわけではない。

しかし、日本では、私の知るかぎり、当時の日本政府がこれを事実上の最後通牒とうけとめたことは 定説となっており、また、圧倒的多数の歴史家、オピニオン・リーダーは、日本政府としては そう解釈せざるをえない十分の理由があったと判断していると思う。

(「第6章 私のなかの東京裁判」「1.祖父の戦い」)

書庫(12):東郷和彦「戦後日本が失ったもの 風景・人間・国家」

(…)私自身も、戦前の全否定とは、無縁の世界で育った。 極東裁判は、東郷茂徳を祖父に持つ私の家では、 戦いの場であった。

開戦を阻止せんとして東條内閣の外務大臣として全力を つくして果たせず、鈴木内閣の外務大臣として終戦を なしとげた祖父東郷茂徳は、A級戦犯として極東裁判で 禁固二十年の刑をうけ、一九五〇年巣鴨の獄中で死去した。

占領米軍にとって、真珠湾攻撃の時の外務大臣は、もっとも悪質な戦争犯罪人であった。 茂徳の弁護に当たった家族にとって、極東裁判は、茂徳の命を守るための戦いの場であるとともに、 太平洋戦争がいかなる曲折に基づいて行われたかを歴史に向かって証言する場でもあった。

太平洋戦争が侵略戦争であり、その首謀者は「平和に対する罪」として断罪されねばならないという、 極東裁判検察と多数判決の論理を、我が家では、一秒たりとも肯定したことはなかった。

六〇年代から八〇年代、冷戦の中で、戦前の日本にあった正当なる栄光をとりもどそうとしてきた 動きは、私は、時代の要請に応える必然的なものだったと認識している。(…)

(「第七章 ナショナリズム」より)

書庫(11):岡崎久彦「重光・東郷とその時代」より

(…)東郷茂徳外相は、開戦当初日本国民全体が緒戦の勝利に酔いしれているときから、 早期和平を追求してきた。それは重光葵にも引き継がれたが、その交渉の過程を辿ることは虚しい。 振り返ってみて、現実の可能性がまったくなかったからである。

東郷は、戦争が第一次世界大戦のようにドイツが孤立して英米仏露と戦うことになるのを想定して、 「この戦争における外交戦はソ連の争奪にあり、これを外交の関ヶ原と目し」たが、独ソがすでに 戦っていてはソ連を日本側に引き込むことは困難なので、まず独ソ和平を策した。

時期としては、ドイツがまだ優勢なあいだのチャンスを捉えようとして、一九四二年のドイツの 夏季攻勢の前に何とかしようとしたが、ドイツは、逆に日本の対ソ戦争参加を要求してきた。 こうしてこの計画が進まないうちに、東郷は東条英機内閣を去ってしまった。

重光もこの方針を受け継いだが、結果としてソ連から明白な拒否の意思表示があった。

ソ連は一九四三年十一月のテヘラン会談ですでにドイツ打倒後の対日戦参加の意向を漏らし、 四五年二月のヤルタ密約では、南樺太、千島の引き渡しなどを条件にして、対独戦終了の 二、三ヵ月後の参戦を約している。ヤルタ密約はトルーマン大統領さえ、ローズヴェルトの死後 金庫の中に発見して愕然としたという極秘文書である。これを知る由もない日本はその後も ソ連の仲介による和平工作に期待したが、ソ連が日本からの働きかけにいささかでも心を 動かした形跡は皆無であり、日本側の努力はまったく徒労に帰している。

ただその間、一貫してソ連の仲介を期待することは困難という正確な情勢判断を守った 佐藤尚武駐ソ大使と、それでもどこかに一縷の望みはないかと探求した重光そして東郷外相との 長文電報のやりとりは、ここでは紹介する紙幅もないが、当時の国家戦略論として滋味掬すべきものがある。

