敷島の大和島根はとことわにしほひしほみちゆるぐことなし
(夢に)
み光は高千穂の嶺に降り立ちて大和島根をあかに照らしぬ
まな子たちわれ今行くもとことわに我は死にせず我れ活きてあり
梅の花咲きて散りなばさくら花つぎて咲くべし大和島根は
いざ児等よ戦ふ勿れ戦はば勝つべきものぞゆめな忘れそ
ゆとりある剣士は敵を誘ひて手出さしめたる后にこそ撃つ
手出さしむ術も自衛の為なりと現状維持の政治家は言ふ
春や来ぬ牢屋(ひとや)の庭の木の蔭に山吹の花咲きいでにけり
地に冩る影をのみ見て天の原大なる宇宙をふりさけ見ずや
地に充てる花も小鳥もいみじきや進化の跡をたどり探れば
天に星地には進化のすがた見て貴きものを感ぜずや君
いつもしも苦しみの果と思ふ時神の来りて救ひたまひぬ
軽薄な人間共がいやになりぬ生き物よりも石にも木にも
2015年2月13日金曜日
2015年2月11日水曜日
書庫(19):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:四月廿五日、イセに
二年を住み慣れし身にはあれど淋しみ襲ふ春の日永に
日毎日毎と會ひたるものを此のしばし會はねば淋し一とせ覚ゆ
百とせの永きにとに非ず一月の過ぎ行くことはあわたゞしくもあれ
人の世は束の間なるを世の人は永年の如くたのみたりける
我さとのつなぎをたちしくろがねの八重の門(と)高く立ち繞らせば
くろがねの八重の門如何に固くとも魂の通ひ路などか絶ゑなむ
軒ばなる雀にもがな麻布なる児等と遊びて後歸りこむ
日毎日毎と會ひたるものを此のしばし會はねば淋し一とせ覚ゆ
百とせの永きにとに非ず一月の過ぎ行くことはあわたゞしくもあれ
人の世は束の間なるを世の人は永年の如くたのみたりける
我さとのつなぎをたちしくろがねの八重の門(と)高く立ち繞らせば
くろがねの八重の門如何に固くとも魂の通ひ路などか絶ゑなむ
軒ばなる雀にもがな麻布なる児等と遊びて後歸りこむ
書庫(18):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:五月三日、文彦に
われはしもあまたの戦さに逢へるかな中にも第一第二世界戦争
科学のみ進歩せし為人類は釣合とれず狂行(たわわざ)ぞする
あなかしこ戦に勝てり其国は機械力あり組織力あり
あな愚か機械力もて天が下しろしめさんと思ひ上れる
形而下の智慧のみ人に先き走り思い上りて狂行(たわわざ)ぞする
科学のみ進歩せし為人類は釣合とれず狂行(たわわざ)ぞする
あなかしこ戦に勝てり其国は機械力あり組織力あり
あな愚か機械力もて天が下しろしめさんと思ひ上れる
形而下の智慧のみ人に先き走り思い上りて狂行(たわわざ)ぞする
書庫(17):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:鹿児島を偲びて
わだつみの底よりたぎつ大浪の薩摩の瀉に遠鳴りのする
地を巻きて荒れたるものがはたと止みぬ颶風の中心今過ぐるらし
颱風のゆける朝あけ静かにて児等は来りて柿の実拾ふ
昔思ふ故郷思ふまし子の父母の許にありし其頃
あまそゝる高千穂の峯は雄々しくも遠つ昔の姿なりけり
地を巻きて荒れたるものがはたと止みぬ颶風の中心今過ぐるらし
颱風のゆける朝あけ静かにて児等は来りて柿の実拾ふ
昔思ふ故郷思ふまし子の父母の許にありし其頃
あまそゝる高千穂の峯は雄々しくも遠つ昔の姿なりけり
2015年2月7日土曜日
書庫(16):東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」より
幼年時代を過ごした東京麻布の洋館。見上げるように高い天井の、二階へ通ずる階段を上がった奥の部屋。
ずっしりと重い木の扉の向こうに、その人はいる。濃い緑かえび茶色の和服を着て、髪は随分と白くなっている。
