來むとする凡てを避けず吾れはしも來るが侭に受取るものぞ
さもあれや人類の爲としあれば更に厭はず死の座につくも
百度(ももたび)も死にせしならむ既にわれ神の護りのなかりしなれば
獄卒の仕業如何にも意地わるし虫けらどもと思へばこそ
萬有は空っぽなるぞ汝れの身は水沫(みなは)に過ぎず慾を謹め
人の身は川瀬に浮ぶ水沫(みなは)なり其河水も流れて息まず
死の森はいとも靜けし魔の影ぞ之をみにくゝおそろしくする
我命十度も既に亡びたり神の護りのなかりしなれば
我命あぶなき事の多かりき神の護りのありたればこそ
鐡窓に磨硝子あり遠妻(家人)のしのばむ月も見えがてにして
梅雨の日に爲すこともなく暮らしつゝ思ひ出すことのさも多いかな
あな哀れ相互信頼の心無く唯協力を口ぐせにする
2015年3月21日土曜日
2015年3月17日火曜日
巡礼(6):青山霊園 2015年3月17日
2015年3月8日日曜日
書庫(26):東郷茂徳『時代の一面』あとがき草稿(萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』所収)
終戦と共に我終生の事業は成し遂げたので、更に欲求する所は無い気持であつたが、
東久邇宮に外相就任を辞退した際に申述べた戦争犯罪人の問題が間もなく起つて来たので、
更に一波瀾を見ることになつた。本問題に関する決定及び独逸の実例をも承知して居るので、
本件に連座することになると豫想して居たが、果して九月、
終戦前からの病気を養ふて居た軽井沢で令状の発布があつたとの通知に接して帰京した。
病気の為暫時自宅療養を許されたが、一九四六年四月末日起訴状の送達を受けて、
五月一日巣鴨拘置所に拘禁された。裁判は五月三日以来開始せられ、
一九四八年十一月十二日全被告に対する判決の言渡しがあつた。
裁判の結果は自分達の申立ての多くが認められないので、六人の被告は絞首刑の宣告を受け、
多くの者が終身禁錮の重刑を課せられた。自分は禁錮二十年と言ふので、
獄裡に春秋を送つて居る訳である。
人生の浮沈誠に期し難きものがあるが、凡ての事は暗黒面があると同時に光明面を有する。 此裁判に対する自分の気持は平かならざるものが尠くないのは当然であるが、自分の半生の事業については、 回想し且つ其幾分かは法廷を通して天下に明かにする機会を得ることになつたのは、 自分にしては寧ろ望外の幸であつた。なぜかなれば、若しかかる境遇にならなければ、 自分は左程深く過去を想ひ出すことがなく、又左程公に表現することがなかつただろうと思ふからである。
自分が少壮年時代に孔子の教で教育され、巧言令色仁鮮しと言ふ風に寡言質実を旨とし、 又西郷南州に私淑した結果、誠意は自ら神明に通ずるので、宣伝も弁明も不必要であり、 凡て事を行うに人を相手にするやうでは駄目で、天を相手にすべきであるといふ風に育てられたので、 自分の為た事を吹聴せぬは勿論、弁明するのも男らしくないことになつて居たのである。 然るに裁判(東京裁判)となれば、弁明も弁論もしなくてはならぬことになつた訳で、宣誓口述書も作成するし、 証人台にも立つたのである。そして又そう言ふことが機因となり、習慣となつて、 ここに回想した所を書き陳ねて見やうとの気持になつたのであるから、 裁判が自分に与へた好都合の一つと言つてもいいだろうと思ふ。
扨て書き陳ねるとしても、前の吹聴、弁明したくない傾向は今にも残つて居るので、前書きにも述べたやうに、 自叙伝とか回想録とかせずに、 自分が躰験又は見聞した所を文明史的見地から叙述したい意図の下に発足したのであつた。 然るに筆を進めて見ると、やはり自己中心の描寫となり、又時としては自己弁明にもなることになつた、 これは執筆開始後、一、二日本人の著作及び雑誌記事を閲覧する機会が到来したが、 その内に自分の行動に関係する部分があり、且つ誤謬を包蔵して居るものが多いので、 之を是正しやうと考へたのが一因である。自分の趣味からすれば、このやうな論難は不愉快であるが、 裁判にも一つ同様の経験があつたが、賣られた喧嘩は買はずばなるまいとの気持になつたことも事実である。 しかし自分の現下の境遇上、何時になつたら本書が公刊せられ得るのかの予想は更に有し得ないのであるから、 前記の弁解やら議論やらは出来る丈け控え目にしたやうな訳である。