(…) 陸海軍の若者たちの特攻も、ソ連を通じる外交工作も、すべて虚しかった。日本が力尽きて 降伏する大勢に影響するところは何もなかった。

そのなかでただ一つだけ、人間の努力が日本の将来を変ええたものは、それは終戦の決断だけであった。

それはまた恐るべき人間の努力を必要とした。振り返ってみれば、昭和の初年以来、戦争と破滅に至る 節目節目で、国内の強硬論を抑える人たちの努力さえ成功していれば危局を避けるチャンスはいくらでもあった。 しかし、結果としてそれは一度も成功していないのである。

降伏の受諾は、いままでのすべての節目に比べても難事業であった。

国民は必勝を信じ、お国のためと思って、すべてをなげうって戦争に協力してきた。そして戦場では、 将兵たちは、あとに続く者あるを信じて、数知れない自己犠牲の英雄的行動を示してきた。 日本人はけっして降伏しない、最後まで戦うのだと教えられてきた。

その価値観を百八十度逆転して、敵に降伏するのである。終戦時、少年だった筆者の経験でも、 敗戦直後私が会った青年たちの半ば以上は、「どうせ負けるにしても、どうしてもっと徹底的に 戦ってくれなかったか?」といっていた。

そして、あらゆる権力も治安も軍の統制下にあった。軍は、もちろん主戦論者である。戦局の不利を 口にするだけで憲兵を恐れなければならない状況だった。

降伏をいう者は、ただちに部下の反乱と死を覚悟していわなければならない雰囲気だった。

そうした雰囲気のなかで、死生を見ること昼夜を見るごとく一身の危険を恐れず降伏を実現したのは、 大局的な洞察力と誠忠の人、鈴木貫太郎、情勢判断の客観性と論理の一貫性をけっして譲らない 理性と信念の人、東郷茂徳、そして終始一貫大勢を見誤らず、いかなる危険にも動じない士、米内光政と、 そして最後に断を下された昭和天皇であった。

真に大事なことはすぐれた人にしかできない。そしてまた、それは一人ではできない。すぐれた人が何人か 要所要所にいて、お互いに信頼と意思の疎通があった場合にしかできない。もしこの四人の誰か一人が 欠けても―たとえ、政策論としては和平派であっても、近衛文麿とか、広田弘毅とか少しでも大勢に迎合する 性格の人がそれに代わっていたならば、あれだけの決断ができたかどうかわからない。あるいは陸軍と妥協して、 余計な条件を追加して、戦争はもう数週間、または数ヶ月、一年やめられず、そのあいだ、北海道など 日本の北部はソ連等の侵攻を許し、国民は空爆と飢餓、あるいは本土決戦の地上戦の惨苦を嘗めなければ ならなかった可能性が大きい。

(…)鈴木は外相を東郷茂徳とした。「よく知らないが、東条に辞表を出して外相の地位を去った事実に 鑑み、意思の強い人と思って頼んだ」という。

東郷は、まず見通しが大事だと頑張った。東郷は「戦争は今後一年続けることも不可能と判断するが、 総理があとニ、三年もつといっている以上は一致協力は困難だ」といって固辞したのである。

客観的情勢判断がまず真っ先で、政策はそこから出てくるという外交の鉄則を一歩も譲らなかった 東郷は立派である。

東郷が受けないので、心配した総理府は鈴木総理の真の胸中を察して受けてほしい、と東郷に 懇願し、鈴木も「戦争の見通しはあなたの考えどおりで結構であるし、外交はすべてあなたの考えで 動かしてほしい」と言質を与えて、ついに東郷は外相就任を受けた。

これで降伏への足固めはもう終わったのである。鈴木が考えたとおり、東郷の不退転の「意思の固さ」が やがて本領を発揮することになる。(…)

(「第十六章 もう、やめねばならない」)

書庫(10):岡崎久彦「重光・東郷とその時代」より

(…)ハル・ノートは、公式には十項目提案と呼ばれる。もともとは英国などに回覧して 意見を求めた暫定案の付属文書であり、暫定案が受諾されたあとで本交渉に入る際の 米国側の基本的立場、それも最大限の要求を記したものである。

それを本文の暫定案から切り離して、それだけを日本側にぶつけたのであるから、 当面の交渉の答えになっているはずもなく、従来の日米間の交渉の経緯をまったく 無視して一方的に米国の最大限の要求だけを突きつけた最後通牒と解されても 仕方ない文書となった。