背はそれほど高くない。眼差しがじっとこちらに注がれている。なにか、暖かいものに包まれているような気がする。
両親に連れられて行った、どこか厳めしい建物。くすんだ色のシャツとズボンのその人の膝の上に乗っている自分。 そばには、丸く白いヘルメットに制服の外国の兵隊さんたちがいる。ある日「おじいちゃまがお家に帰ってくると、 兵隊さんたち、さびしくならないの」と母に言った時の、まわりの大人たちの間に起きた小波のような笑い。
「おじいちゃま」と、子供の頃より呼んでいたその人の直接の記憶は朧である。自らの体験、後になって聞かされた話、 あるいは、当時の写真などを見ているうちに定着したイメージ。そうしたいくつかが、混然とした思い出となって 心の底に残っているだけである。
私が五歳の時に世を去った祖父の記憶がとくに限られているのは、一歳と五ヵ月の時に獄中の人となったからだと思う。
今回、はからずも祖父の伝記を書くことになり、獄中での遺品を整理していた時、祖父が日頃つけていた手帳日記に 五枚の写真が挟みこまれているのを見つけた。いずれも、麻布の家の庭などで遊んでいる幼い私や、双子の弟の写真だった。 当時の私たちが描いたキリンや馬、鉛筆、おもちゃの電話、バスケットなどの絵も雑然とした書類の中に挟まれてあった。
祖父は、獄中から家族にたくさんの手紙を書いている。そのなかには、双子の孫の教育に関し、様々な意見や注意が記述され、 時には率直な愛情が吐露されていた。
「茂坊及和坊のにこにこしたすがたがいつも眼の前に浮かんで来るが、身体も精神も健全に発育するやうに祈って居る」 「兎に角全体としては、正直な、よく働く人間に育て上げる方針が安全である」(二十三年七月七日付)。 「幼年の頃には成人の後には偉い人になるとの奮発心と、他方如何なる場合にも正直に、且つ真直の途を履み進むやうにすることが根本と思ふ」 (同年九月十二日付)。
男の子は、弱虫にならないよう、困難に耐え、精神的にも肉体的にも鍛錬すること、生涯の基礎となるような良い習慣を身につけさせる。 贅沢は最も害をなす―といった原則論から、日本語や日本史、漢字の習得に小さいうちから力を入れておくと良いなど、私の受けた教育を今振り返ると、 「あれは祖父の指示に基づくものだったのか」と思い当たる節が多かった。
軒ばなる雀にもがな麻布なる
児等と遊びて後帰りこむ(二十三年四月)
こどもらのよきたより聞きてセメントの
冷たき室にも熟睡せるかも(二十五年四月)
などの和歌を詠んだ祖父の肉筆を見、獄中の心境を想う時、心中に、熱いものがこみ上げてくるのを押さえることが出来ない。
東郷茂徳。太平洋戦争の開戦と終戦時の外務大臣をつとめ、東京裁判に於て禁固二十年の刑を受け、獄中で死んだ祖父は、 我が家では「絶対」の存在であった。日本を戦争に導かぬよう心血を注ぎ、一旦戦いが始まると、その終結のために身命を捧げ、 本土が戦場となる前に大戦を終わらせ、国と世界を救った―その業績と人に対する畏敬。常に家族を大きな愛情で包んでくれていながら、 身内の誰一人にも看取られることなく、獄中で世を去らねばならなかったことへの無念と怒り。「おじいちゃま」について語られる時、 家族の心の底にはそれらの混じりあった強い感情がいつもあったのではないかと思う。
(「プロローグ」より)
両親に連れられて行った、どこか厳めしい建物。くすんだ色のシャツとズボンのその人の膝の上に乗っている自分。 そばには、丸く白いヘルメットに制服の外国の兵隊さんたちがいる。ある日「おじいちゃまがお家に帰ってくると、 兵隊さんたち、さびしくならないの」と母に言った時の、まわりの大人たちの間に起きた小波のような笑い。