人生の浮沈誠に期し難きものがあるが、凡ての事は暗黒面があると同時に光明面を有する。 此裁判に対する自分の気持は平かならざるものが尠くないのは当然であるが、自分の半生の事業については、 回想し且つ其幾分かは法廷を通して天下に明かにする機会を得ることになつたのは、 自分にしては寧ろ望外の幸であつた。なぜかなれば、若しかかる境遇にならなければ、 自分は左程深く過去を想ひ出すことがなく、又左程公に表現することがなかつただろうと思ふからである。
自分が少壮年時代に孔子の教で教育され、巧言令色仁鮮しと言ふ風に寡言質実を旨とし、 又西郷南州に私淑した結果、誠意は自ら神明に通ずるので、宣伝も弁明も不必要であり、 凡て事を行うに人を相手にするやうでは駄目で、天を相手にすべきであるといふ風に育てられたので、 自分の為た事を吹聴せぬは勿論、弁明するのも男らしくないことになつて居たのである。 然るに裁判(東京裁判)となれば、弁明も弁論もしなくてはならぬことになつた訳で、宣誓口述書も作成するし、 証人台にも立つたのである。そして又そう言ふことが機因となり、習慣となつて、 ここに回想した所を書き陳ねて見やうとの気持になつたのであるから、 裁判が自分に与へた好都合の一つと言つてもいいだろうと思ふ。
扨て書き陳ねるとしても、前の吹聴、弁明したくない傾向は今にも残つて居るので、前書きにも述べたやうに、 自叙伝とか回想録とかせずに、 自分が躰験又は見聞した所を文明史的見地から叙述したい意図の下に発足したのであつた。 然るに筆を進めて見ると、やはり自己中心の描寫となり、又時としては自己弁明にもなることになつた、 これは執筆開始後、一、二日本人の著作及び雑誌記事を閲覧する機会が到来したが、 その内に自分の行動に関係する部分があり、且つ誤謬を包蔵して居るものが多いので、 之を是正しやうと考へたのが一因である。自分の趣味からすれば、このやうな論難は不愉快であるが、 裁判にも一つ同様の経験があつたが、賣られた喧嘩は買はずばなるまいとの気持になつたことも事実である。 しかし自分の現下の境遇上、何時になつたら本書が公刊せられ得るのかの予想は更に有し得ないのであるから、 前記の弁解やら議論やらは出来る丈け控え目にしたやうな訳である。
ラベル:
「東郷茂徳 伝記と解説」,
時代の一面,
書庫,
東郷茂徳,
萩原延壽
2015年3月7日土曜日
書庫(25):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:本條氏に
あな静か死生一如の坂越へて春の野原に暫したたずむ(野道に独り休息へり)
若き日の望みと過(い)にし現実のくひ違ひたるがいとおもしろし
朝な朝な憂き事の増す世の中と思ひ定めて暮らしきにけり
現し身は牢屋(ひとや)にあれど雄心は翼を高み天かけり行く
久方の大空照す御光に凡てが生り行くさまのめでたき
春過ぎて夏来にけらし世田ヶ谷の杉の木立ゆ雲立ち見ゆる
朝の内に朝顔の苗分ち植ゑ今日一日を心静かに
とりどりに咲きて出づべき花の園たまには遅るゝことのよろしき
若き日の望みと過(い)にし現実のくひ違ひたるがいとおもしろし
朝な朝な憂き事の増す世の中と思ひ定めて暮らしきにけり
現し身は牢屋(ひとや)にあれど雄心は翼を高み天かけり行く
久方の大空照す御光に凡てが生り行くさまのめでたき
春過ぎて夏来にけらし世田ヶ谷の杉の木立ゆ雲立ち見ゆる
朝の内に朝顔の苗分ち植ゑ今日一日を心静かに
とりどりに咲きて出づべき花の園たまには遅るゝことのよろしき
書庫(24):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:四月下旬より五月中旬迄に