もちろん公式の宣戦文書ではないが、日本側が交渉打ち切りの通告と 受け取って当然の内容であった。東京裁判でインドのパル判事は当時の歴史家の 文章を引用して、「真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと 同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも 合衆国に対して戈をとって立ち上がったであろう」といっている。

東郷茂徳外相でさえも、「戦争を避けるために眼をつむって鵜呑みにしようとしてみたが 喉につかえてとても通らなかった」と記しているような内容であった。

東郷は、当時の日本の指導者のなかでは例外的に大勢に順応しようとしなかった人物である。 自らの分析と戦略に信念をもち、それに反する妥協には応じない強靭な精神力をもった外務官僚であった。

戦争責任を問われて獄中にあったときの短歌に、

十年あまり火水の中を渉り来ぬ妥協の港に憩らいもせで

唯一つ妥協したるがくやしくも其後のまがつみ凡てはこれに

とある。その「妥協」とは開戦のことであり、また開戦に際しては辞職すべきだったところを 慰留を受けて外相を辞任しなかったことにあると解されている。

(「第十一章 真珠湾へ」)

書庫(9):吉田茂「思出す侭」より

この最後の一文は第六回分(186ページ)と重複する部分もあるが、前回の補完拾遺の意味で 最後に掲げる
ハル・ノートと米英大使
(…)かくて十一月二十三日と思うが、チャーチル首相が議会において、日本政府の態度に 対して強い不満を表示して米国政府の参戦を求めるに至った。そのためクレーギー大使も 戦争必至と考え、日英間の斡旋から手を引き、その後はグルー大使のみが、日米関係について 独り斡旋奔走を続けていた。ところが十一月二十六日付のハル国務長官の覚書が到着するに 至り、グルー大使の奔走は一層目覚しく、平生最も懇意な日本の友人を通し東郷外相に対し、 日本政府の誤解を生ぜざるようにとて、注意を促し、ハル・ノートは決して最後通牒ではなく、 日米両国政府の協議の基礎として認められたることを特に指示し、場合によっては東郷大臣より 会見を求めらるるにおいては、直接その主旨を説明すべしとまで申入れられたのである。
東郷外相への牧野伯の伝言
当時わが政府は日米関係の救うべからざるを観念してか、ハル・ノートを接受したのを機会に、 その訳文に多少手を加え、国民の感情を刺激するようなニュアンスをもったものにして、枢密院に 回付したようである。ノートの原文は日米両政府の主張を対照列配し、さらに特に冒頭に、 これは最後通牒にあらず、両国政府交渉の基礎たらしめんとする試案であるとの意味を 附け加えてあった。勿論これは開戦の場合公表されても差支えないように意を用いて書かれた ものだから、米国政府の主張を明記し、米国側に有利に書き上げた嫌いはあるが、わが政府が 直ちに開戦を決意せず、交渉に応ずる考えがあれば、無論その余地はあったのである。
当時牧野伸顕伯は東郷外相に対して「明治維新の大業は西郷、大久保など薩摩の先輩が 非常な苦心を以て明治大帝を補佐し成就したものである。今日、日米開戦するに至り、 一朝にして明治維新の大業を荒廃せしむるが如きことあらば、その後進たる外相の責任、 先輩に対しても軽からず、これは郷党としてであるが、更に閣僚の一員として和戦の決は 最も慎重なる考慮を要す。この重大なる時に当り外相として出所進退を誤まらざるよう希望してやまず」 という主旨を伝言せしめられた。

後にして思えば、十二月一日の閣議において政府の態度は既に開戦と決定し、それぞれの処置を 了せるため、牧野伯の伝言が十二月一日以前に外相の耳に入りたりとしても時機既に 遅かりしことと思われる。また外相に会いたいとするグルー米国大使の申入れも、仮りに直接面会が 得られたとしても、その時機は既におそかったものの如く、外相は遂に米大使と会談するに至らなかった。 しかしこれを今日より見れば、たとえ政府の態度が決定しおりたりとするも、開戦のその日まで 外国使臣との会談折衝は外相としては避くべきにあらずと思う。第一次世界大戦において、 英国外相グレー氏は独仏両大使との交渉会談や開戦の間際まで続けたという事実がある。 斯かる事実は外務当局者の常に念頭におくべきことであると思う。