「おじいちゃま」と、子供の頃より呼んでいたその人の直接の記憶は朧である。自らの体験、後になって聞かされた話、 あるいは、当時の写真などを見ているうちに定着したイメージ。そうしたいくつかが、混然とした思い出となって 心の底に残っているだけである。
私が五歳の時に世を去った祖父の記憶がとくに限られているのは、一歳と五ヵ月の時に獄中の人となったからだと思う。
今回、はからずも祖父の伝記を書くことになり、獄中での遺品を整理していた時、祖父が日頃つけていた手帳日記に 五枚の写真が挟みこまれているのを見つけた。いずれも、麻布の家の庭などで遊んでいる幼い私や、双子の弟の写真だった。 当時の私たちが描いたキリンや馬、鉛筆、おもちゃの電話、バスケットなどの絵も雑然とした書類の中に挟まれてあった。
祖父は、獄中から家族にたくさんの手紙を書いている。そのなかには、双子の孫の教育に関し、様々な意見や注意が記述され、 時には率直な愛情が吐露されていた。
「茂坊及和坊のにこにこしたすがたがいつも眼の前に浮かんで来るが、身体も精神も健全に発育するやうに祈って居る」 「兎に角全体としては、正直な、よく働く人間に育て上げる方針が安全である」(二十三年七月七日付)。 「幼年の頃には成人の後には偉い人になるとの奮発心と、他方如何なる場合にも正直に、且つ真直の途を履み進むやうにすることが根本と思ふ」 (同年九月十二日付)。
男の子は、弱虫にならないよう、困難に耐え、精神的にも肉体的にも鍛錬すること、生涯の基礎となるような良い習慣を身につけさせる。 贅沢は最も害をなす―といった原則論から、日本語や日本史、漢字の習得に小さいうちから力を入れておくと良いなど、私の受けた教育を今振り返ると、 「あれは祖父の指示に基づくものだったのか」と思い当たる節が多かった。
軒ばなる雀にもがな麻布なる
児等と遊びて後帰りこむ(二十三年四月)
こどもらのよきたより聞きてセメントの
冷たき室にも熟睡せるかも(二十五年四月)
などの和歌を詠んだ祖父の肉筆を見、獄中の心境を想う時、心中に、熱いものがこみ上げてくるのを押さえることが出来ない。
東郷茂徳。太平洋戦争の開戦と終戦時の外務大臣をつとめ、東京裁判に於て禁固二十年の刑を受け、獄中で死んだ祖父は、 我が家では「絶対」の存在であった。日本を戦争に導かぬよう心血を注ぎ、一旦戦いが始まると、その終結のために身命を捧げ、 本土が戦場となる前に大戦を終わらせ、国と世界を救った―その業績と人に対する畏敬。常に家族を大きな愛情で包んでくれていながら、 身内の誰一人にも看取られることなく、獄中で世を去らねばならなかったことへの無念と怒り。「おじいちゃま」について語られる時、 家族の心の底にはそれらの混じりあった強い感情がいつもあったのではないかと思う。
(「プロローグ」より)
2015年2月5日木曜日
書庫(15):萩原延壽「東郷茂徳 伝記と解説」より
東郷茂徳は独特の癖のある字を書く。やや右肩上がりの、肘をつよく張ったかたちをしていて、いかにも癇のつよそうな、
容易なことでは自分を取り下げそうもない気性の一端が、そこにもすでに見てとれる。あのひとは我がつよいという、
その我がどの点画にもにらみを利かせているような字体である。
昭和二十五年(一九五〇)一月五日、東郷は鉛筆をにぎり、そうした文字に託して、「最後の戦い」を開始した。 回想録『時代の一面』の執筆である。このとき東郷は「A級戦犯」のひとりとして、東京裁判(極東国際軍事裁判)の 下した禁錮二十年の判決を受け、東京巣鴨の拘置所で服役中の身であった。