わびしくも今日は暮らしつ天垂るゝ梅雨の日永を如何くらさむ(判決、六月末に延期せる由聞きて)
遠妻の夜寒に今は何にすらむ風邪をな引きぞ安らけくあれ
百萬の民衆の声高鳴りす強く雄々しく正しく進め(メーデー、宮城前にて)
春潮の満ち干に漂ふ船の如とせんすべなくに雄心失せし(五月五日)
いつもしも神とともにしあるからに淋しはあらじ光り身に満つ
遠妻の夜寒に今は何にすらむ風邪をな引きぞ安らけくあれ
百萬の民衆の声高鳴りす強く雄々しく正しく進め(メーデー、宮城前にて)
春潮の満ち干に漂ふ船の如とせんすべなくに雄心失せし(五月五日)
いつもしも神とともにしあるからに淋しはあらじ光り身に満つ
2015年2月21日土曜日
書庫(23):東郷茂徳「時代の一面」附録の短歌(Ⅰ)より:五月二日、文彦に
さればとて世に虚言(そらごと)の多いかな誤解と共に凶(まが)事つくる
そらごとを見破る機械出来もせば此世は余程住みよくならぬ
天下第一等の人ならばやと五十年余を行(ぎょう)じ来たりぬ
二とせを「ドッグ」に居ても天が下第一等を忘れかねたる
わだつみの水沫の如しもろもろの弱くはかなき人の力は
二とせの囚れの夕べ雨降りて空もとゞろに荒れてありにき
今日はしもさつきの光りみち足りて野の花さはに咲きて匂へり
そらごとを見破る機械出来もせば此世は余程住みよくならぬ
天下第一等の人ならばやと五十年余を行(ぎょう)じ来たりぬ
二とせを「ドッグ」に居ても天が下第一等を忘れかねたる
わだつみの水沫の如しもろもろの弱くはかなき人の力は
二とせの囚れの夕べ雨降りて空もとゞろに荒れてありにき
今日はしもさつきの光りみち足りて野の花さはに咲きて匂へり
書庫(22):牛村圭『「文明の裁き」をこえて』より
(…)すでに本章でとりあげた『昭和の精神史』は七年の思索の結晶と呼べるのに対し、
この「ローリング判事への手紙」に綴られた竹山の思いは、判決から半年少々しか
経っていないこともあってか、東京裁判が与えた衝撃の余燼が感じられる作品になっている。
たとえば、開戦を阻止することを自らに誓って東條内閣に入閣し、最後まで日米交渉成立、
開戦回避に努めつつも、結局は開戦内閣の一員になってしまった東郷茂徳についての
記述である。竹山は、日本人被告の名を誰一人として出さぬまま書きすすめているが、
前後の文脈から東郷のことであるのは明らかである。
次のような比喩を用いつつ、彼を評価しようとした。
あの当時にあってのもっとも正しい男性的な態度は、むしろ相手の中にとびこんで、 その組織の中からはたらくということでした。―今われらの国は軌道を外れて盲目的に 驀進しつつある汽車のようなものだ。所詮停めることができない汽車ならば、 ただその後尾の客車に坐って不平をいったり蔭口をきいたりしているよりも、 むしろすすんで機関車に入って、無謀な運転手の手をおさえて、車を軌道にのせるべく努力すべきだ。 ―これが有効な結果を生みうる、残された唯一の道でした。邪悪なものと協力することによって 全体を救う、これがもっとも良心ある人のなすべきことでした。もしかりに戦争の勃発がふせがれえたとしたら、 それはただこうした人々によってのみなされえたので、手の清い人からそれをのぞむことはできませんでした。
あの条件の下にあっては、もっとも罪なきものであることは、共に罪を犯すことでした! 共犯者となることでした![D・261]