牧野伯の意見には、東郷外相も当時強く印象づけられたものと思わるるが、後に終戦内閣の外相として 同じ東郷氏が鈴木首相を助け、事態を収拾して終戦に導き、そのため非常な努力を払われたそうである。 これは東郷外相が開戦に対する責任観念より終戦の外相として時局収拾に死力を尽されたのであると信ずる。
終戦決断へ多大の功績
ポツダム宣言を受諾すべきや否やについては、鈴木首相のほか米内海相、東郷外相は受諾を 主張し、陸相その他は本土決戦をも敢て辞せずとして受諾拒否を主張し、閣議は容易に一致を見る 能わざりしため、最後の閣議は御前において開かれ、鈴木首相は閣議一致せざる故を以て遂に 聖断を仰ぎ、聖断一下、ここに終戦をみるに至ったのである。

東郷氏は寡黙、無表情、無愛想な人である。最終閣議にのぞんだ時の外相の風貌今にして 思いやらるるものがある。終戦促進によって戦禍の拡大を防ぎ得たるは今日においては明かであるが、 終戦にまでこぎつけるためには、鈴木総理の決断が土台になったことは勿論で、その上東郷外相及び 米内海相が総理を補佐してここに至らしめた功績は決して没すべきでない。(…)

(「32 開戦と終戦の頃―東郷外相の苦心を憶う」)

書庫(8):吉田茂「思出す侭」より

東郷外相を訪ねて戦争回避への努力を希望したその足で、私は秩父宮、高松宮両殿下を お訪ねして、ハル・ノートを中心にグルー大使の心情とこれに対する私見をも申し上げ、できるだけ 戦争回避にご努力願いたい旨を懇請した。秩父宮は「それは陛下に直接上奏した方が よくないか」と申されたので私は「許されるならば殿下から申し上げて頂きたい」とお願いしたが、 何ともいわれなかった。高松宮は「君、もう遅いよ」と申されていた。これも無理はなかったわけで、 後から知ったことだが、軍部はすでに行動を開始していた。

連合艦隊は十一月二十二日千島列島沖で待機しており、二十九日の重臣会議を経て 十二月一日の御前会議で正式に一切の手続きがすんでおったのだという。私はこれらの 事態を迂闊にも知らなかったわけである。二日には米国大使館にグルー大使を訪ね、 「東郷外相は貴下との会見を承諾しない」と伝えた。大使はまことに沈痛な面持ちであったが、 「吉田さん、あなたの努力に感謝に堪えない」といった。終戦後発行になったグルー氏の著書に 「当時シゲル・ヨシダは我々のインフォーマントだった」という表現を使っている。内報者というか、 情報提供者というか。とにかくこれでは憲兵隊に狙われたはずである。ともあれ大使は十二月八日 開戦とともに米大使館に軟禁されるまでこの努力を続けていた。東郷外相もさることながら問題は 当時の重臣といわれる人達にもあったと思う。内心は戦争反対の者が多かったにかかわらず、 十一月二十九日の重臣会議で陛下の御下問に率直な意見をいう者が一人としていなかったようである。

無論軍部の強圧に押されたのであろうが、また或いは勝てるかも知れないという淡い希望などが 交錯していたのでもあろうか。それにしても最後の土壇場まで外国使臣と会談すべき立場にある 外務大臣が、開戦までなお日を残していたにかかわらず、グルー大使との会見を拒否したことは、 外務大臣たるもののとるべき態度にあらず、まことに痛恨事であったといわねばならぬ。二十六日の ハル・ノートに対する回答は十二月八日早朝東郷外相からグルー大使に伝えられると同時に 枢密院本会議で対米、英、蘭三国に宣戦布告を決定した。この頃はすでに真珠湾攻撃が 敢行せられているにかかわらず、グルー大使は東郷外相より手交された日米交渉打切りの通告を 二十六日の回答として受け取り、開戦の事実を知らなかったということである。(…)