まず東郷は、「予は茲に予の公的生涯を通ずる期間、即ち恰も第一次世界戦争勃発の頃より第二次世界戦争終末に渉る間に於て、 予が直接見聞せる所並びに関与した事件に就て率直なる叙述を為さんとするのである」と述べ、つづいて「本書の目的は予の自伝にあらず、 又自分の行動を瓣解せんとするのでもなければ、日本政府のとつた政策を瓣解せんとするのでもなく」と、 その立場をあきらかにし、「自分が見た時代の動きを記述するを本旨とし、自己が見聞し且つ活動せる所に就き、外交史的」 と書いたところで、この「外交史的」を「文明史的」とあらため、「主として文明史的考察を行はんとするのである」とことばをすすめた。
それから本題に移り、最初の在外勤務である大正初年の奉天総領事館から叙述をおこし、昭和十六年(一九四一)六月の独ソ戦争勃発の砲をきくところまで、 字数にして約十二万字を大学ノート二冊の両面にぎっしり埋めて、第一部の稿をおえた。起稿後三週間の一月二十七日のことである。
つづいて二月九日、自らも外相として政策決定にふかく関与した日米開戦にいたる経緯に主題を移し、 今度は厚手の罫紙五十一葉の両面に約十二万字をつらねて、これを第二部とした。稿をおえたのは、やはり三週間後の二月二十八日である。
三月一日、東郷はただちに第三部にすすみ、開戦直後の戦時外交から説きおこし、翌昭和十七年(一九四二)九月の外相辞任、昭和二十年(一九四五)四月の外相復帰、 そして、終戦工作に従事して八月十五日を迎えるところまで、第二部とおなじ罫紙三十六葉の両面を使い、これに約七万字をあてて、二週間後の三月十四日に擱筆した。
「(八月)十七日午後、東久邇宮内閣が成立したので、翌十八日午前、外務省及び大東亜省で重光(葵)新任大臣と事務引継ぎを為した上、 両省省員に対し戦争終末の経緯を説明すると共に、両省省員の覚悟に付き希望を述べた」というのが、その最後のくだりである。
この日の日記は簡潔にこうしるしている。
「三月十四日 『時代の一面』、終戦迄一応完了。今ノ処二百五十頁ナルベシ。一月五日着手。」
総計約三十一万字、厳冬の季節に耐え、衰弱した肉体を懸命に支えながら、東郷は約二ヵ月で『時代の一面』を書き切った。(…)
「伝記 東郷茂徳 -その前半生」「序章 戦いの記録―『時代の一面』―」より
昭和二十五年(一九五〇)一月五日、東郷は鉛筆をにぎり、そうした文字に託して、「最後の戦い」を開始した。 回想録『時代の一面』の執筆である。このとき東郷は「A級戦犯」のひとりとして、東京裁判(極東国際軍事裁判)の 下した禁錮二十年の判決を受け、東京巣鴨の拘置所で服役中の身であった。
まず東郷は、「予は茲に予の公的生涯を通ずる期間、即ち恰も第一次世界戦争勃発の頃より第二次世界戦争終末に渉る間に於て、 予が直接見聞せる所並びに関与した事件に就て率直なる叙述を為さんとするのである」と述べ、つづいて「本書の目的は予の自伝にあらず、 又自分の行動を瓣解せんとするのでもなければ、日本政府のとつた政策を瓣解せんとするのでもなく」と、 その立場をあきらかにし、「自分が見た時代の動きを記述するを本旨とし、自己が見聞し且つ活動せる所に就き、外交史的」 と書いたところで、この「外交史的」を「文明史的」とあらため、「主として文明史的考察を行はんとするのである」とことばをすすめた。
それから本題に移り、最初の在外勤務である大正初年の奉天総領事館から叙述をおこし、昭和十六年(一九四一)六月の独ソ戦争勃発の砲をきくところまで、 字数にして約十二万字を大学ノート二冊の両面にぎっしり埋めて、第一部の稿をおえた。起稿後三週間の一月二十七日のことである。
つづいて二月九日、自らも外相として政策決定にふかく関与した日米開戦にいたる経緯に主題を移し、 今度は厚手の罫紙五十一葉の両面に約十二万字をつらねて、これを第二部とした。稿をおえたのは、やはり三週間後の二月二十八日である。