これは「手紙」というより「訴状」という言葉を想起させる、実に熱のこもった訴えの文面である。 竹山道雄の、穏やかで、時に淡々とも言える文体に慣れ親しんでいる読み手ならば、 次々と岸辺に押し寄せてくる大波の如き激しいリズムの反復に、圧倒されよう。 東京帝大独文科出身の外交官東郷茂徳は、竹山道雄にとって同窓の「先輩」にあたる。 もちろん、それが理由で彼がかくも熱をこめて東郷論を展開したのではなかろうが、 この東郷の努力を何ら顧慮することなく禁固二十年の刑を下した公式判決への、 竹山のいまださめない憤りが伝わってくる。『昭和の精神史』の表現を借りるならば、 「多くの非合理な痴愚の絶頂」[C・123]への忿懣である。 旧敵国人である自分を信頼して、公判中にも裁判について意見をもとめてきた元判事に、 竹山道雄も正直に胸の内を、こう書き記した。そして、こういう竹山の胸のつかえを解消してくれるかのように、 レーリングが東郷の努力を認め、無罪と判定したのを「まことに感謝にたえぬこと」[D・262] とはっきり活字にした。当時、東郷茂徳は巣鴨プリズンで服役中、病魔と戦いつつ回想録 『時代の一面』執筆に取り組んでいた。所持品、差し入れ品等厳しい制限を受けていた虜囚の身の彼が、 レーリングの個別意見書に目を通したという記録はない。 まして、この竹山の一文が載った『新潮』を入手することもなかったろう。 しかし翌年、『時代の一面』の草稿完成直後病死する東郷に、 レーリングと竹山のこの「東郷論」を読ませてやりたかった、 とまで思わせるくらいに竹山の文章には熱がこもっている。
(…)
(「第5章 竹山道雄と東京裁判」より)
あの当時にあってのもっとも正しい男性的な態度は、むしろ相手の中にとびこんで、 その組織の中からはたらくということでした。―今われらの国は軌道を外れて盲目的に 驀進しつつある汽車のようなものだ。所詮停めることができない汽車ならば、 ただその後尾の客車に坐って不平をいったり蔭口をきいたりしているよりも、 むしろすすんで機関車に入って、無謀な運転手の手をおさえて、車を軌道にのせるべく努力すべきだ。 ―これが有効な結果を生みうる、残された唯一の道でした。邪悪なものと協力することによって 全体を救う、これがもっとも良心ある人のなすべきことでした。もしかりに戦争の勃発がふせがれえたとしたら、 それはただこうした人々によってのみなされえたので、手の清い人からそれをのぞむことはできませんでした。
あの条件の下にあっては、もっとも罪なきものであることは、共に罪を犯すことでした! 共犯者となることでした![D・261]
これは「手紙」というより「訴状」という言葉を想起させる、実に熱のこもった訴えの文面である。 竹山道雄の、穏やかで、時に淡々とも言える文体に慣れ親しんでいる読み手ならば、 次々と岸辺に押し寄せてくる大波の如き激しいリズムの反復に、圧倒されよう。 東京帝大独文科出身の外交官東郷茂徳は、竹山道雄にとって同窓の「先輩」にあたる。 もちろん、それが理由で彼がかくも熱をこめて東郷論を展開したのではなかろうが、 この東郷の努力を何ら顧慮することなく禁固二十年の刑を下した公式判決への、 竹山のいまださめない憤りが伝わってくる。『昭和の精神史』の表現を借りるならば、 「多くの非合理な痴愚の絶頂」[C・123]への忿懣である。 旧敵国人である自分を信頼して、公判中にも裁判について意見をもとめてきた元判事に、 竹山道雄も正直に胸の内を、こう書き記した。そして、こういう竹山の胸のつかえを解消してくれるかのように、 レーリングが東郷の努力を認め、無罪と判定したのを「まことに感謝にたえぬこと」[D・262] とはっきり活字にした。当時、東郷茂徳は巣鴨プリズンで服役中、病魔と戦いつつ回想録 『時代の一面』執筆に取り組んでいた。所持品、差し入れ品等厳しい制限を受けていた虜囚の身の彼が、 レーリングの個別意見書に目を通したという記録はない。 まして、この竹山の一文が載った『新潮』を入手することもなかったろう。 しかし翌年、『時代の一面』の草稿完成直後病死する東郷に、 レーリングと竹山のこの「東郷論」を読ませてやりたかった、 とまで思わせるくらいに竹山の文章には熱がこもっている。
(…)
(「第5章 竹山道雄と東京裁判」より)
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「文明の裁き」をこえて,
牛村圭,
書庫
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