(「7 真珠湾は奇襲だったか―先方は事前に知っていた!?」)

書庫(7):吉田茂「思出す侭」より

(…)確か十一月二十七日であったと思うが、東郷外相の代理として 現参議院議員の佐藤尚武氏が平河町の私の家を訪ねて来た。 佐藤氏は当時外務省顧問という役目だったと記憶する。 佐藤氏は一通の英文の文書を示し、これはアメリカから来たものだが、 重大なものだと思われるので、お前から牧野に見せてくれという意味の 外相の口上を伝えた。それがいわゆる「ハル・ノート」であった。 内容は日本の主張言分と、それに対するアメリカの主張言分とを詳しく書き (このアメリカ側の主張だけが当時公表された)特に左の上の方に テンタティヴ(試案)と明記し、また「ベイシス・オブ・ネゴシエーション(交渉の基礎) であり、ディフィニティヴ(決定的)なものでない」と記されていた。実際の腹の中は ともかく外交文書の上では決して最後通牒ではなかったはずである。

それだけではなく、グルー米国大使が私のところへ使いを寄越して至急会いたいと いうので、十二月一日虎ノ門の東京クラブで大使に会った。大使は私の顔を見るなり 別室に案内し「ハル・ノートを読んだか」と聞く。私は浪人でもあったし読んだことは読んだが、 当事者ではなかったから「承知している」と答えた。大使は椅子から身体を乗出すようにして 「あのノートを君は何と心得るか」というので、私は「あれはテンタティヴであると聞き及んでいる」 と返答したら、大使は卓を叩いて語調も荒く「まさにその通りだ。日本政府はあれを最後通牒 なりと解釈し、日米間外交の決裂の如く吹聴しているが、大きな間違いである。日本側の言分も あるだろうが、ハル長官は日米交渉の基礎をなす一試案であることを強調しているのだ。 この意味を充分理解して欲しい。ついては東郷外相に会いたい。吉田君から斡旋してもらえないか」という。 せっぱつまった大使の気持ちを察して私はその日、電話で外相に連絡するとともに外務省に 出向いて大使の言葉を伝えた。外相は言葉を濁して会う気配はなかった。会ったらどうなっていたか。 今から思えば結果は同じだっただろう。当時既に奇襲開戦の方針が決定していて艦隊は 早くも行動を起こしていたらしい。外相としては会うのが辛かったのであろうが、外交官としては 最後まで交渉をするのが定跡だと信ずる私としては誠に痛恨に堪えなかった。

東郷外相の依頼を受けて私は通牒の写しを当時渋谷に住んでいた牧野に見せた。 手にとって読んでゆく牧野の顔は次第に険しく「随分ひどいことが書いてあるな」と いいながら黙っている。そこで私は「外務大臣があなたに見せる以上は何か意見を聴きたいという 意味でしょう」というと、暫く考えて「明治維新の大業は鹿児島の先輩西郷や大久保の苦心によって 成就した。この際先輩たちの偉業を想起し慎重に考慮すべきであると伝えよ」という。 戦争すべきではない。先輩の大きな夢を崩すことになるという意味である。私はこの牧野の言葉を そのまま佐藤氏に伝えたところ、氏は眼に涙して「必ず外相に伝達します。私は戦争になれば いまの地位(外務省顧問)をやめるつもりです」といっていた。私はこの写しを当時やはり浪人していた 幣原喜重郎氏にも見せた。私はさらに東郷外相を訪ね執拗にノートの趣旨を説明し注意を喚起した。 東郷は「お説の通り、なお米国側と折衝するつもりでいる」ということであったので、私は少々乱暴だと 思ったが「君はこのことが聞き入れられなかったら外務大臣を辞めろ。君が辞めれば閣議が停頓するばかりか 軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか」とまでいったものである。

(「6 ハル・ノートの秘密―果たして「最後通牒」だったか」)