三月一日、東郷はただちに第三部にすすみ、開戦直後の戦時外交から説きおこし、翌昭和十七年(一九四二)九月の外相辞任、昭和二十年(一九四五)四月の外相復帰、 そして、終戦工作に従事して八月十五日を迎えるところまで、第二部とおなじ罫紙三十六葉の両面を使い、これに約七万字をあてて、二週間後の三月十四日に擱筆した。
「(八月)十七日午後、東久邇宮内閣が成立したので、翌十八日午前、外務省及び大東亜省で重光(葵)新任大臣と事務引継ぎを為した上、 両省省員に対し戦争終末の経緯を説明すると共に、両省省員の覚悟に付き希望を述べた」というのが、その最後のくだりである。
この日の日記は簡潔にこうしるしている。
「三月十四日 『時代の一面』、終戦迄一応完了。今ノ処二百五十頁ナルベシ。一月五日着手。」
総計約三十一万字、厳冬の季節に耐え、衰弱した肉体を懸命に支えながら、東郷は約二ヵ月で『時代の一面』を書き切った。(…)
「伝記 東郷茂徳 -その前半生」「序章 戦いの記録―『時代の一面』―」より
2015年2月1日日曜日
書庫(14):東郷茂徳「時代の一面」に附された長詩
憂きことを 二とせ餘り 牢屋にて 過し来りぬ 朝夕に 心を紊す 束縛の とみに多ければ 内わなる
魂こそは 大鳥の 大空の邉に 羽搏きて のぼり行くごと 勢ひの たけけくあれど 旅人の 高き山根に
故郷を かへり見するごと 過ぎ行きし くさぐさのこと 且又は 来るべき世の すがたをも 思ひ浮べつ
春雨の 大地に入りて 諸草を 霑ほすがごと 我胸に 思ひの花を とりどりに 育て上げたり
夜な夜なに 眠れぬ時し ありとても 書きしるすべき 鉛筆も 物見るめがねも 夕な夕なに 持ち去られ 我辺になくに 夜の明けて後 そこはかに しるしたるぞこれ
殊にわれ 稚き時ゆ 東西の 文明のすがた 較べ見て そが調整の すべもがと 心ひろめつ これこそは わが生涯の 業なりと 思い来ぬれば とりわけて 此の方面に つき多く 思ひを馳せぬ
人の子の 育てる時と 所とは いみじくもまた 運命を さししめすかな わが育ちしは 黒潮の めぐる薩摩潟 朝夕に 煙りたへざる 高千穂に 神代を思ひぬ 秋去れば 遠鳴る海ゆ 台風の 天地を動かし 春来れば 霞棚引く 海門に 南国を按ず 風物の 雄々しき中に 大目球 天を敬ひ 人を愛す てふ世の道を 示したる 大南洲の 遺風こそ 身にはしみたり
天地の なりにし始め 人類の 起源に付て くさぐさの 議論はあるも とことわに 空に輝く 月や星 いみじくも 花や草木に さやかなる 進化の跡 誰とてか 自然の奥に いと貴き ものを感ぜぬ 人とてやある
さればこそ 有史以来の 四千年 人類の 進歩のいとど 早くして 絢爛として 輝ける 機械文明 飛行機は 火星に迄も 飛びぬべく 原子弾こそ 人類を 地獄に迄も 苦しめむ 科学の進みは 人類の 心の進歩を 上へ走り 世に禍ひを 齎せし 基とはなれるも いまははや 止むなきやこれ
などか世の 人の運命の 奇しくして 其為す業の はかなしや 戦に勝てる 為ならで 戦をなくする 為の公事 なりと声高く のらせしに 暇もあらせず 第三次 世界戦争 不可避とぞ 叫びちらして 御互に 相手の罪を 数へあげ 今度の戦こそ ボタン一つ 押してたゞちに 始まること と公言しつ 且つは又 原子爆弾 黴きんと 使用禁止の 約束に かゝはることなく 公然と 使用すべしと 説き立てゝ 戦さの瀬戸に 押て来し ものとぞ見ゆる
これもよし 時の動きと 且つは又 諸大国の 不可避的 状勢と 見るべきなれど 裁判の 目あてと呼びし 戦さの廃棄は これはそも 如何なりたる 又かゝる 動きのさまに 司直者は 耳を掩ひてか 判決に いそしみ居るや たわごとの さても空しき 業なれや 時に折に不図 われはなど こゝにありやと いぶかしみ 世のしれごとを あざ笑ふ ことのあればこそ ああこれ 勝ちし国の 己れらに 都合よかれの 業にして 神の目よりせる 正義のしるし 今はまた 何処にぞありや 思へ人々
世の人の 尊敬と信頼を 裏切りて 本務にいそしまず 敵国の 能力(ちから)を無視し 古びたる 日露戦争の 隋性にて 進歩せる 戦術を 考ふる愚かさ 政治上の 欲望のみ 強く働き 民衆を 眩惑するに 巧みなり 戦さに敗けはせずと 公言せし 其無知と無責任は いみじくも 緒戦に酔ふて 自己の権勢を 固めんと 反抗する者は 府中宮中団結して 排除す すめらぎも 遂には軍の云ふ所信じ難し とさへ仰せらる かゝる軍部の 空疎な頭 自衛的権勢欲に 国の運命を 託せしことの 如何に不幸なりしよ
夜な夜なに 眠れぬ時し ありとても 書きしるすべき 鉛筆も 物見るめがねも 夕な夕なに 持ち去られ 我辺になくに 夜の明けて後 そこはかに しるしたるぞこれ
殊にわれ 稚き時ゆ 東西の 文明のすがた 較べ見て そが調整の すべもがと 心ひろめつ これこそは わが生涯の 業なりと 思い来ぬれば とりわけて 此の方面に つき多く 思ひを馳せぬ
人の子の 育てる時と 所とは いみじくもまた 運命を さししめすかな わが育ちしは 黒潮の めぐる薩摩潟 朝夕に 煙りたへざる 高千穂に 神代を思ひぬ 秋去れば 遠鳴る海ゆ 台風の 天地を動かし 春来れば 霞棚引く 海門に 南国を按ず 風物の 雄々しき中に 大目球 天を敬ひ 人を愛す てふ世の道を 示したる 大南洲の 遺風こそ 身にはしみたり
天地の なりにし始め 人類の 起源に付て くさぐさの 議論はあるも とことわに 空に輝く 月や星 いみじくも 花や草木に さやかなる 進化の跡 誰とてか 自然の奥に いと貴き ものを感ぜぬ 人とてやある
さればこそ 有史以来の 四千年 人類の 進歩のいとど 早くして 絢爛として 輝ける 機械文明 飛行機は 火星に迄も 飛びぬべく 原子弾こそ 人類を 地獄に迄も 苦しめむ 科学の進みは 人類の 心の進歩を 上へ走り 世に禍ひを 齎せし 基とはなれるも いまははや 止むなきやこれ
などか世の 人の運命の 奇しくして 其為す業の はかなしや 戦に勝てる 為ならで 戦をなくする 為の公事 なりと声高く のらせしに 暇もあらせず 第三次 世界戦争 不可避とぞ 叫びちらして 御互に 相手の罪を 数へあげ 今度の戦こそ ボタン一つ 押してたゞちに 始まること と公言しつ 且つは又 原子爆弾 黴きんと 使用禁止の 約束に かゝはることなく 公然と 使用すべしと 説き立てゝ 戦さの瀬戸に 押て来し ものとぞ見ゆる
これもよし 時の動きと 且つは又 諸大国の 不可避的 状勢と 見るべきなれど 裁判の 目あてと呼びし 戦さの廃棄は これはそも 如何なりたる 又かゝる 動きのさまに 司直者は 耳を掩ひてか 判決に いそしみ居るや たわごとの さても空しき 業なれや 時に折に不図 われはなど こゝにありやと いぶかしみ 世のしれごとを あざ笑ふ ことのあればこそ ああこれ 勝ちし国の 己れらに 都合よかれの 業にして 神の目よりせる 正義のしるし 今はまた 何処にぞありや 思へ人々
世の人の 尊敬と信頼を 裏切りて 本務にいそしまず 敵国の 能力(ちから)を無視し 古びたる 日露戦争の 隋性にて 進歩せる 戦術を 考ふる愚かさ 政治上の 欲望のみ 強く働き 民衆を 眩惑するに 巧みなり 戦さに敗けはせずと 公言せし 其無知と無責任は いみじくも 緒戦に酔ふて 自己の権勢を 固めんと 反抗する者は 府中宮中団結して 排除す すめらぎも 遂には軍の云ふ所信じ難し とさへ仰せらる かゝる軍部の 空疎な頭 自衛的権勢欲に 国の運命を 託せしことの 如何に不幸なりしよ
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